第187話 ノーラの見ていたもの




「ようやく落ち着いて話ができます。……母上。」


 エウリアスはテーブルを挟み、ノーラと対峙した。

 ノーラは冷めた目でエウリアスを見ると、ふいっと顔を逸らす。


「相変わらず、嫌な子ね。」


 エウリアスはそれには答えず、困ったように眉を寄せる。


「…………なぜ、このようなことを?」

「なぜ? それを貴方に説明して、何か意味はあるのかしら?」


 ノーラは心底興味なさそうに、煩わし気に応えた。


「父上はどこですか?」

「さあ、知らないわ。まったく、何をやっているのかしらね。さっさと始末してくれないから、こんなことに――――。」

「……始末?」


 ノーラの言葉を遮り、エウリアスは確認した。

 長剣ロングソードを握った右手に、ぐっと力が入ってしまう。


「今、始末と言いましたか?」

「ええ、そう。さっさとあの男を殺してくれていれば、正式にアロイスを伯爵に就けられたのに。まだ領主軍が使えないから守りを任せたら、このザマ。まったく、どいつもこいつも使えないったらないわね。」

「誰に、守りを任せたのですか? 外の連中はどこの手勢ですか?」

「あら? そんなことも分かっていなかったの?」


 そこで初めて、ノーラが頬を緩める。

 それは、本当に愉快そうな笑みだった。


「ふふっ……まあ、すぐに分かるでしょうけど。」

「ええ、すぐに口を割らせますよ。…………どうせ時間の問題なのですから、教えてくれませんか?」

「馬鹿おっしゃい。あなたに教えることなんて、何一つないわ。」


 それまでの笑みを引っ込め、途端に不機嫌そうな顔になる。

 エウリアスは、思わず溜息をついてしまった。


 不意に、エウリアスの胸が震えてしまう。

 それは、心の奥底に沈めていた、思い。

 ずっと、見ない振りをしてきた。

 気づかない振りをしていた。


「……………………そんなに、俺が憎いのですか?」


 だが、溢れてしまった。

 ずっと押さえつけていた、思い。

 生まれてからずっと、物心つく前から目を逸らし続けていた思いが。

 今……………………溢れてしまった。







 エウリアスにとって、母とはノーラだった。

 本当の、エウリアスを産んだ母親は、顔さえ知らないから。


 エウリアスだって馬鹿じゃない。

 ノーラから向けられる目に、その言葉に、憎しみが籠められていることくらい気づいていた。

 気づいていて、気づいていない振りをしていたのだ。


 だって、エウリアスは長男だから!

 嫡男だから!

 一族の者を、領地に住まう者を、守る義務があるから!


