第177話 友との別離
ムルタカ子爵領。
臨時基地内に建てられた、牢屋。
カァーーンッ!
木剣を床に叩きつけ、けたたましい音が響く。
ユスティナは多少の加減をしながら、床に木剣を叩きつける。
バシィーーンッ!
石とコンクリートで作られた牢内に、耳を塞ぎたくなるような音が響いた。
「へっ! 強情な奴だ!」
そう言って、再び木剣を叩きつけた。
床に落ちている、破損した桶の破片を手に取ると、壁に投げつけた。
破片は壁にぶつかると、カラーンカラカラ……と床を転がった。
そんな破片を目で追い、ゲーアノルトが手に持ったトマトを齧る。
大きな木の板で作られた手枷を嵌められてはいるが、何とか自力で食べられるくらいには回復していた。
この牢に連れて来られた頃のゲーアノルトは、自力では一歩も歩けなかった。
それどころか、立ち上がることさえも困難なくらいだ。
しかし、ユスティナが隠して食料を持ち込み、野菜や果物を与えることで、ゲーアノルトの身体は少しずつ回復することができた。
「そろそろ白状したらどうだ? このまま死にたくはあるまい?」
ユスティナは、牢番に聞こえるように大声で問う。
「ぁあ!? 聞こえねえんだよ! はっきりしゃべりやがれ!」
再び、木剣を床に叩きつけた音が響く。
ユスティナは、
そのため、定期的に大きな音を立て、尋問をしていると示す必要があった。
自力で歩くこともできないゲーアノルトを見た時、ユスティナははっきりと「まずい」と思った。
このままでは長くはもたない、と。
そのため、ゲーアノルトを拷問する役目をユスティナは買って出たのだ。
こっそりと食料を持ち込み、水責めに使うとの名目で飲み水を持ち込んだ。
身なりもボロボロのゲーアノルトだが、無精髭は都合が良かった。
髭ならば、
頬に傷をつけ、出血させる。
その血を顔に塗れば、ひどく暴行を受けたように見えるだろう。
血で固まった髭を見れば、猶更だ。
全身を水浸しにすることで、血が広がりやすくした。
流れた落ちた血で衣服も汚れ、相当な暴行を受けたように見える。
壊れた桶の破片が転がっていれば、桶で殴りつけたように見えるかもしれない。
そうした状態をメディーに見せることで、「容赦なくやっている」と思わせることができた。
一応、まだ死なせるなということで、治療をすることの許可も得た。
しっかりと治療を施すことはできないが、これで最低限はユスティナがゲーアノルトの体調をコントロールできるようになった。
勿論、ゲーアノルトには衰弱しているように演技させる必要はあるが。
ユスティナはゲーアノルトの横に立つと、耳元で囁く。
「そろそろ、廃嫡の申請が通っている頃だろう。」
ゲーアノルトはそれを聞き、力なく頷いた。
不本意ではあったが、ユスティナに説得されて、ゲーアノルトは廃嫡の申請を書いた。
これだけはメディーもこだわっていたため、応じるまで苛烈な拷問が加えられる可能性が高かったからだ。
ゲーアノルトの体力がそれに耐えられるとは思えなかったため、ユスティナは廃嫡については受け入れさせた。
どうせ申請を出せば、また戻すことは可能だからだ。
国はいい顔をしないだろうが、こちらも命が懸かっている。
このエウリアスの廃嫡は、ゲーアノルトからの
国は少々訝しく思っても、おそらくスルーする。
だが、当事者はどうだろうか。
突然の廃嫡。
それも、街道を封鎖するほどに疫病が蔓延している最中にだ。
この不自然さに、きっと気づく。
とはいえ、何も考えずに領地にのこのこやって来て、ラグリフォート領を支配する先遣隊にとっ捕まるような間抜けなら、諦めてもらうしかない。
そんな間抜けな跡継ぎしか育てられなかった、ゲーアノルトの落ち度だからだ。
潔く滅びてもらおう。
ユスティナには、この事態をひっくり返すような力はない。
だから、チャンスだけを与える。
後がどうなるかは、当事者次第だ。
ユスティナにできることは、ゲーアノルトを少しでも回復させ、時間を稼ぐこと。
ゲーアノルトを救い出すための救援が来るとして、早くても一カ月はかかるだろう。
それまでメディーが処刑を命じないように、何か手を打つ必要がある。
ユスティナは思案し、ゲーアノルトに尋ねる。
「貴方が死んだとして、資産の扱いはどうなるんだっけ? たとえば、銀行に預けている資産を跡継ぎが相続するには、どうすればいい?」
ユスティナには、貴族の跡継ぎのルールなどは分からない。
資産などは、どうやって跡継ぎが受け継ぐのだろうか?
