屋上

佐原マカ

屋上

 屋上へと続く階段を駆け上がる。階段に溜まったほこりは、もはや階段の一部といってもいいほどで、駆け上がるたびに砂埃のように舞い上がる。ほぼ真っ黒な階段は、進むにつれてその黒さがさらに深まっていくかのようだ。目線を上げると、屋上の扉の隙間から漏れる光が視界を覆い尽くし、心臓の鼓動も徐々に強まっていく。扉にもたれかかり、光を避けるように目を細めながら、誰もいないのに軽い金属扉を両手で苦しそうに押しこむ。


 はぁはぁと肩で息をする。実際に疲れてはいるが、疲労感を漂わせながら屋上に入る。空気がまず変わる。もう夕方で辺りは真っ暗だが、ほこりっぽい砂漠のような感覚から、パリッとした冷たい風に一変する。これが夏ならどうだろう、とふと思いながら、私は散らかった椅子の中でも比較的不安定な椅子に座る、頼りなげな彼に目をやる。


「教室に戻りませんか」


 息苦しさをこらえながら、できるだけ冷静に問いかける。一瞬だけ私に視線を向けたが、すぐにまた目を逸らす。そして、彼は私よりも落ち着いた声で答えた。


「戻りません」


 なんというか、声というよりも音を聴いている感覚になる。その音に耳を澄ませると、聴きなじみのある言語だということに気づく。


「屋上、寒くないですか」


「寒いです」


「教室に戻りませんか」


「戻りません」


「…」


 冷たい風が吹き抜け、私たちの間の沈黙をさらに際立たせた。


 私はそっと耳を澄ませる。時間がゆっくりと流れているように感じ、この瞬間をしっかりと噛みしめている感覚を取り戻す。


 その感覚が逃げないように必死に抱えながら、足を引きずるようにして彼の近くへ寄り、一番近い椅子の隣、二番目に近い椅子を選んで座る。そうすることで少し安堵を覚える。そして、チャイムが鳴るまで、なんとなく彼と一緒に空を眺め続ける。


 毎度のことだが、「人は素直になれない」とは本当のようで、空を見たらその美しさをただ楽しみたいのに、見た瞬間から別のことが頭をよぎる。それをやめようとすればするほど、ここまで必死に抱えてきた感覚が肥大していくようで、頭の中は曖昧なまま「教室」という言葉を浮かび上がらせ、そこから物語が始まっていくようだ。


 実際、教室では窓際の席だから一番空がよく見えるはずなのに、この時間帯の屋上で感じる空には到底かなわない。まるで別世界だ。冬の空は、冷たい風が頬を刺し、胸を締め付けるような厳しさを見せつけてくるが、その厳しさは現実の嫌なところを彷彿とさせてもおかしくないはずなのに、そんな感覚が立ち上がる前に、その美しさが私を凌駕していく。


 私は、その一部になったような感覚を抱く。普段、何かの一部や歯車になることには嫌悪感しか抱かない私でも、この広すぎる、真っ暗な夕方の空の前では、ただ一部になるしかなかった。それでも、なぜか心地よかった。この学校の中で、この場所だけが、私は好きだった。


 思い返せば、その屋上を見つけたのは10月のことだった。


 高校生活は忙しく、めまぐるしく時が過ぎていく。ギリギリで入学できたこの進学校では、きっと皆、私よりも頭が良い。それは尊敬すべきことだと思う。でも、まるで機械のように進んでいくこの生活と、それを当たり前のように受け入れている彼らを見ていると、どうしても疑問を抱かずにはいられなかった。正直、少しうんざりしていた。きっと、私がマイペースすぎるんだろう。そんなことは分かっている。でも、時間がすり抜けていく感覚や、「今」はただ「より良い大学に入るための準備段階」という雰囲気が、本当に嫌でたまらなかった。


 こんな毎日がずっと続くのだろうか。先生は「三年間くらい我慢すれば良い大学に行ける」と言うけれど、三年間なんて、ほとんど永遠に感じる。毎朝目が覚めるたびに、自分がリセットされて、昨日までのことをすべて無視できるような一日が欲しいと、心から願っていた。


