勝手なあなたへ、明日を贈ろう

鶴田よだか

第1話 振られた日


「…別れてほしい」


駅のベンチに倒れこむように座ったとき、さっき言われた言葉が頭の中をぐるぐると巡る。

あまりにも突然だった。何を言われたのか、理解することができなかった。

周りの生徒たちの楽しそうな声が、今は何だか不快なノイズのように聞こえて、思わず顔を伏せる。

「別れてほしい」そう告げたのは、二つ年上の恋人だ。


放課後、私たちはいつも通り部室で待ち合わせをした。

暗証番号式の重めの扉を開けると、先輩がギターを弾いていた。

聞き覚えのない曲だったから、きっと次のライブで披露するのだろう。

そのときはそれだけ思って、私はいつも通り先輩のギターを聞いていた。

部室に入ってから私は口を開かなかった。練習の邪魔をしたくなかったのもあるが、

先輩の指から紡がれる心地よい音を、雑音のない中で聞いていたかったからだ。


だけど途中で、ふと音が止まった。

「すみません。邪魔しちゃいました…?」

「ううん。声、かけてくれていいのに」

そう言ってヘッドホンを外しながら、先輩が優しく微笑む。

開いた窓から入り込んだ初夏の風が、少し長い先輩の前髪を揺らした。

そんなありふれた光景ですら様になってしまうなんて、ずるいのではないだろうか。

…いつもこうだ。先輩を見ているとどこかむずがゆくて、顔に熱が集まるのを感じる。

「ま、窓。開けてたんですね」

集まった熱を少しでも逃がしたくて、意識を先輩から窓へ移す。

「うん。風気持ちいいから」

「そうですね。この時期はとくに」

そう言いながら窓の外を眺めてみる。

目の前は校舎の壁だけど、グラウンドが近いため運動部の掛け声が聞こえてきた。

…ふいに、ギターの練習が再開された。だけど、紡がれるメロディーはさっきのものとは違っていた。


…あ、これ、


「これって」

「あたり」


私が好きな曲。つい嬉しくなって先輩の近くに寄る。

目を閉じながら一音一音を感じる。

少し蒸し暑さを感じる肌に、初夏の風とギターの音が心地よい。

つい、曲の歌詞を口ずさむ。この時間がずっと続いたらいいのに。そう思っていると

ふと、唇に柔らかいものが触れた。

やっと冷めてきた熱が、また集まるのを感じる。

恥ずかしさから、ゆっくりと目を開けた。きっと、先輩も同じ顔をしているだろうと思った。

私たちは、おたがいに恋愛経験が豊富ではない。だから、キスをした後は

いつも顔をほんのり赤くして、ゆっくり視線を合わせる。

これがいつもの流れのようなものだった。

…のに。

「せん、ぱい?」

「…ごめん」

さっきとは違う形で、熱が引いていく感覚。

どうしようもなく感じてしまう、嫌な予感。

ずっと聞いていたいと思った声が、今は無性に聞きたくなかった。


「…別れてほしい」


気づいたときには、私は逃げるように走っていた。

何を言われたのか、わけが分からなかった。

さっきのは、本当に先輩だったのだろうか。

ぐるぐると考えが巡る。整理がつかない。

だって、先輩だ。私の大切な恋人だ。

かっこよくてギターが上手で、少し人見知りで、でもすごく優しい。

誰かを傷つけることを、誰よりも嫌がる人だ。


——好きになってくれて、ありがとう。

何度聞いたかわからない言葉。その度に、心が温まるのを感じた。

私がそうだったように、先輩も私を必要としてくれていた…のだと思っていた。

これからもずっと一緒にいられると、思っていた。


なのに。


電車の到着を知らせる放送がかかり、無理矢理に顔を上げる。

なんだか体がおもりのように重い。でも、今はとにかく先輩から、あの言葉から逃げ出したかった。なんとか電車に乗って、そこからはよく覚えていない。

…その日の夜、先輩からメッセージが届いた。


『ごめん。今までありがとう』


『無理です』


そう返したメッセージに既読が付くことはなかった。


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