第195話 山岳地帯を征く
バシャバシャバシャ、バシャバシャ……。
薄暗い山中に、水音が響く。
所々で松明が掲げられ、男たちが小川を渡る。
ここはラグリフォート領、北部の山岳地帯。
エウリアスは千人の兵士と、三百人の騎士を従え、ゲーアノルト救出作戦を開始した。
東隣のムルタカ領に向かう場合、通常はレングラーの町から東に延びる街道を使う。
だが、捕らえた先遣隊の隊長と、発見した資料から街道は警戒されていることが分かった。
これは当然の対応だろう。
敵はゲーアノルトを人質に取り、ラグリフォート領主軍を押さえ込んだが、反抗される可能性は普通にある。
そして、その場合に街道を使って領主の奪還に動くのは、敵としても想定済みだ。
そのため、街道には多くの兵を配置し、ラグリフォート領主軍が動いたことを一早く掴もうとしていた。
反抗を抑えるためにゲーアノルトを人質に取ったが、反抗されたら処刑してしまえばいい。
これにより、そもそもの反抗する目的が潰えることになるのだから。
この情報を得たことで、エウリアスは街道を使うのはリスクが高いと判断した。
そのため、前日のうちに百人の兵を使い、北の山中を抜けるルートを確保させた。
ラグリフォート領の北部の山岳地帯にも村はあるが、ムルタカ領に抜ける道はない。
ただし、川がある。
この川を下り、ムルタカ領に侵入するルートをエウリアスは選んだ。
ラグリフォート領の山には、物見櫓や山小屋を設置し、外からの侵入に備えている。
敵も当然これらを活用し、警戒していた。
その部隊を、前日に潰しておいたのだ。
レングラーの駐屯地から一旦北へ行き、山中では川岸を歩き、時に川を越え、東に向かう。
敵の目が街道に向いているので、その裏側から侵入することにした。
ゲーアノルトの捕らわれているであろう、敵の補給基地までは、街道を使っても半日以上かかる。
これをやや大回りに、それも山を抜けるルートで、一日がかりで踏破する。
しかも、その後に敵基地を襲撃するというのだから、無茶な計画にもほどがあるだろう。
だが、エウリアスはその無茶な作戦を兵に強いた。
自ら率先して歩き、不可能ではないことを示すことによって。
実は、この時点でエウリアスは、ちょっとした一つのミスを犯していた。
それは、先遣隊の隊長を始末してしまったことだ。
必要な情報を引き出したことにより、エウリアスはこの隊長を始末することを命じた。
だが、エウリアスはある一つの情報を、入手することを忘れていたのだ。
それは、
ゲーアノルトがムルタカ領で捕われ、今もムルタカ領にいる。
ゲーアノルトに同行していた護衛騎士も、ムルタカ領主軍の兵士の存在を確認している。
臨時の補給基地をムルタカ領に造設し、ラグリフォート領への侵攻の足掛かりにしていた。
これらの事実によって、エウリアスはすっかり敵はムルタカ子爵だと思い込んだ。
ラグリフォート領とムルタカ領以外にも、他に三つの領地が領境を封鎖している。
これらの領地が、敵なのか味方なのか分からない。
だが、ムルタカ領が敵であることは間違いない。
しかし、
結果論ではあるが、幸いにしてこの小さなミスは、致命的なものにはならなかった。
それどころか、むしろ小さな幸運さえもたらした。
それは、敵を過大評価しないで済んだということだ。
相手があまりに強大だと、戦う前から戦意を喪失してしまうことがある。
勿論、ラグリフォート領主軍がそのような事態に陥ったとは限らない。
それでも、余計なことを考えず、ただ「ゲーアノルトの奪還」だけに集中できたのは、この
また、この時点でもしも正しい情報も得ていたとしても、大きく変わることはなかった。
この情報によって、何かが好転するということはなかったのだ。
すでに、先のエウリアスの手紙によって王城は動きだしていたし、新たに情報を届けるには最低でも三日を要する。
一日二日、情報の入手が遅かろうと、それで何かが変わったということはなかった。
夜明け前から行動を開始したエウリアスたちは、驚異的なペースで山中を進んだ。
ラグリフォート領の山を知り尽くした兵士が多くいたことで、この無茶な強行軍は不可能なものではなくなった。
また、エウリアスという分かりやすい旗印がいたことも、この作戦を支えていた。
エウリアスが真っ直ぐに目標に向かうことで、兵士たちも迷わずに済んだのだ。
エウリアスについて行けばいい。
エウリアスを支えればいい。
それ以外の余計なことを考えずに済んだことで、この集団は一丸となり、邁進することができた。
エウリアスは川岸の岩に腰を下ろし、水袋を呷った。