 そんなことを考えながらトイレに行こうと階段を上っていると、ふとさらに上の階へと続く階段が目にとまった。これはどこへ続く階段なんだろう、そう思いながら上っていくと、古い扉が現れた。


 両手で精一杯押し開けると、そこには屋上が広がっていた。


 放課後の屋上は、どこか暗く、寂しく感じられた。ちゃんと、この学校の雰囲気が感じられた。寒さと、漂う寂しさが混ざり合った場所。大阪の冬は、雪こそめったに降らないが、空気は凍えるほど冷たい。だから、屋上も本当に冷え込んでいた。


 上着を持ってくればよかった、と後悔しつつ、次の瞬間、散らばった椅子の中に人が座っていることに気づいた。驚いたけれど、声は出なかった。寒さで声が出ないのか、それとも、そもそも普段から声をあまり出さない生活を送っているからかもしれない。


 向こうも私に気づいたようだったが、何も言わない。私はただ黙って、その人の様子を眺めていた。なんだか気まずくなって、話すべきタイミングが来ているような気がした。衰えた声帯を無理に震わせて、やっとの思いで声を絞り出す。


「何してるんですか」


「空を見ています」


 本当にこの学校の生徒だろうか、そんなふうに思えるほど、彼は他の人たちとは違っていた。参考書を開くわけでもなく、ただ、ぼんやりと空を眺めている。


 彼が何を見ているのか知りたくなり、私は彼から一番遠い椅子に腰掛け、同じように空を眺めてみた。それから、少しずつ彼に近い椅子に移るようになり、12月になった今でも、私は同じことを続けている。


 最近気づいたのは、私は空を見ているつもりでいて、実は視界の端にいる彼を見ていることが多いということだ。彼は痩せ型で背が高く、頬がこけていて、手足が長い。少し出っ歯で、姿勢が悪い。きっと、背骨が曲がっているのだろう。


 彼の背骨がこれ以上曲がるのは嫌だけど、これ以上姿勢が良くなるのも嫌だと思っている。その微妙な角度がとても素敵で、彼から醸し出される独特の雰囲気が、そこに凝縮されている気がする。文豪みたいな感じが好きなのだ。それも、すごく「自殺しそう」な感じがする。


 そんな雰囲気に私が魅力を感じるのは、私自身がその感覚を普段から肯定しているからだ。そうした感覚こそが、私にとっての救いだと思う。世界を少し馬鹿にするというか、「なにがなんでも生きなければいけない」とか「死ぬのは駄目だ」といった意識が、知らない間にルールのように染みついていて、それを自分の中で必死に振りほどくことが、自分自身を肯定する行為であり、「本当の自分」を見つめている感覚になるのだ。そうやって深く沈み込めば沈み込むほど、私は自分に没頭して、大雨の中を走るバスに乗っているような感覚になる。


 そのうち、自分がバスに乗っているのかさえも分からなくなり、この世のことわりを超えようとしているような気さえする。それが怖くなり、耐えきれなくなったとき、何かのきっかけで現実に引き戻される。それは、安全装置のように突然起きる。戻された後、私はただ黄色い線の内側で、行儀よく待つようになる。たとえ轢かれてしまってもいいから、あのバスに戻りたいという勢いはどこにもなく、ひたすら群れに埋もれたままだ。そのとき私は思う。「あの恐怖より、今の苦痛の方がずっと我慢できるんだな」と。そんな自分の痛覚を確かめるように、皮膚をつねりたくなる。私は、確かに群衆の一部なのだ。


 目の前の彼を見る。彼はその群れに埋もれる感覚を易々と乗り越えて、今にも柵を跳び越えてしまいそうに見える。それが羨ましい。彼はただ、目の前の空を眺めているだけなのに。


 そんな風なことを思いながら、私は彼の背中が伸びないようにと祈る日々。それだけが私にとっての充実だった。

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屋上 佐原マカ @maka90402

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