第192話 赤黒い毒
エウリアスたちがレングラー駐屯地を奪還し、勝利の雄叫びを上げていた頃。
遠く離れた王国西部、ツレク男爵家の屋敷。
ガシャーーンッ!
まだ陽が出始めたばかりの早朝に、何かが割れる音が響いた。
「おい!? 何だ今の音は!」
「報告しろ! 異常はどこだ!」
警備責任者の騎士が、ツレク男爵の下に向かいながら報告を求める。
「執務室、異常ありません!」
「領主様はご無事です! こちらも異常ありません!」
男爵の部屋の警備と、執務室の警備から報告が上がった。
どうやら今の音は、男爵の周辺ではないらしい。
警備責任者は、ほっと胸を撫で下ろす。
そこに、ツレク男爵がガウンを羽織っただけの恰好で、私室から姿を現した。
「これは何の騒ぎだ? さっきの音はどこだ?」
「申し訳ありません。ただいま、確認しているところです。」
そこに、階段を駆け上がり、一人の男が駆けつける。
がっしりとした体つきの、壮年の男だ。
「父さん、大丈夫ですか!?」
「おお、フーベンタム。私は大丈夫だ。お前も大丈夫そうだな。」
「はい。………………兄さんは?」
そこで、一瞬だけ沈黙が下りる。
騎士たちと男爵、フーベンタムが一斉に駆け出す。
廊下を曲がり、すぐに異常に気づく。
ツレク男爵の嫡男、セクアイトスの部屋のドアが少し空いているのだ。
そして、部屋の前にいるはずの警備の騎士がいない。
「セクアイトス様の部屋だ!」
騎士の一人が、大声で呼びかけた。
異常の発生源を特定し、屋敷中の騎士たちに知らせる。
「お二人はここでお待ちを! お前たち、見て来い。」
部屋の前まで来ると、警備責任者が男爵とフーベンタムを止めた。
三人の騎士に命じ、部屋の中を確認させる。
騎士たちが慎重にドアを開けると、すぐに目に飛び込んできた。
廊下から丸見えの位置に、三人の男が倒れていた。
「セクアイトスッ!」
「あっ、お待ちください! 危険です!」
男爵は騎士たちを押し退け、セクアイトスに駆け寄った。
「セクアイトス! しっかりしろっ、セクアイトスッ!」
だが、男爵が呼びかけてもセクアイトスは動かない。
すでに、事切れていた。
フーベンタムも悔し気に顔を歪め、部屋に入る。
辺りを見渡し、床に落ちているナイフに気づく。
「このナイフは……。」
フーベンタムの呟きに、騎士たちも気づく。
「赤黒い……毒?」
「……これが、例の?」
そのナイフには、べったりと赤黒い毒が塗られていた。
フーベンタムは窓に目を向け、ガラスが割られていることを把握する。
バルコニーには、セクアイトスの物と思われる
「賊を狙ったのか……知らせるためか。窓を割ったのは、おそらく兄さんか。」
「そのようです。」
騎士がバルコニーに出ると、屋敷の周辺を見渡す。
しかし、すでに賊の姿は見つからなかった。
フーベンタムは、拳を震わせた。
「どうしてっ……うちが狙われるんだっ……!」
嫡男の暗殺。
ここ十日ほどの間に、実に三件も同様の事件が起きていた。
これまでの被害者は、領地もバラバラ、領主の政治的スタンスも現王派、日和見だったりと一致しない。
そして、ツレク男爵は革新派だった。
どんな狙いがあるのかも分からない、嫡男ばかりを狙った事件だ。
しかし、そんな不可解な暗殺事件にも、二つの共通点があった。
一つが、嫡男ばかり狙われるということ。
そしてもう一つが、赤黒い毒。
すべて、この毒を使って暗殺が行われてきた。
一年前に起きた、トレーメル殿下襲撃事件。
この襲撃事件の中心人物だったのは、タンストール伯爵家の次男バルトロメイ。
そのバルトロメイを殺害したのと、同様の毒が使われていた。
何者かが、この暗殺を主導しているのは確実。
だが、使われる毒が同じ物だという以外には、手掛かりがなかった。
通常、嫡男が暗殺されれば、次男だった者が疑われる。
跡継ぎという、最大の利益を享受する立場なのだから。
長男が家督を継ぐものとする、という法律が撤廃されたことで、それはより明らかだろう。