「…………はぁーっ……。」
流れる汗を拭うと、大分高くなった太陽を見上げる。
雨に降られると増水の危険があるが、せめて曇りだったら……。
そんな恨めしい気持ちで、太陽を見る。
「大丈夫ですか、坊ちゃん?」
同じく疲労を顔に張りつけたタイストが、エウリアスを気遣う。
「…………………………………………よゆう。」
全然余裕などなさそうに、エウリアスが呟く。
そんなエウリアスを見て、タイストが苦笑した。
「ここまでは、何とか脱落者は出さずに済んでいるようです。」
「……じゃあ、俺が一番になるわけにはいかないな。」
そんな軽口を叩き、もう一度水袋を呷る。
さすがにこんな強行軍を敢行する以上、脱落者も多少は見込んでいる。
できれば、敵基地の襲撃に千人は欲しいと考えているが、こればかりはどうなるか分からない。
単純な体力の問題以上に、川岸という歩きにくい場所を行くため、怪我なども見込んでいた。
エウリアスは、陽の光をキラキラと反射する川面を眺める。
この川に船でも出せれば、もっと楽に移動することが可能だろう。
だが、滝とまでは言わなくても、落差の大きい場所があり、大きな岩が転がっている場所もある。
流れの早い場所などもあり、とても船で行けるような川ではなかった。
何より、いきなり千人もの兵を移動させられるだけの船を用意するのも難しい。
エウリアスたちがこれまで歩いてきた場所でも、一メートルくらいの高さを飛び下りることは普通にあった。
しかし、船でそんな落差を行くのは、さすがに現実的ではなかった。
「はぁー……、泳ぎたいなぁ。」
「それ、まじで死にますって。」
現実逃避するエウリアスに、タイストが突っ込む。
流されて行けばムルタカ領までは楽だろうが、おそらく到着する頃には水死体になっていることだろう。
雪解け水が流れ込む川は、本当に冷たい。
時期的にもまだ泳ぐには早いので、冷たさであっという間に動けなくなる。
「よーし、いくぞぉ!」
「うへぇ……もうかよ……。」
「ぐじぐじ言ってんなぁ! おらっ、立て立て!」
「「「へーい。」」」
グランザの号令が聞こえ、みんなが重い腰を上げた。
エウリアスも、ぐっと足に力を入れて立ち上がる。
「ぁーあ……あと半分くらいか。」
「へへっ……嫌んなりますね。」
そんなことを言いながらも、タイストは楽しそうだ。
「随分と余裕そうだな、タイスト。」
「余裕っていうか、まあ……。」
そう言って、軽く頭を掻く。
「置いていかれるよりは、こうして一緒に苦労している方がまだマシってもんですよ。」
タイストは水袋から一口水を飲むと、背筋を伸ばした。
そうして、
「さ、頑張りましょう、坊ちゃん。」
「ああ、そうだな。」
エウリアスたちは重い足を踏み出し、再び川岸を歩き出すのだった。
■■■■■■
エウリアスたちが川岸を歩いていた頃。
ムルタカ領、臨時の補給基地。
ゲーアノルトの尋問を命じられているユスティナは、厩舎に来ていた。
五十頭もの馬が入れられた厩舎内を眺め、口を曲げる。
ユスティナが考えているのは、ゲーアノルトの脱出方法だ。
今のゲーアノルトでは、ラグリフォート領へ自分の足で行くことは難しい。
馬車に乗せるのが現実的だが、馬車では馬に追いつかれてしまう。
それでは、馬に乗れるかと言うと、それも微妙だ。
ならば、追われることがないように馬を先に逃がしてしまうか?
(そんなことしてる間に、絶対に見つかるわね。)
ユスティナが怪しい行動をすれば、すぐにメディーに報告が行くだろう。
今、こうして用もないのに厩舎に来ているだけでも、十分に怪しい行動と言えた。
踵を返し、牢屋のある建物に向かう。
これは、いよいよ腹を決めないといけないかもしれない。
(一カ月…………何とか時間を稼ごうと思ったけど。)
残念ながら、そこまではもたなかった。
こうなれば、賭けになってしまうが、一か八かで脱出するしかない。
メディーには、今日中に資産を動かす方法を吐かせろと命じられた。
そして、それが叶おうが叶うまいが、ゲーアノルトを殺せとも。
ユスティナは太陽を見上げ、忌々しそうに舌打ちする。
(何とか陽が落ちるまで時間を稼ぐ。あとは夜闇に紛れて……。)
成功の可能性は低い。
それでも、行動に移さなくては確実な死だ。
ならば、無駄でも何でも、足掻くしかない。
「…………私が、諦めるわけにはいかないものね。」
ユスティナは、冷えた目で呟くのだった。
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