ゲーアノルトは気怠そうに顔を上げ、天井を見上げる。
「銀行に預けている資産については、次期ラグリフォート伯爵が本店に行けば良い。ただし、その時に
「証?」
「その辺りは、各家によってまちまちだ。契約内容による。」
「ラグリフォート家では?」
「エウリアスに、その証を持たせている。まあ、無くても国が正式に爵位を承継したと認め、それを証明できれば相続することはできる。少々時間と手間がかかるがな。」
つまり、ゲーアノルトが死んでアロイスが伯爵となっても、王都に行かなくてはならないということか。
「ラグリフォート領にある支店だけでは、相続の手続きはできないの?」
「やれなくはないが、結局は銀行の方で本店に問い合わせる。むしろ、自分で王都に行くよりも時間と手間は増えるだろうな。」
「つまり、貴方が死ぬとアロイス君はいろいろ面倒?」
「今のやり方で進めようとすれば、そうなるだろう。」
それを聞き、ユスティナは口の端を上げた。
「…………時間稼ぎには持ってこいね。」
「面倒がないのは、私を殺す前にさっさと資産を移させることだ。ラグリフォート家の管理口座ではなく、個人の口座にだ。ただ、この場合は私が支店に行く必要がある。……代理でもやれるが、その場合は私からの正式な依頼であることを証明しなくてはならない。」
「ふむ……。」
ユスティナは木剣で、肩をトントンと叩く。
「この話、メディーに話してもいい?」
「メディーと言うのは、この作戦の指揮官だったか?」
「そそ。金に目が眩んで、横取りでも考えてくれれば、時間を稼ぎやすくなるわね。」
「ならば、見せ金でもあった方が食いつきやすくなるのではないか?」
ゲーアノルトが気怠げに首を回しながら、そんな提案をしてくる。
「あるの?」
「二億ほど、私の乗っていた馬車に隠してある。大金貨で二百枚。即金で必要になった時のために、載せておいた。」
「わぁお、二億!? 大金貨で!?」
「見たことないのか? 銀行に持って行けば大銀貨に両替できるし、それなりに大きな商会なら受け取って困ることもない。」
「へぇー……馬車にあるのね?」
ユスティナの確認に、ゲーアノルトは苦し気に頷く。
「客車の床に細工がしてある。……
「確かに。」
「それと、三億がレングラーの町の事務所に置いてある。本棚の裏だ。」
「おおっ、じゃあ合計で五億! 私の目が眩んじゃいそう。」
ユスティナのその言葉に、ゲーアノルトが苦笑する。
「任せる、好きに使え。」
「いいの?」
「命が懸かっているのだぞ? この程度の金を惜しむほど、私の命は安くない。」
そう言うと、ゲーアノルトは目を伏せる。
命と引き換えにはできないが、それでも楽して貯めたお金ではない。
ユスティナは腕を組み、作戦を考える。
「二億と三億か……。二つの
そう呟き、ユスティナは再び木剣を床に叩きつけるのだった。
■■■■■■
ヨウシアから、廃嫡されたことを告げられた翌日。
エウリアスは久しぶりに学院にやって来た。
エウリアスの持っている制服は、伯爵家の嫡男を示す刺繍がされている。
だが、すでに廃嫡されたエウリアスには、この制服を着る資格がなかった。
もしも、身分を偽った制服を着れば、学院の規則違反だ。
とはいえ、さすがに昨日の今日で新しい制服を用意するのは困難。
まあ、あくまで困難なだけで、入手しようとすればできなくはないが。
だが、エウリアスは新しい制服を用意するつもりはなかった。
少なくとも、今は。
朝、授業の前に職員室に行く。
エウリアスの話を聞き、テオドルが難しい顔になった。
「東部の疫病のことは、私も耳にしております。しかし、エウリアス様が自ら行かれるのですか?」
疫病の蔓延している領地に戻れば、エウリアス自身が疫病に罹る危険がある。
そのことを、テオドルは心配しているのだ。
