第22話 基本的に保育園児は全員素直だ

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 暴川上流漁業協同組合では社会貢献活動の一環としてインターンシップや地元小中学校の校外学習を受け入れたり、保育園児と一緒に河川へのヤマメ稚魚の放流活動を実施している。


 まず、漁業協同組合とは何ぞやという話をすると漁業を行う人たちの組合だ。


 漁業とは何ぞやという話をすると川や海で魚や貝や甲殻類等を獲る行為だ。


 魚や貝や甲殻類等を獲る行為を採捕とも言う。


 プロの漁師が採捕を行う場合はもちろん漁業だが一般人が川で釣りや網で採捕をする場合も漁業にあたる。実際に獲物が獲れるか獲れないかに関わらず採捕そのものが漁業だ。


 漁業を行うためには漁業権という権利が必要であり国からの許可が必要である。


 逆を言えば漁業権を持たない人は近所の川であれ勝手に採捕を行ってはいけない。


 だからといってプロの漁師ならまだしも国内に何百万人もいる釣り人すべてに漁業権を与える許認可業務など事務が多すぎて国では直接やっていられない。


 そこで漁業協同組合だ。


 都道府県内を例えば○○川の水系であるとか××川の上流部、△△湖と言った具合に複数のエリアに分けて、そのエリアの漁業権を都道府県が一括して漁業協同組合に認可する。


 漁業協同組合は自分の管轄するエリア内で魚釣りをしたいという釣り人に対して管内で魚釣りを行う許可を一日限りや一年間有効の遊漁券ゆうぎょけんという紙にして販売する。釣り人が遊漁券を買って持っているか否か、すなわち漁業権を持っているかを漁協が取り締まる仕組みになっている。


 漁業権を持たずに採捕を行う行為が、いわゆる密漁だ。


 販売された遊漁券によって許可される採捕行為の内容は各漁業協同組合や、その漁協が存在する都道府県の規則によって異なる。


 漁業協同組合に対する漁業権の許認可は国が直接ではなく国から事務を移譲されている各都道府県が行っている。


 各都道府県に認可された漁業協同組合は管轄するエリアで自ら漁業を行ったり遊漁券を販売して収入を得る代わりに、エリア内の魚が絶滅したり枯渇しないよう河川に魚の産卵場所を整備したり、魚の稚魚や卵、若しくは成魚を放流して魚の増殖を行う義務がある。


 細かくは漁業権魚種であるとか違法な漁具・漁法であるとか、さらに色々な決まりごとがあるのだが省略する。


 まとめると、暴川上流漁業協同組合には釣り人にヤマメ釣りをさせて遊漁券収入を得る代わりにヤマメを放流する義務があった。


 年間何百キロという放流の義務量があるため年に何回か場所と量を変えてヤマメの放流を行っている。そのうちの一回に地元の保育園児を招待して、バケツに入れたヤマメの稚魚を川に放流してもらう食育のイベントを行っていた。


 保育園からすれば遠足、漁協からすれば社会貢献。お互いにウィンウィンだ。


 放流イベントは五月だが、イベントに先立ち保育園児に実際のヤマメに親しんでもらうため漁協で用意した水槽を保育園に置かせてもらってヤマメが成長する様子を観察してもらうことにしていた。


