晴れ雨の傘

宵月 夢

泣いていたのは

「あ~……」


そう声に出さずにはいられなかった。

じっとしていても汗ばんでくる。そんな季節に、俺は約一年半付き合っていた子にフラれてしまっていた。


喧嘩をしたわけではない。正直何が悪いなんて分からない。

バスケ部部員と、そのマネージャーというよくありそうなカップルだった。公私混同はせず、まともな会話をするのは部活が、終わってから。夏休みも終わりに近づき、いつものように一緒に帰っていたら、突然別れを告げられたのだ。


『つまらない……。刺激がないの。それに、あたしたち噛み合わない気がするんだ。ごめん、別れよ』


いつもは家まで送るのだが、もういいとその場で断られ、一人バス停まで歩いている最中である。いつもより景色が滲んで見えるのは、いつもと違う時間だからだろう。


「……なんなんだよもう……」


そんな強がりを嘲笑うかのように、気がつけば涙が頬を伝っていた。高二にもなって、フラれたくらいで泣くなんてしたくなかったが、心の傷は思っていたよりも深いらしい。

そして気づく。こんなに傷つくほど、自分はあいつを好きだったのだということを。


「……ずびっ」


バス停が見え始め、そこに人影があることに気付き、肩にかけていたタオルで慌てて顔を拭く。泣いてることを知られたくなんかなかったし、そこにいるのが女だと思ったからだった。

いつもと時間が違うため、携帯を取り出して時計を見ながら時刻表を見る。結局いつも乗っていたやつしかなく、一時間待ちとなってしまった。


明日からは時間を考えて練習を切り上げなければ。そんなことを考えながら、ちらりと俺はベンチに座る人物を見た。

ベージュ色の短パンから覗くスラリとした足は白く、夏らしいサンダルを履いている。少し大きめのシャツが、風で時折揺れていた。顔立ちは女っぽいが、女子にしては髪が短い上、座っているため断定は出来ないが身長が高い。俺くらいはある。歳もあまり変わらないだろう。


「っ……」


その時、その人物とぱちっと目があってしまった。ちょっと盗み見るつもりが、いつの間にか眺めてしまっていたらしい。だが相手は気にしないどころか、にこりと微笑みかけてきた。気恥ずかしくなった俺は、すぐにそいつから目をそらしてベンチの端へと腰かけた。正直かなり気まずい。


ただでさえ落ち込んでいた気持ちがさらに沈み、気をまぎらわそうと携帯を開きネットへと繋いだ。だが、回線が混雑しているのか中々と読み込まない。


苛立ちが募り、何度も更新ボタンを押していたら、突然ばっ!という音が隣りから聞こえてきた。

驚いて落としかけた携帯を慌てて握りしめ、音がした方を見てみると、隣にいた例の人物がなぜか傘を広げていたのだ。今のは傘を開いた時の音だったのだろう。 というか、なぜ傘なのだろうか。日傘ではなく、あれは立派な雨傘だ。しかもこのバス停にはちゃんと雨避けがある。空には雲なんて一つもない。


つまり、雨傘を広げる必要なんてない。

もしかしたら傘が壊れていないか点検しているのかもしれない。そう思ったのだが、その人はそういった素振りも何もなく、まるで雨が降っているかのように傘を肩に担いでしまった。しかもどこか楽しそうに、くるくると回しながら。


「……あ、ごめん。驚かせちゃった?」


「っ……い、いや……。その……」


どうやらまた見つめてしまっていたらしい。困ったような表情と声にどう反応したらいいのか分からず、俺は口ごもる。その反応が面白かったのか、そいつはくすくすと口に手を当てて笑った。


「なんで……」


「ん?」


気がつけば声が口から漏れ出ていた。


「雨も降ってないのに傘なんか……?」


この問いかけに、相手は一瞬きょとんとなった。そしてすぐさま笑みを浮かべ、傘へと視線を上げる。浮かび上がった喉仏から、俺はなんとなくこいつは男なんだろうなと思った。


「降ってはいないけどね・……どしゃ降りなんだよ。気持ちが、ね」


「気持ちが……?」


「うん。君は違うの?」


「えっ?」


一瞬なにを言われているのか全く理解できなかった。理解できなかったのに、俺の心はズキリと痛みをはらむ。それが表情に出ていたのか、そいつはふっと悲しげな笑みを見せた。


「雨、降ってるみたいだね。どう?入る?」


そう言うと、そいつは自分の隣をぽんぽんと叩いた。言われるがままに移動し、傘の中へと入る。こいつが何者だとか、何をやってるんだろうという疑問は、いつの間にか無くなっていた。


「目に見えないところの雨は、誰も分からないものだよね。実際には降ってないんだし。だから僕は、こうやって傘を差して考えるんだ」


「……何を?」


「どうしたらこの雨は止むんだろうって。でも僕にはどうすることもできない。ただ、止むのを待つだけさ。早く晴れないかなーって」


「そっか」


他に返す言葉が見つからなかった。それきり、そいつは黙ってしまい、二人で陽射しが降り注ぐアスファルトを見つめる。会話があれば気が紛れたのだろうが、何もない時間は思考の渦を招く。

