第15話 三十回の胸骨圧迫と二回の人工呼吸
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笹本は完全に意識がないらしく河床にある大きな岩に腹を押し付けられ、岩の一方に上半身、反対側に下半身が流れに乗る形で留まっていた。
腹を中心に左右に水の流れが均等に当たっているため、うまくバランスが取れてしまって岩から離れない。
俺は上流から流れに乗りながら笹本に近づくと笹本に抱き着いた。
足で川床を思いきり蹴る。
笹本の体が押し付けられていた岩から離れて浮き上がった。
意識がないから笹本が俺に抱き着いてくることはない。
もし抱き着かれたら俺まで溺れてしまうだろう。
俺たちは水面に浮かび上がった。
顔が水の上に出る。
俺は思い切り息を吸った。
その一瞬で辺りを見回し自分の場所と向いている方向を確認した。
流されているため和賀たちがいる場所より二十メートル程下流だった。
水から顔を出した俺たちに気づいたらしく和賀たちとその後ろの此花たちが慌てて駆けてくる。
俺は右腕で笹本の胸に手を回して抱きかかえ、笹本の顔が水面に出るようにしながら左腕と足を使って岸に向かって全力で泳いだ。
足が着く場所まで到達すると笹本を浮かせたまま岸に引っ張る。
辿り着いた和賀と鈴木も一緒になって笹本を岸辺に運び上げた。
砂利の上に仰向けに寝かせる。
俺は笹本の脇に両膝をついた。
「笹本、笹本」と笹本に覆いかぶさるような体勢で声を掛けながら肩を叩く。
返事はなかった。
「意識なし」
俺は確認結果を宣言した。
「此花、鶴瀬、俺がいた屋台にAEDがあるから溺れた人がいる話をして急いで持ってきてくれ。相羽麟がそう言っていると言えばすぐ通じる」
「「はい」」
此花と鶴瀬は全速力で駆けて行った。
「二葉は119番。場所を聞かれたら
「はい」
二葉はレジャーシートの場所へ駆けて行った。スマートフォンがそこにあるのだろう。
そういう指示を出しながらも俺は笹本の胸と腹に呼吸による上がり下がりの動きがあるか注視していた。
上がり下がりはない。
「自発呼吸なし」
俺は確認結果を宣言した。
頸動脈に手を当てて血液の循環の有無を探る。
脈はない。
笹本の首は水温と同じくらい冷たかった。
「心肺停止状態」
俺は残酷な言葉を口に出した。
和賀と鈴木は真っ青になっている。
「心臓マッサージだ。和賀と鈴木は俺のやることを見ていて、もし俺が疲れたら交代してくれ。それから人が近づきすぎないように遠ざけて」
「「はい」」
俺たちの周囲には騒ぎに気付いたキャンプ場のお客さんやその他の人たちが遠巻きに集まってきていた。
中には早速スマホを取り出して横たえられている笹本の動画を撮影している人もいた。
頭がどうかしているとしか思えない。
とはいえ、指摘したところでどうせ会話は通じないだろう。
回転寿司屋で醬油を舐めるような奴らと恐らく同類だ。
相手にするだけ時間の無駄だった。何よりも今はその時間がない。
俺は笹本の胸骨中央下半分あたりの場所に開いた自分の両手を重ねて置き、肘を真っ直ぐに伸ばして垂直に圧迫を繰り返した。全身全霊を使った重労働だ。
「一、二、三、四……」と声に出して数えながら三十回の胸骨圧迫を繰り返す。
その後、俺は笹本の顎をクイっと上げて気道を確保し、笹本の口を自分の口で塞いで一秒間に二回、息を吹き込んだ。吹き込まれた息で笹本の胸が隆起する。
それが済んだら、また三十回の胸骨圧迫と二回の人工呼吸。
その組み合わせを延々と繰り返す。
いつまで?
再び心臓が動き出すかAEDが届くまでだ。
つい一か月前の七月上旬に俺は暴川上流漁業協同組合の事務所でAEDの使い方と心肺蘇生法の講習を受けていた。何のことはない。ヤマメの養殖場と同じ建物だ。
毎年、水の事故が多くなる時期の前に消防署から講師の人を呼んで漁協の関係者全員で講習を受けている。実際に必要になる可能性があるのでアリバイ作り的におざなりに講習に参加するわけではなくて、皆、真面目に取り組んでいた。もちろん、俺も。
うろ覚えだが何とか咄嗟に体が動いた。
「一、二、三、四……」
三十回と二回の繰り返しだけが俺の頭の中を占めている。
笹本が溺れてから、もう何分だっただろうか?
心肺停止から三分だか五分だかで脳の損傷が始まるらしい。
それまでに救命措置を始められるかどうかが肝心だと講師である消防隊員が言っていた。
俺は笹本が沈んですぐに引き上げたはずだ。
マッサージ開始までに三分は経ってない。多分。
トータルで何回ルーチンを繰り返したのか、もうわからない。
けほ、と笹本が水を吐いた。
けほけほ、と水を吐き笹本が意識を取り戻す。
ドラマでよく見るようなシーンとまるで同じだと俺は思った。
そこまでだ。
俺は笹本の隣にごろりと寝転んだ。
もう疲れて動けない。腕がパンパンだ。
ギャラリーたちから一斉に拍手が沸き起こった。
その時、建さんが、ちょうどAEDを持って到着した。
此花と鶴瀬もいる。
どこからか救急車が近づいてくる音がしていた。
パトカーのサイレン音も聞こえる。119番に事故の通報があった場合は消防署からの連絡を受けて連携する警察官も現地にやって来るのが普通だった。
どちらも、すぐに来るだろう。
寝ころんだまま、俺は、ぜいぜいと息をした。
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