 なぜエウリアスは、ノーラに憎まれるのだろう。

 なぜアロイスは、ノーラに愛されるのだろう。

 幼いエウリアスには、分からなかった……。


 だが、六歳になり、ゲーアノルトに「立派な嫡男となれ」と言われた。

 そうして「立派な領主」「立派な貴族」になるようにと、様々な教育が始まった。


 嫡男としての教育が始まったことで、使用人たちも変わった。

 それまでも大事にされていたが、その扱いが段違いになった。


『立派な嫡男、立派な領主になれば、母上も認めてくれるかな。』


 そう考えるようになり、エウリアスはゲーアノルトの課題、家庭教師の課題、師匠の課題をすべてこなした。


 …………思えば、この頃から始まっていたのだろう。

 エウリアスのは。


 努力が足りないから。

 嫡男として頼りないから。

 母上に嫌われ、疎まれてしまう。


『もっともっと、頑張らないと。』


 そう思い込むことで、目を逸らしていたのだ。


 ――――エウリアスがエウリアスであるが故に、憎まれているという事実から。







 エウリアスの、溢れ出る思いの吐露。

 それを聞いたノーラが、堪らず吹き出した。


「ほほほっ……これは傑作! 憎い? 当たり前でしょう! おかしなことを聞く子ね。」


 そうして、再び笑う。

 堪えきれないとでも言うように。

 肩を揺らし、口元を覆い、心底愉快そうに笑っていた。


 そこに、バタバタと足音を響かせ、グランザたち数人の兵士が到着する。

 グランザは、部屋に転がる死体、長剣を手に立ち尽くすエウリアス、そうして声を上げて笑うノーラを瞬時に確認する。


「坊ちゃん。」


 グランザが部屋に踏み込むと、ピタリとノーラの笑いが止まった。


「無礼者っ! 身の程を弁えよ!」


 この状況にあっても、ノーラはピシャリとグランザを叱責した。

 まるで虫けらでも見るように、侮蔑の籠った目をグランザたちに向ける。


「下賤な者が……見るのも汚らわしいわ。 ね!」


 ノーラはそっぽを向き、手で払う。

 そんなノーラを見て、グランザが鼻を鳴らす。


「フン…………初めて見るが、こいつはまた。ゲーアノルト様も、よく我慢されたものだ。」


 一部の貴族には、平民など本当に野良犬か害虫のようにしか思っていない者がいる。

 平民たちによって、自分の生活が支えられ、成り立っていることさえ忘れているのだ。


 グランザが、片眉を上げて確認する。


「斬っても?」


 そんなグランザの確認に、エウリアスは首を振った。

 エウリアスは溜息をつくと、ノーラに近づいていく。

 そんなエウリアスさえ気にも留めず、ノーラが憎々し気に呟く。


「まったく……こんな田舎になぜ私が……。侯爵家の血を引く私が、なぜ伯爵などに嫁がねばならんのか……!」


 ノーラは、もはやエウリアスのことすら意識の外に追いやった。


「忌々しいっ……。この私に、あんな木こり風情の子を産め……? ウェイド家のために? 私を犠牲にして、自分たちはのうのうとしているつもりかっ……!」


 ノーラは怒りに震える拳で、苛立たし気にテーブルをトンッ……トンッ……と叩く。


「……すでに、長男がいるのに? それでは、私の子はどうなるっ……! 侯爵家の血を引く私の子を、木こりの倅の下に置く……? ふざけないで……!」


 エウリアスはテーブルを回り、ノーラの横に立つ。

 だが、そこでノーラの様子が少し変わった。

 これまでの、憎しみに釣り上がった目が、ふと和らいだ。


「アロイスを、伯爵に……?」


 その呟きに、エウリアスの長剣を持った手がピクリと動く。

 ノーラの目が、虚空を見つめる。


「そう! そうだわ! どうしてこんな簡単なことに気づかなかったのかしら。」


 ノーラの表情は、とても澄んだ笑顔だ。

 笑顔のまま「そうよ」と「殺せばいいのよ」を何度も繰り返した。


「……失敗こそしたが、確かに。……欲をかいて殿下まで巻き込むとは、少々やりすぎではあるが…………本気なのね?」


 ノーラは虚空を見つめたまま、ぶつぶつと呟く。


(……殿下を、巻き込む?)


 もしかして、これはオリエンテーリングでのトレーメル襲撃事件のことか?

 そのことに気づき、エウリアスの頭の片隅に引っ掛かるものがあった。


次男アロイスに、伯爵を継がせる……?)


 そんな話を、どこかで聞いたことがなかったか?

 そうしてエウリアスは、雷に打たれたような衝撃を受けた。


(バルトロメイ! あいつも確か、自分が家を継ぐと口走っていた!)