そうして俺が思い出すのは、さっき負ったばかりの心の傷だった。ああ、雨が降るっていう表現がどことなく理解できた気がする。


「……泣きそう?」


その時、それまで黙っていたそいつが突然口を開いた。まるで俺の心を見透かしたような言葉に驚くと同時に、核心を突くそこ言葉に一瞬息が詰まるのを感じる。


「……泣かねーよ、別に」


精一杯だった。声が震えている事は気付かれているだろうか。泣きそうなことかバレないかが心配で、俺はぎゅっと拳を握りしめる。


「……そっか」


だが、そいつはそれ以上何も言わなかった。安心と同時に込み上げる悲しみ。こいつなら、俺がしんどいことに気づいてくれるかもしれない。

ついさっき出会ったばかりのこいつに、まるで昔から一緒にいる親友のような感情をその時俺は抱いてしまっていた。なぜかは分からない。そいつの口調や雰囲気のせいなのかもしれないし、もしかしたら昔かたぎどこかで会ったのかもしれない。


「泣いても良いよ?僕は気にしないし」


どうやら気遣ってくれたらしい。ここまで言われると、そんなに泣きそうな顔をしているのだろうかと不安になってくる。今思えば、意地になっていたのかもしれない。そういう年頃でもあったし。


「高二もなって、男がフラれて泣くなんてダサいだろ」


女じゃあるまいし。そう言うと、そいつはほんのちょっぴり切なそうな顔をした。


「自分の心には素直にいこうよ。女々しいとかさ、男らしいとかさ、そんなのどうでも良いじゃん。傷ついて、それが痛いって言って何が悪いのさ」


確かに、そいつが言う通りだった。そうか、俺は傷ついているのか。だから、こんなにも胸が苦しくて切ないのか。


「君は傷ついて泣くことを女々しいと思うの?」


「……なんか、そんな感じがするから」


聞かれてみると、別になんてことないことだったんだなと気付かされる。ばつが悪そうにそう言うと、そいつはまた笑った。


「素直だね。君がそう思うんなら、僕はもうちょっと強くなれそうだな」


「どういう意味だ?」


「内緒」


そう言うと、そいつはくるくると傘を回して遊び始めた。それをじっと眺めて思う。もしかしたらこいつには、降り注ぐ雨が見えているのかもしれないなと。


「……雨、まだ降ってるのか?」


「うーん……そうだね。さっきよりは小降りかな?すごかったんだよー。まあ、最近は曇り気味だったけど、急な土砂降り」


「そりゃ大変だったな」


現実でそんなことになったら、きっと俺は悪態をついている。こんな風に楽しそうには言えないだろう。


「でもたまには雨も降らないとね。育たないし」


植物のことだと思った。雨は降ったらちょっと面倒だけど、草木が成長するための大切なものだ。そいつの話を聞きながら、ぼんやりとそんなことを考える。先ほどまではあんなに痛かった胸が、少しだけ楽になったような気がした。


「なあ、そういえばお前ってこの辺りの奴?見たことないけど……」


「違うよ。あ、でもそうだなー……そうなるのかなあ?バス三つ分ぐらい離れてるかな」


「マジ?じゃあ案外家近かったりして」


冗談交じりにそう言うと、そいつはふわりと微笑んだ。まるでそれが肯定のようにも思え、驚いた俺はどこに住んでいるのか聞きだそうとした瞬間――


「あ、そろそろいかなくちゃ。――大丈夫。傘ならいつでも準備してるよ。でも、早く晴れてほしいかな」


「え?」


『――日比野経由、妻是利行きです』


ノイズ混じりの案内の声に、俺はびくりと体を跳ねさせた。いつの間にか、乗らなくてはならないバスが目の前に来ていたのだ。慌てて定期を探しながら、はっとなって横を見てみてもそこには誰もいない。


『乗られますかー?』


「あ、はい!乗ります!」


あいつはどこに行った。周囲を確認する暇もなくバスに乗り込み、すぐさまバス停周辺を探してみるが人一人いない。


『発車いたします』


運転手の一言を合図にバスは動き出す。仕方なく、空いている席がないかを探した俺は、後方の席に知った顔が手をふっていることに気付き、バスが赤信号で停止しているうちに移動する。


「よ、部活帰りか?」


「おう。そっちもか」


同じクラスの友人だった。鞄が置いてあった隣の席にお邪魔し、ふうっと息をつく。


「お前がバス停いるときから、ずっと手振ってたんだぜー?気づかなかったか?」


「いや?――なあ、お前俺の隣で傘差して座ってたやつが、どこに行ったか知らないか?」


突然の質問に、友人は目を丸くした。


「は?いや、いなかったけど……そんなやつ」


「いなかった……?」


「バス停、お前一人だったじゃん。バス停に着く少し前から眺めてたけど、着く前も着いてからも、お前一人だったぜ?大丈夫か?」


友人の言葉に呆然となった。軽く浮かせていた腰を下ろし、前を向き直り全身から力を抜くと、様子が普通じゃなかったのか友人が心配そうに覗き込んでくる。


「大丈夫だ……」


「そうか?なら良いんだけどさ」


それ以上、そいつは何も聞いてこなかった。確かにあの時俺はあいつと話をしていた。けれとあいつはいなかった。そしてあいつとの会話の内容。それらから生まれる一つの答え。


「なあ」


「んー?」


携帯をいじる友人を見て、俺もずっと握りしてめていた携帯を開く。メニューを開いて、更新ボタンを押した。


「明日も晴れるかな」


「知らん!グーグルに聞けグーグルに」


携帯には、いつも暇つぶしをしている掲示板がちゃんと表示されていた。

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