第173話 捕らわれのゲーアノルト
エウリアスが、馬車でステインと話していた頃。
ムルタカ子爵領。
ラグリフォート領との領境から少々離れた、警備隊の詰所。
街道沿いに置かれたこの詰所は、領境の検問や街道、近隣の町や村の治安を担っていた。
詰所の建物の地下には、捕えた罪人たちを入れておく牢がある。
その牢の一番奥に、一人の男が捕えられていた。
木の板で作られた枷を両手に嵌められた男――――ゲーアノルトだった。
ゲーアノルトは力なく、汚れた床にその身を横たえる。
髭は伸び放題で、顔には埃と髪が張りつく。
ゲーアノルトがこの詰所に捕らわれて、すでに十日ほど経過していた。
その十日の間に与えられたのは、パン粥と僅かな水のみ。
朦朧とする意識の中、ゲーアノルトは必死に正気を保っていた。
ゲーアノルトは、通行税の増税に抗議するためムルタカ領に向かった。
領境を越え、しばらく行くと臨時の検問所が作られていた。
しかし、その検問所は罠だった。
ゲーアノルトの一団は、二百~三百人にもなるようなムルタカ子爵領軍の兵士に囲まれた。
ゲーアノルトも護衛騎士を連れていたが、さすがに二十人ではどうにもならない。
無駄な交戦は避け、ゲーアノルトは兵士たちの指示に従った。
ゲーアノルトが考えたのは、この兵士たちは何者か、ということだ。
ムルタカ子爵の命令でゲーアノルトの捕縛に動いたのか。
それとも、ムルタカ領で反乱が起き、ムルタカ子爵も捕らえられているのか。
兵士たちが問答無用で斬りかかってくるなら、こちらも死に物狂いで抵抗する必要がある。
しかし、兵士たちに殺気はなかった。
ならば、ここは大人しく従っておくのも手だと考え、護衛騎士たちにも抵抗しないように命じた。
誤算だったのは、兵士たちが何もしてこないことだ。
放置された。
一日一回のパン粥と、午後にコップ一杯だけ水を持ってきて、ゲーアノルトに飲ませた。
これだけでは、当然ながら生きるためにはまったく足りない。
あっという間に、ゲーアノルトの身体は衰弱した。
多少の拷問は覚悟していたが、まさか何もされないうちに半死半生の状態にされるとは、思いもしなかった。
(……まったく……何たるザマか。)
ゲーアノルトは、自らの脆弱さに嘲るような気持ちになっていた。
兵士に囲まれた時、抵抗すれば確実に斬られていただろう。
さすがに人数が違いすぎる。
たとえ百人を道連れにしようと、ゲーアノルト一人が斬られた時点で、この戦いは負けだ。
ならば、生き延びる道を探るために、屈辱を飲み込み、我慢を選んだ。
元々、屈辱には慣れている。
今更一つや二つ増えたところで、どうということはない。
高潔に戦い、凶刃に倒れることを選ぶ者もいるだろう。
おそらく、ほとんどの貴族はそうあろうとするかもしれない。
しかし、生憎とゲーアノルトはそういうタイプではなかった。
勿論、高潔さを投げ捨てたわけではないが、同時に打算も考えられる冷静さを持ち合わせていた。
ゲーアノルトは、燃え盛る炎のような思いを胸の内に秘め、捕らわれることを受け入れた。
必ず、反撃の時は来ると信じて。
「ハァ……………………ハァ……………………。」
喉がカラカラに乾き、すえた匂いが目に沁みるようだった。
劣悪な環境にありながら、それでもゲーアノルトはじっと堪える。
(…………あの、通行税の増税。あれ自体が罠であったか……。)
そう考えるのが、自然な気がする。
あの増税は、ゲーアノルトを釣るための餌。
普通、他領とのトラブルが発生した場合、手紙のやり取りで双方の意見をぶつける。
いきなり乗り込んで、説得しようとする貴族など、ゲーアノルト以外にはいない。
増税し、家具の輸送を妨害すれば、ゲーアノルトが乗り込んでくると読んでいたのだ。
方々に飛び回る、ゲーアノルトのフットワークの軽さを逆手に取った罠。
(これを画策したのは、ムルタカ子爵か……?)