テオドルの様子を見るに、どうやらエウリアスの廃嫡まではまだ知らされていないらしい。
エウリアスは姿勢を正し、毅然とした態度で伝える。
「急ぎ戻る必要ができました。今後、正式に退学するか、再び通うようになるかはまだ分かりません。いつまでも休み続けてはご心配をおかけすると思い、こうして考えを伝えに来ました。」
「…………分かりました。」
テオドルが説得しても、エウリアスは聞き入れない。
エウリアスの毅然とした態度から、テオドルはそのことを悟った。
「よく、お考えの上なのですね?」
「勿論です。」
学院に、エウリアスの方針を伝える。
そうしてエウリアスは教室に向かった。
エウリアスが教室に顔を出すと、一瞬でザワついた。
そのザワつきに、トレーメルとルクセンティアがすぐに気づく。
「ユーリ……!」
「ユーリ様っ!」
エウリアスの顔を見て、二人が表情を強張らせる。
この反応は、すでに二人はエウリアスの廃嫡を知っているのだろう。
ルクセンティアは、もしかしたらヨウシアから伝えられているのかもしれない。
「ごめん、ちょっといいかな?」
そう言って、エウリアスは二人に廊下の端に来てもらう。
いつも通りに、護衛騎士に囲ませる。
「二人は、聞いているんだね?」
エウリアスがそう確認すると、トレーメルとルクセンティアが痛みを堪えるような顔になった。
「ユーリ、僕は……!」
何かを言おうとするトレーメルに、エウリアスは微笑んだ。
「ごめんね、二人に心配かけちゃって。」
「そんなことありません! ユーリ様は、何も……!」
ルクセンティアの悲痛な声に、エウリアスの微笑みもぎこちないものになってしまう。
「一度、ラグリフォート領に戻ることにしたよ。いつ戻ってくるか、戻って来れるかも、今の段階では分からないんだ。」
「ユーリ……。」
トレーメルは俯くが、すぐに顔を上げた。
真っ直ぐにエウリアスを見て、右手を差し出した。
「何かあれば何でも言ってくれ。僕では、できることなどたかが知れているかもしれないが……。できる限り力になろう。」
「ありがとう、メル。」
そうして、エウリアスはトレーメルとしっかりと握手を交わした。
騎士学院で知り合った、王族。
学院に通い始めた頃は、こんな関係になれるとは思いもしなかった。
エウリアスは手を放すと、ルクセンティアを見る。
「ティアも。今までありがとう。」
そう言って、エウリアスは手を差し出す。
ルクセンティアは、いよいよ泣くのを堪えるような顔になった。
「そのようなこと……言わないでくださいっ。それでは、まるで……!」
――――もう、会えないようではないか。
そんな言葉を飲み込み、ルクセンティアはエウリアスの手を握った。
「…………必ず、また戻って来てくださいね。ユーリ様……。」
ルクセンティアは唇を震わせながら、それでも無理矢理に笑顔を作る。
エウリアスもしっかりと手を握り返し、頷いた。
「それじゃ、二人とも。元気でね。」
そうしてエウリアスは、しっかりと姿勢を正す。
トレーメルとルクセンティアも、姿勢を正した。
「行ってくるよ。」
「ああ、行ってこい。頑張れよ、ユーリ。」
「お気をつけて、ユーリ様。」
二人は、エウリアスを引き留めたりはしない。
貴族には、貴族の務めがある。
たとえ廃嫡されようと、エウリアスの中には矜持がある。
決して逃げてはいけない時があることを、トレーメルもルクセンティアもよく分かっていた。
エウリアスは二人に背を向け、背筋を伸ばす。
真っ直ぐに前を見据え、歩き出した。
校舎を出て、馬車に乗り込んでも、エウリアスは強い意志を持って振り返ることをしなかった。
(…………行こう。ラグリフォート領へ……!)
強い決意を胸に、エウリアスは騎士学院を出るのだった。
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