花に魅せられて

猫又大統領

弱い

 小さい山から夜の街を俺は見下ろす。風通しのいい山頂には明らかに人の手が入っていた。草が刈られて木製のベンチも置かれている。クタクタな俺はベンチに吸い寄せらるように腰かけた。この場所から見る街はこぢんまりとしている。決して目を奪われるような景色ではない。住宅から零れる明かり。ヘッドライトとテールライトが尾を引く車両。等間隔に並ぶ街灯。よくある夜景だ。でも、不思議と落ち着く。

 そんな景色も今晩は少し騒がしい。豪邸がある辺りに赤色灯が回る。

 俺はビニール袋から安酒の缶を取り出した。そして、温い炭酸の酒を一度に胃へ流し込む。熱くなった身体にはそよ吹く夜風が心地よい。だが、それは束の間。頭がクラクラする。鼓動も激しくなる。

 酒に弱い自分が情けない。

「お化けですか?」女性の声に体がビクッとなった。辺りをみる。

 俺が振り向くと人影があった。月明りでぼんやりと照らされた髪の長い女性。

「だ、誰?」俺はそれしか言葉が出ない。

「よかった。お化けさんかと思って。人で良かった!」そう暗がりから女性の声がした。

 影は俺にゆっくりと歩み寄る。そして、彼女の輪郭が徐々に見えた。十代後半くらいの端正な顔立ち。何より、彼女の身に着けている白い長袖のワンピースは、夜に映えていた。

 俺は飲み干した缶に再び口を付けた。一滴も出てこない。緊張を誤魔化すためだった。

「いい飲みっぷり。それ、お酒ですよね?」そういって彼女は笑った。「ええ。酒です。水ですよこんなのわ」と俺も笑いながら答えた。

 男は威勢を張って一人前。そう、働く先の先輩がいっていたことを俺は思い出していた。

「着ているものって作業着ですよね? 働いてるんですか?」彼女はそういった。「ええ。工場で」俺が答えると彼女は「服かっこいいですね」といって微笑む。

 俺は下を向いて、そりゃどうも、と呟いた。

 彼女には暗がりで見えないのだろう。俺の作業着はひどく汚れていた。工場の仕事に慣れない俺の作業着は他の工員のものよりも汚れているんだ。

「歳は私と同じくらいですよね。すごいですよ。お酒は飲んでるけど」

「えっまあ」と俺は酔いもあって上手く答えられなかった。

 まあ。働けても、飲めない年齢であった。

「いつもここで飲んでるんですか?」

「ええ」

「お酒は飲むけど、ゴミはちゃんと持って帰る人なんだ」

「そうだけど……どうして分かりました?」

「最近ここによく来ていたんですけど空き缶なんて落ちてませんでした」

「探偵みたいだ」俺がそういうと彼女は声を出して笑った。

「不良なのか、真面目な方なのか分かりませんね。どちらですか?」彼女が尋ねた。丸くて大きい瞳がこちらを真っすぐ見つめる。

「さあ」と俺が答えると、彼女は右のほっぺを膨らませた。

 それを見て俺が笑った。

「悪い人ではなさそうですね。でも、ここでお酒を飲むだけですか?」

「えっと、景色見ながら。つまみは出来立ての夜景ってなとこ。100万ドルの夜景じゃなくて、二千、三千円の夜景ぐらいだけど。俺の財布の中身がそれしかないだけか」

「だいぶ酔ってますね。面白い」と彼女はいったけど、その口角は少しも動いてない。

「夜空も夜の街並みも素敵です。でも、近くにも素敵なものはあるかも知れませんよ。たとえば、この花」

 そういって彼女はすぐ横の地面を指さす。

 そこには、白く柔らかな月光に照らされた花が、闇に浮かんでいた。

「こんなとこに花が……」俺は言葉を失った。

「綺麗ですねよね」その言葉に俺が相づちを打つ。

 その花に目を奪われている俺に向かって「お願いがあるんです」と彼女が切り出した。

 俺が彼女のほうを向くと、彼女の手のひらが目の前にあった。

 嘘のように大きい緑色の透き通った石が彼女の手のひらに乗る。よく見ると石の塊ではなく、指輪だと気づいた。

「これを受け取ってください」そういって彼女は俺の手に押し込むように握らせた。手が触れたことにドキッとする。

「こ、れは」俺がそういと彼女は透かさずいった。「用心棒代です」

「守ってくれませんか?」

「だ、誰から?」

「父……です」彼女はそういうと長袖を捲る。白い肌が見えた。けれど、その腕には、いくつもの擦り傷や赤みを帯びた腫れがあった。

「あなたの父親が?」俺の言葉にゆっくり頷いた。

「もしかしたらここに父がきます。私は山の反対側にある駅で夜行列車に乗りたいんです。それまで時間を……」

「ああ。そうか。わかったよ」

 ありがとう、そういって彼女は反対側の斜面を降りて行った。その笑顔だけを残して。


 彼女が降りた方向とは別の方向から足音がした。

「目撃情報はここです。この山を登ったとの情報です」

「向こう側は駅だ。列車で逃げ慣れるとまずいぞ。人を駅にもまわせ!」

 唸るような太い声が聞こえた。

 来る。

 姿が見えた。3人。

「ここは通さない! それにぶっ飛ばしてもやるからな。卑劣な奴だ。どれが父親だ?」

 俺は暗がりから叫びながら、飛び出した。一番の大柄な影に殴りかかる。

 その瞬間、地面へ仰向けに叩きつけられた。

 この父親は強い。あの子はいつもこんな目にあっていたのか……。

「公務執行妨害で逮捕されたいのか?」

「はあ?」

「お前は怪盗”月光の花”の仲間か!」

「え?」

 もう一人の男が俺の身体を探る。「ありました。指輪。盗まれた物の中の一点です。盗んだ中じゃ一番価値の少ないものです」

「どういうこと……ですか」

「お前はあの大泥棒の女怪盗に騙されたんだよ。いつもそうだ。短時間で男が篭絡して、追っ手を撒くために使うんだ」

 

 今晩分かったことがある。俺は、酒にも女にも弱かった。

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