しかし、それが却って次男たちから、疑いの目を逸らさせた。
言ってみれば、あからさま過ぎるのだ。
この状況、このタイミングで暗殺など企ててれば、次男を疑うのは当たり前だ。
ならば、誰だって誤魔化そうとするはずである。
だが、この一連の嫡男暗殺事件には、そうした工作を施した痕跡が一切見られない。
まるで「次男を疑え」と言っているかのように。
トレーメル殿下襲撃事件では、バルトロメイの後ろに繋がる手掛かりが一切見つからなかった。
そして、この襲撃事件は成功しようと失敗しようと、現王派がダメージを受けるように仕組まれていた。
これだけ周到な者たちが、暗躍しているのだ。
次男を疑うことさえ、狙い通りだろうと考えられた。
おそらく、目的の一つは貴族家の中で内紛を引き起こすこと。
領主が疑心暗鬼に囚われ、次の嫡男を選ぶことを躊躇うように。
もし仮に、これが本当に次男の関わりのない事件だった場合。
そして、もしも領主が、それでも次男以外を嫡男に選んでしまったら?
次男だった者は面白くないだろう。
面白くないどころか、打ちのめされ、怒りに震えるのは間違いない。
やってもいない兄殺しを、父に疑われたということなのだから。
周囲からも
『家督を奪うために、兄に手をかけた。』
『領主様もそう判断された。』
このような扱いを受けた無実の次男の苦しみは、どれほどか。
おそらく、想像を絶するものがあるだろう。
宰相は、相次ぐ暗殺事件に、こうした考えを周知させた。
その上で、冷静な対応を望む、と。
すでに法的根拠が失われてしまったため、王城が後継者選びに口を出すことはできない。
しかし、一連の暗殺事件が、貴族家の内紛を引き起こすことを目的としている可能性を示した。
こうして不和の種を蒔き、その家の力を削ぎ、崩壊させることが狙いなのではないか、と。
「セクアイトスゥ……! あ、あぁぁあ……、何と言うことだ!」
その声に、フーベンタムは振り返り、セクアイトスの亡骸に視線を向けた。
セクアイトスの手を握り締め、ツレク男爵が泣き崩れる。
フーベンタムは何も言えず、男爵の下に行くと、傍らに膝をつく。
とてもかける言葉など見つけられず、ただ項垂れた。
そんなフーベンタムの手が、不意に掴まれる。
顔を上げると、涙を流した男爵が、フーベンタムを見ていた。
「父さん…………私は……。」
何かを言いかけるフーベンタムに、男爵は微かに首を振った。
「何も、言うな……。分かっている、分かっている……っ!」
「父、さん……。」
長男セクアイトスと、次男のフーベンタム。
二人は協力し合い、このツレク男爵領を発展させるために奮闘していた。
男爵は、そんな二人の姿を頼もしく思っていたのだ。
フーベンタムが唇を震わせると、男爵が頷く。
「セクアイトスを、いつまでもこのままにしておくわけにはいかんな……。」
男爵の言葉に、フーベンタムも頷いた。
「そちらは、私の方で手配します。父さんは、このことを王城に。」
「そう……だな。まさか、うちなんかが狙われるとは思わなかったが…………王城には伝えておかねばならんな。」
男爵は涙を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。
「では、こちらは頼んだぞ。」
「はいっ……! お任せください。」
フーベンタムはしっかりと頷くと、セクアイトスの亡骸に顔を向けた。
嗚咽が漏れそうになり、口元を手で押さえる。
男爵もその姿に、クッ……と微かに嗚咽が漏れてしまった。
やはり口元を手で覆い、何とか堪える。
そうして、騎士に支えられながら、部屋を出た。
フーベンタムはしばらく、そのまま兄の亡骸を見つめていた。
フーベンタムの手で覆った口元が、醜く上がっていることには、誰も気づくことはなかった……。
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