第2話 遭遇

 小窓一つ設けられていない真っ暗な階段を充電式懐中電灯で照らしながら、田代雄哉(たしろゆうや)は部下の本多英太(ほんだえいた)を従えて五階から最上階へと上がっていた。

 一般的な物と違い自動車のハイビーム並みの光量で周囲を照らし出す事で、不法侵入者が存在しても離れた場所から姿を確認できる。

 万が一の事態に備えてヘルメットを被り鍬から外した樫材を手に持ち、風が通らず夏の熱気が籠るビル内部を巡回してきた。

「主任、今夜飲みにいきませんか。冷えたビールが旨いっすよ」

 暑さに耐え切れず作業服上着の前を開け放った本多が、背後から田代を照らして話しかけた。

「ああ。乾いた喉にキンキンに冷えたビールを流し込んだら、絶対旨いぞ」

 踊り場に立って振り返って答えた。

「決まりっすね。外に出たら女房に連絡入れなきゃ!」

 田代の横に立つと、満面の笑みを浮かべて言った。

「主任も奥さんに連絡入れてくださいよ?明日は土曜で休みなんすから!夜は長いっすよ!」

「子供が小さいから御期待には沿えないが、ある程度までは付き合うよ」

 樫材を壁に立てかけて、首に掛けたタオルで顔を流れる汗を拭う。

「早く帰らないと、奥さんに怒られますもんね。うちはまだ居ないから許してもらえるけど」

 田代に代わって階段の先を照らし警戒しながら、同情するような口調で本多は言った。

「世話は大変だけど、子供はいいぞ。体力のあるうちに子供を作って、たくさん遊んでやれよ」

 樫材を手にすると懐中電灯を先に向けて田代は上階へと歩き出し、本多は何度か頷きながら数歩離れて背中を追い階段を上った。

 閉ざされた鉄扉を開き広いエレベーターホールに出ると、確認するため周囲に懐中電灯の光を巡らせた。

 強烈な腐敗臭が漂っている。

 猫か鼠でも死んでいるのだろうか?

 六階はフロア全体を高級クラブ・スターライトが占めていた。

 今は動かないエレベーターに向かい合って、重厚な観音開きの木製ドアが閉め切られている。

「おい。誰か侵入したようだぞ?」

 ドアに取り付けられた金色のドアハンドルに巻き付けていたチェーンが、ロックしていた南京錠と共に姿を消している。

 高まる緊張感に本多は言葉を返す事が出来なかったが、無言でドアに歩み寄ると手にした樫材を閂(かんぬき)としてドアハンドルに差し込むと田代に向かって頷いた。

 田代は頷き返すと無言で男性用トイレの入り口を指差したあと、自身を指差した。

 男性用と並んで口を開いた女性用トイレに歩み寄ろうとする本多に向かって、掌を向けて動きを制すると樫材を構え慎重に踏み込んで行く。

 個室ドアを開け閉めする音が何度か聞こえた後、出てきた田代は首を左右に振りながら女性トイレに踏み込んで行く。

「誰も居ないし何も無かった」

 田代は戻ってくると本多に小声で伝えた。

 頷いた本多がドアハンドルに差し込んだ樫材を引き抜くと、小声で言った。

「てことは、臭いの原因はこの中って事っすよね?」

 ビールが不味くなりそうだなぁと表情をしかめる本多に田代は、

「明後日には解体工事が始まるから、処分は業者に任せたらいいだろう」

 と慰めの言葉を掛けると、回収出来る袋を持ってきたっけ?と作業ズボンのポケットを探った。

 ビニール袋は無かったがポケットティッシュが入っていた。

「ティッシュを詰めたら幾らかマシになるだろ」

 何枚か抜いて自身の鼻の穴に詰めると、本多に手渡す。

 鼻血を押さえるような、少し間抜けにも見える二人は警戒してゆっくりドアを開けて室内に踏み込んだ。

 進入を拒絶するように悪臭が強くなり二人を包み込む。

 フロントカウンターや事務所にクローク、スタッフ更衣室内を確認しながら客席へと歩を進める。

 ゆっくりと観音開きの内扉を開け、取り払われた間仕切りや衝立にソファーが片側に積み上げられた静かな客席に入ると、壁一面の窓ガラス越しに差し込む夕陽の光に二人は包まれた。

「主任。閉じていたカーテンが全部開いてますよ」

 普段は閉じていた厚手の布地の赤いカーテンが全て開けられて、営業当時のように柱の傍に纏められていた。

 樫材を持つ手に力が籠る。

 誰かが物陰や客席に繋がる調理室内に隠れていないか?

 気配や物音に対する感覚が高まる。

「主任、あれ」

 右奥の窓際にポツンと、内扉に背凭れの後ろを向けて置かれたソファーを指差して本多が声を上げた。

 左手に目を向けていた田代が振り返り目を遣ると、何かが集(たか)っているように見えた。

「何が有るのか確認してくるから、お前は周囲を警戒しておいてくれ」

 言い置いてソファーに向かって歩き出す。

 一歩進むごとに腐敗臭は強くなり吐き気が込み上げ嘔吐しそうになる。

 懐中電灯が不要な程明るいのにスイッチを切る事なくソファーに向けてしまう。

 蠅の大群が褪せた深紅のソファーに集っている。

 不愉快な羽音が耳朶を打ち腐敗臭が鼻の奥と目の粘膜を刺激する。

 懐中電灯を持つ腕を振り蠅を追い払いながら、田代は背凭れ越しにソファーの座面を覗き込んだ

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