第182話 王国東部の変事
王都、ホーズワース公爵家の屋敷。
まだ日も出ていない早朝に、二頭の早馬が到着した。
エウリアスからの早馬である。
エウリアスは、ラグリフォート領の変事を王城に知らせるため、手紙を書いた。
だが、たとえ嫡男でも王城に直接知らせることは難しい。
その上、今のエウリアスはその嫡男でさえなくなってしまったのだ。
そこでエウリアスは、ホーズワース公爵を頼ることにした。
現在、ホーズワース公爵と国王陛下の関係は、微妙なものになっている。
もしかしたら、公爵からの話では陛下は素直に聞き入れてくれないかもしれない。
だが、ヨウシアは宰相の部下だ。
直接宰相に報告できる立場にいる。
そのため、ホーズワース公爵が無理でも、ヨウシアから宰相に働きかけ、国に動いてもらおうと考えた。
ホーズワース公爵の執務室で、そんなエウリアスからの手紙を読み、ヨウシアが愕然とした。
「これは……! ここに書かれていることは、本当ですか!?」
ヨウシアは、先程執事に「緊急の用件」だと言われ、眠っているところを起こされた。
そうして公爵の執務室にやって来たのだが、まだ眠気の残る頭を、強烈に殴り飛ばされたような衝撃を受けた。
この手紙の差出人がエウリアスでなければ、きっと「ひどい冗談だ」と思ったことだろう。
公爵は椅子に深く座り、真っ直ぐにヨウシアを見る。
「疫病を理由に人の出入りを制限し、領地を奪ったことを隠す。正直、どんな手を使えばここまで事を運べるのか、見当もつかん。」
手紙を読んでも、現在に至るまでの過程がまったく分からなかった。
「しかし、事実として見知らぬ者たちによって、ラグリフォート領は封鎖されているようだ。」
「…………
「そうだ。もしも、それらがすべて同じ状況だとしたら?」
誰にも気づかれることなく、五つもの領地を奪ってみせたことになる。
一体、どんな勢力にそんな真似ができるというのか。
「……“
ヨウシアの頭に、ある巨大犯罪組織が思い浮かぶ。
だが、その呟きを聞き、公爵は首を振った。
「確かに潰すには少々厄介な連中だが、あんなのはただの日陰者の集まりだ。こんな真似はできんだろう。」
「では、父さんは一体何者が、このようなことをしたとお考えですか?」
「分からん。分からんが…………今重要なことはそこではない。」
そうして、ヨウシアを指さす。
「お前はすぐに王城に知らせに行け。宰相に知らせれば、きっと陛下を説得して王国軍を動かしていただけるだろう。」
「はい。」
ヨウシアは、しっかりと頷いた。
王国東部にも、駐屯している王国軍がいる。
ただし、彼らは勝手な判断で動くことはできない。
それが分かっているから、エウリアスは直接王国軍に協力を要請せず、ホーズワース公爵に知らせることにした。
それは、現在エウリアスがいるモンカーレ子爵領の領主軍も同様である。
ラグリフォート伯爵からの援軍要請であれば、子爵領軍を呼ぶことができたかもしれない。
しかし、嫡男や貴族家の縁者では、やはり動いてはもらえないだろう。
遠回りなやり方のように見えるが、ホーズワース公爵家から王城に働きかけ、王国軍や領主たちに命じてもらうのがもっとも早く、また確実な方法だった。
ヨウシアが執務室を出ると、公爵も立ち上がる。
「…………私も、借りを返さんわけにはいかんな。」
そう呟くと、公爵も出掛ける支度を始めるのだった。
ヨウシアは、ようやく日が出始めたような時間に登城した。
通常、こんな時間には城門が閉じられている。
だが、一切の人の出入りができないかと言うと、そんなこともない。
城門の横には、人の出入りができる通用口があるからだ。
ここの出入りは厳しく制限され、また近衛騎士たちからチェックを受けなくてはならない。
これは、たとえ相手が大臣でも同じだ。
ただ、こうしたチェックさえ受ければ、通ることは可能だった。
そうして近衛騎士から身体検査を受けていると、顔見知りの隊長が顔を出した。
「ヨウシア様、このような時間に如何されましたか。」
「すまんが急ぎだ。宰相に取り次いでもらいたい。」
ヨウシアはその近衛隊長に、宰相への取り次ぎを頼んだ。