 具体的にはヤマメの受精卵を水槽に入れて展示し卵が発眼したり孵化する様子を見てもらうのだ。発眼とは卵の中に魚の形ができてきて眼がわかる状態だ。


 漁協管内には複数の保育園があるため一番大きな保育園に声をかけて、例年、放流イベントに参加してもらっていた。偶々、俺が通っている高校の近くにある保育園がそれだ。


 俺は文化祭の代休を利用してヤマメの人工採卵を手伝っていたが二日目の夕方は保育園への水槽展示作業を行うため建さんと一緒にうちの高校近くの保育園へ出張した。


 昨年までは建さんが一人で作業をしていたそうだが俺の高校の近くであるため学校帰りに俺が寄り道をして水槽の管理を行うほうが都合良いとなったため俺も同行した。


 例えば水槽の中の卵はすべて孵化するわけではない。途中で死んでしまったり、そもそも受精卵ではなく未受精卵である場合もあった。


 そういった卵は黄色ではなく白く死んだ色をしている。


 そのまま水中に放置しておくとカビたり腐ったりして他の卵に悪影響をもたらしてしまうため一粒ずつ取り除く必要があった。


 水を交換したり水槽のガラス面についた苔を除去する仕事もある。


 そのような管理をアルバイトの一環として学校帰りに俺がやることになっていた。


 もちろん養魚場の孵化槽の中の孵化盆に対しても毎日同じチェックが行われる。


 保育園には園庭があり園庭と各保育室の間には下駄箱がある外廊下、いわゆるシューズロッカー廊下がある。


 シューズロッカー廊下は直接外気に触れる場所だが屋根があるため雨でも濡れないし風通しも良い。また、直接、日光が当たらない常時日陰になる場所もあった。


 水槽内の水は日光に当たると温度が上がる。


 けれども、ヤマメは渓流魚だ。飼育には十五度以下の水温が望ましかった。


 養魚場の様に井戸水をかけ流しで使用しているのであれば問題はないが十月の気温だと、まだ十五度を上回る日があった。そういう日に水温が十五度を超えるのはやむを得ないとしても二十度は超えたくない。


 そのため、シューズロッカー廊下のうち、常時、日陰となり水温が上昇してしまわない場所を水槽の設置場所に選んでいた。


 養殖場から持ってきた水槽台を置いて幅六十センチ高さ三十センチ奥行き三十センチの水槽を設置する。


 水は保育園の水道から分けてもらって水道水中に含まれている塩素を抜くためにハイポを溶かした。ハイポとはチオ硫酸ナトリウムの結晶だ。


 俺たちが作業をしていると、何をしているのか、と園児が寄ってきて質問攻めにされた。


 基本的に保育園児は全員素直だ。


 俺たちを見かけると邪気の無い大きな声で、こんにちは、と挨拶をしてくれた。


 この素直さがいつから無くなってしまうのだろう。


 自分の胸に手を当てて考えたがわからなかった。もしかしたら俺には最初からなかったかも知れない。


 適当に保育園児の相手をしながら作業を進めた。


 ただ水槽に水を張るだけではなく水槽上部に濾過装置を設置したりエアーポンプによる酸素供給も実施する。


 水中で卵が流されずに安定するように水槽の底に若干砂利を敷いてから卵に砂利はかけずに砂利の上にヤマメの受精卵をバラ撒いた。自然界では砂利の外に卵があると他の魚などの天敵に見つけられて食べられてしまうが水槽内であるため問題ない。


 黒灰色をした砂利の上に点々と黄色い丸い卵が転がっている。


 卵は孵化するまで本当は日にあたらないほうが良い。


 けれども、水槽をシートで覆って中が見えなくなってしまうと展示する意味がないので、そこは諦めた。


 代わりに水槽の前に衝立ついたてを置かせてもらって日陰にした。


 若干、死卵しらんが増えるかも知れないので減って取り除いた死卵の分は養魚場から別の卵を持ってきて補充することにする。インチキだが展示目的なので、まあいいだろう。


 夕方近くに作業を始めたので、お迎えの保護者が来て家に帰って行く園児も多い。


 さようなら、と挨拶をされたので、さようなら、と返事をした。


 保護者からも何をしているかと聞かれたので、やはり答えた。


 保護者向けにヤマメと卵の説明のチラシを水槽の近くに貼っておく。


『来年の五月になったら、ここにいるヤマメの兄弟姉妹たちを来年のたんぽぽ組の子供たちと一緒に川に放流します」


 たんぽぽ組というのは、この保育園の最年長児クラスの名称だ。


 毎年、新しくたんぽぽ組になった園児を対象にして五月に放流イベントを行っていた。


「とりあえず今日はこんなとこだな。孵化までは毎日様子を見てやってくれ」


 作業が全て終了したので建さんが俺に言った。


「はい」と俺。


 健さんは保育士に声をかけるために場所を離れた。


「あれっ、相羽くん?」


 最後に水槽を前にして水漏れや不具合がないか最終確認をしているところで俺は背後から声をかけられた。


 振り向くと此花貴音が立っていた。

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