 今際の際で、毒に侵されながらのうわ言。

 たんに意識が混濁して、思い残したことを呟いているだけかと思ったが。


「坊ちゃん? どうかしましたか?」


 エウリアスが動けないでいると、グランザが心配になって声をかける。

 その声でエウリアスは、思考から引き戻された。


 ノーラも考えが邪魔されたのか、辺りを見回し始めた。


「あら? あの子はどこ? アロイス?」


 そうして、部屋の中に見知った者がいないことに気づき、顔をしかめる。


「……どうなっているの? お前たち、出てお行き。ここは、お前たちが入ってよい部屋ではないの。まったく……騎士たちは何をやっているのかしら。」


 部屋の前の護衛騎士がサボっていると考えたのか、ぶつぶつと文句を言い始めた。

 そんなノーラの様子に、グランザたちも顔を見合わせて戸惑う。


「どうしちまったんですかね?」

「さあ?」


 エウリアスたちが戸惑っていると、ノーラは横に立っているエウリアスに気づく。


「キャアアァァァアアアアアアーーーーーーーッ!?」


 突然悲鳴を上げたノーラに、エウリアスの方がビクッとするほどに驚く。


たれか! 誰か! 此奴こやつを追い出しておくれ! アロイス! アロイス! 来てちょうだいっ、アロイス!」


 ノーラは慌てふためき、椅子から立ち上がった。

 そうして壁に寄りかかり、後退りするようにエウリアスから距離を取る。


「アロイス! どこに行ったの、アロイス!? なのだから、危ないことはしないでちょうだい! アロイス!」

「…………え?」


 錯乱し、口走ったノーラの言葉に、エウリアスは呆気に取られた。


「侯爵……?」

「……何言ってんですかね?」


 グランザたちも、もはやわけが分からないと、ただノーラの奇行を眺める。

 ノーラも混乱しているが、エウリアスたちも負けないくらいに混乱していた。


 殿下を巻き込んだ、襲撃事件。

 それを、聞いたことがある、とノーラは言った。

 家督を継ぐと言って、息絶えたバルトロメイ。

 ノーラもまた、アロイスにラグリフォート家を継がせる気だった。

 何より、アロイスを侯爵となる身、と言った。


 錯乱した女の妄言。

 そう切り捨てることも、勿論できる。

 だが……。


(ノーラもアロイスもバルトロメイも、みんな操られていたんだ……。裏で糸を引く者に。)


 そうすると、このラグリフォート領の不当な支配も、ゲーアノルトのことも、すべてが一つの大きな計画?

 昨年からあった、数々の襲撃事件。

 ホーズワース公爵を追い詰め、王家との関係を崩したのも、すべてが……。


(……繋がっているのか?)


 でも、どこへ?

 この混乱の終着点は、一体どこなのか。


 エウリアスは、キッとノーラを睨んだ。


「どういうことだっ! 一体、誰がこんなこと計画した!? 母上っ、貴女は誰と手を組んだっっっ!!!」

「キャアアァァアアアアアアァァァアアアアアアーーーーーーーッ!」


 エウリアスが激高して声を荒らげると、ノーラが耳を塞いで悲鳴を上げた。

 腰を抜かし、ずりずりと崩れるようにしゃがみ込む。

 ノーラは、失禁していた。


「ひぃいいっ!? ひぃぃいいっ……!」


 言葉にならない声を上げ、恐怖に目を見開き、ノーラは泣いていた。

 その、あまりの姿に、エウリアスは顔を逸らしてしまう。

 見ていられなかった。

 ノーラの、正気を失ってしまった姿を。


(もしかしたら……。)


 ノーラの心はずっと、壊れかけていたのではないだろうか。

 ラグリフォート家に嫁いできて十四年。

 ラグリフォート家を憎み続け、ウェイド家を恨み続けた。

 なぜ、自分はこんな所にいなければならないのか。

 家と家を繋ぐためだけの、道具。…………生贄。

 そんな思いを、ずっと抱えていたのかもしれない。

 十四年もの間、ずっと……。


 エウリアスを憎み、それ故にエウリアスを怖れた。

 いつか復讐されることを、考えずにはいられなかったのだ。

 なぜなら、自分ノーラならきっと復讐したであろうから。

 それが分かっていながら、それでもエウリアスを憎まずにはいられなかった。

 心の奥底の、怯えから目を逸らすために。


「…………ァロイス……?」


 不意に、ノーラがアロイスの名を呼んだ。

 何事かと見てみると、ノーラがエウリアスに手を伸ばしていた。


「アロイスッアロイスッ! 来ておくれアロイスッ! ぁあ……もうどこにも行かないでおくれ! アロイスッ!」


 血走った目で、唾を飛ばしながら、ノーラが手を伸ばす。

 不気味なものを見るように、エウリアスは顔をしかめてしまう。

 だが、そんなエウリアスに気づきもせず、ノーラが必死になって手を伸ばす。


「ふーむ……だめだったか。これはあかんのぉ。」


 その時、エウリアスの耳元に声が届く。

 クロエだった。


「だめって…………お前、まさか!?」

「うむ。あのアロイスとかいう小僧のことを探しておったからの。見せてやれば少しは――――。」

「ふざ、けるな……っ!」


 エウリアスは、懸命に怒気を抑え、クロエに言った。

 クロエは認識を歪める力で、ノーラにエウリアスの姿をアロイスに見せていたのだ。


「余計なことをするな!」

「しかし、少しでも情報を引き出したいであろう? こう正気を失っていては、どこまで引き出せるか分からんが。」


 エウリアスは、本気で黒水晶のネックレスを粉々に砕いてやりたいと思った。

 だが、その激しい衝動を必死に抑え込み、ゆっくりと長剣を上げる。


 涙を流し、必死に笑いかけ、手を伸ばすノーラ。

 エウリアスは、そんなノーラを真っ直ぐに見ると、その胸に長剣をスッと突き刺すのだった




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