ヨウシア自身、ほんの数カ月前まで軍務省で幹部を務めていた。
軍務省の関係で、近衛騎士団の幹部や隊長格とは顔を合わせる機会もあったのだ。
近衛騎士団は王城直轄の組織で、軍務省とは別の命令系統。
とはいえ、近衛騎士団と王国軍は切っても切れない関係だ。
何より、互いに協力し合い、国王や王国を護るという意識がある。
縄張り争いで若干の衝突もなくはないが、だからといって軽んじることのできる相手ではなかった。
そして、王城勤めになった春からは、以前にも増して顔を合わせる機会が増えた。
プライベートでの付き合いがあるわけではないが、それなりに
ある程度は信の置ける相手か、油断のならない相手かは、分かっているつもりだった。
そうして近衛隊長は、ヨウシアの焦りを見抜いた。
ヨウシアは優秀な人物ではあるが、意外と実直だ。
国の中枢で腹芸をするには、揉まれた経験がやや足りない。
緊急事態であるほど、それを表に出すべきではないのだ。
そう思いつつも、ヨウシアのそうした隠し事の下手な部分を、近衛隊長は好ましく思っていた。
誰も彼もが腹に一物抱えていては、王城の治安を護る身としては、堪ったものではないからだ。
もっとも、大臣や長官を務める国家の重鎮がそれでは、頼りないのも事実ではあるが。
近衛隊長は片眉を上げ、軽く顎を撫でた。
夜勤明けで、少々髭が伸び始めていた。
ジョリジョリとした感触が指先にある。
「こんな時間に、宰相閣下にか?」
「そうだ。
「――――ッ!」
ヨウシアの言葉を聞き、近衛隊長の顎を撫でていた手が止まる。
絶句し、完全に固まっていた。
そんな近衛隊長をじっと見つめ、ヨウシアが重ねて伝える。
「至急、取り次ぎを。」
「……わかった。」
近衛隊長は頷き、一人の部下に命じる。
「おい、お前。宰相閣下に知らせに行け。ヨウシア様が至急に面会したい、と。」
「は? え、あ、は、はいっ!」
近衛隊長に命じられた騎士は一瞬呆けるが、すぐに敬礼して駆け出した。
クニーチェ家。
これは架空の家の名前であり、端的に言ってしまえば隠語である。
ある一定の地位以上にある者にだけ知らされる、隠語。
クニーチェ家の旗が下りる。
この隠語の意味するところは、地方での変事。
それも、武力蜂起や反乱、他国の侵略など、軍事的対応を要する場合に用いられる。
まだ、はっきりしない部分もある。
それでもヨウシアは、この隠語を使った。
個人的にはエウリアスを信じてはいるが、この決断は少々リスクが高い。
この隠語を用いた場合、間違ってました、では済まないからだ。
だが、現在のラグリフォート領の異変はこれだけではない。
先日、疫病の調査を命じた官吏が、領地に入ることさえ許されず帰ってきたのだ。
このため、現在王城では王国軍の部隊を含めた、調査隊の派遣を検討しているところだった。
近衛騎士に案内されながら、ヨウシアは自分の護衛騎士を従え、宰相の執務室までやって来た。
このフロアでは、特別な許可のない者は帯剣が許されない。
護衛騎士を連れてはいるが、彼らも実際は丸腰である。
ここでの帯剣が許されるのは、基本的には近衛騎士と王族くらいだった。
部屋の前に立った、重装備の近衛騎士が室内に声をかける。
「宰相閣下。ヨウシア様がお見えになりました。」
「入れ。」
すぐに室内から入室の許可があった。
「ここで待っててくれ。」
「「はっ。」」
ヨウシアは護衛騎士に待機を命じると、執務室に入る。
執務室にいたのは、一人の男性。
リフエンタール王国で宰相を務める、イグナッシオ・フォン・ケルンフェルだ。
六十代前半のその男性は、寝間着にガウンを羽織っただけの格好だった。
この執務室の隣がイグナッシオの私室で、寝る直前まで仕事を行い、起きた直後から仕事に取り掛かる。
そんな生活をしながら、この宰相は国王を、そして王国を長年支えていた。
「こんな時間に何事だ、ヨウシア。」
貴重な睡眠を邪魔され、イグナッシオの機嫌は最悪。
イグナッシオの鋭い視線に射貫かれ、ヨウシアはゴクリと喉を鳴らすのだった。
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