もしも反乱なのであれば、もっと騒がしい気がする。
挙兵した興奮に、やたらと騒ぎたがる者がいてもおかしくない。
そうした興奮を戦意高揚に利用するため、首謀した者も率先して煽るだろう。
挙兵直後なら、なおさらだ。
しかし、今のところそうしたことがないように思う。
そのため、ゲーアノルトはこれをムルタカ子爵によるものと目星をつけた。
だが、そうすると何が狙いなのかさっぱり分からなくなる。
他領の領主を捕えたところで、メリットなど何一つない。
事が露見すれば、国王陛下が何も手を打たないわけがない。
余程、止むに止まれぬ事情でもない限り、ムルタカ子爵の方が首を刎ねられかねない暴挙だ。
ゲーアノルトがそんなことを考えていると、足音が聞こえてきた。
足音からして、四~五人ほどだろうか。
いつも水を持って来る時は、二人の兵士だった。
こんな人数が来ることは初めてだ。
(…………ついに来たか。)
ゲーアノルトは、覚悟する。
ここまで生かした以上、何か狙いがあるはずだ。
それが情報なのか、他の何かなのかは、ゲーアノルトにも分からないが。
牢の前に現れたのは、五人の兵士。
ガチャガチャガチャ……と、牢の鍵が外される。
兵士たちが手にしているのは、お盆に載せられた皿。
おそらく、いつものパン粥。
四人の兵士が牢の中に入り、一人は入り口の外に残った。
兵士たちは二人が
別の兵士が床の上にお盆を置くと、皿に入れられている物が見えた。
やはり、パン粥のようだ。
「食べろ。」
牢の外から声がかけられる。
テーブルなどない。
床にお盆を置き、手枷を付けたまま食べろと命じる。
一応、お盆の上にはスプーンも置かれていた。
ゲーアノルトは兵士に支えられたまま、スプーンに手を伸ばした。
しかし、手枷の重みと、十日間のパン粥のみという環境に体力が落ち、腕が震えてしまう。
何とかパン粥を掬おうとするが、上手く動かない。
健康な状態でも、大きな手枷などしていては、少々苦労するだろう。
今のゲーアノルトでは、これで食べろというのは無理があった。
何とか掬ったパン粥だったが、スプーンを落としてしまう。
お盆の上に、パン粥が零れた。
「…………隊長、手伝ってもよろしいでしょうか……。」
それを見ていた兵士の一人が、牢の外に立った兵士に確認した。
実は、すでにゲーアノルトは自力での食事が困難になり、いつも手伝ってもらっていたのだ。
しかし今日は、隊長が見張っているため、兵士は手伝うことを控えていた。
隊長と呼ばれた兵士が、舌打ちをする。
「好きにしろ。食い終わったら連れて来い。」
「はっ。」
隊長は牢屋の匂いに嫌気が差したのか、顔をしかめてさっさと出て行った。
「……伯爵、失礼します。」
そう言って一人の兵士が皿を持つと、パン粥をスプーンで掬った。
ゲーアノルトの口元に運び、食べさせる。
僅かなパン粥を啜り、ゲーアノルトの胸に温かいものが込み上げてくる。
喉を潤す水分と、パンの味。
僅かな塩気を感じ、ゲーアノルトはその味を噛みしめる。
ゲーアノルトが口を開けると、すぐにスプーンが運ばれてきた。
ゲーアノルトは、夢中になってパン粥を食べた。
喉を通る食べ物の感触に、まだ生きている、という実感を得る。
皿ごと口元に持ってきて、最後の一滴まで飲み干した。
ゲーアノルトは皿から口を放すと、ほぅ……と溜息をつく。
その時、ズズ……と鼻を啜る音が聞こえた。
見ると、ゲーアノルトにパン粥を食べさせていた兵士が、涙を流していた。
ゲーアノルトの身体を支えていた兵士も、顔をくしゃくしゃにして俯き、震えた。
「申し、訳……ぁりません……。…………伯、爵……っ。」
その兵士は、言葉を詰まらせながらゲーアノルトに詫びた。
他の兵士たちも、苦し気に顔を歪ませながら鼻を啜っている。
「命じられているのだろう?」
ゲーアノルトがそう聞くと、兵士たちは躊躇いながら頷いた。
「命じているのは、ムルタカ子爵か?」
ゲーアノルトにパン粥を食べさせた兵士が頷く。
子爵に命じられれば、兵士たちでは逆らうことは難しいだろう。
「……家族はいるのか?」
「はい……っ。」
「そうか。」
生きるために。
家族を守るために。
兵士たちは、従うしかないのだろう。
「……自分の
「伯、爵……っ。」
「おかげで気力が湧いてきたわ。腹が膨れれば、簡単に気力が湧いてくる。……人とは、単純なものだな。」
そうして自嘲気味に笑うと、ゲーアノルトは他の兵士に視線を向けた。
「どこかに連れて行くのだろう? 立たせてくれ。」
いくら気力が湧いても、萎えた手足では歩くこともままならない。
それでも、心だけは折らない。
木こり、と嗤われるゲーアノルトだが――――父と
(…………不甲斐ない父で済まない、エウリアス。あとは頼む。)
ゲーアノルトには、託せる子がいる。
ならば、胸を張って己を貫くだけ。
ゲーアノルトは兵士たちに立たせてもらうと、両側から支えられ、牢を出るのだった。
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