第1章:契約結婚は突然に

1章-1:クリスティーナ・オルセン

「クリスティーナ。お前が、ネウトラーレ女修院にいく必要はない。どうか考え直してくれ」 


 クリスティーナ・オルセン男爵令嬢。

 大陸にある八つの国の中で最も小さく北西に位置するネウトラーレ王国。その国の、北東にある辺境フルグス地方の一部の領土、ソリトド村と呼ばれる土地を治めているオルセン男爵家の令嬢として私は育った。育ったといっても、本当の娘ではなく、養子としてだ。


 子宝に恵まれなかった男爵夫妻が、ソリトド村の外れに位置する草原の上に円状に並べられた巨石の下で私が泣き叫んでいるのを見つけたらしい。古くから始祖の魔女と呼ばれる伝説の魔法使いがその地を守ったと言われているソリトド村で育った夫妻は、私を魔女からの授かり物と喜び、育ててくれた。


 曽祖父が、戦争で活躍して承った男爵の地位。その地位は、父であるパトリック・オルセンが受け継いでからというもの不幸が続き衰退の一歩を辿っているらしい。


 窓の外では、冷たい雨が降り注いでいる。この一年、フルグス地方では冷害に悩まされ、作物があまり育っていない。晴れの日も少なく、明け方には土に霜柱が立っている。本来この豊かな土地では、たくさんの果物や小麦が収穫されるはずだった。


 収穫がなくても数年は持ち堪えられるはずだった。霧雨がソリトド村を包んだ日の午後のことだった。薄いそば粉で作ったガレットに一つの目玉焼きを三等分にできないかと養母と奮闘していた時だった。


 玄関から激しく家具が倒れる音が聞こえてきたので、養母と慌てて駆けつけると養父が新聞を片手に床に頽れていた。


「どうしたのですか? あなた!」


 養母が尋ねると「これを……」と養父は力無く床に散らばった新聞を指差した。それに視線を向けて、養母は今までに聞いたことがないような悲鳴をあげた。

見出しには、オルセン男爵家が懇意にしていた銀行の倒産が見出しにあったのである。預けていた財産が全てなくなってしまい、破産となったオルセン男爵家は親戚の家に泣きつかねばならない事態となった。


 しかし、問題はそれだけではない。王都で伯爵家や子爵家と強い繋がりを持っている養父の親戚たちは、私を得体の知れない生き物として扱っていた。オルセン家の中に孤児の血を入れたくなかったのである。


 私を育てると養父たちが宣言した時、反対した者も多くいた。『身元の分からない人間をオルセン家に入れることは、あってはならない』とわざわざソリトド村にまで足を運んで忠告する者もいたらしい。彼らの心無い言葉が直接聞こえて傷ついて心が凍りそうな日もあった。


 だが、陽だまりのような養父母の愛情を受けて私は、生きてこられた。

 養父たちは、親戚たちの反対を押し切って私を育ててきた。事実上の没落を知った王都にいる親戚たちは『それみたことか。孤児など拾うからそのような目にあうのだ』と噂しあっていることだろう。銀行が倒産し、破産した養父たちが私を連れて行ったところで、彼らが受け入れるとは思えなかった。


 夫婦が私の処遇をどうするか夜な夜な話し合っていることは知っていた。なけなしの財産を使って、どこかに嫁にやった方がいいのではないかと話が着地しようとした時「女修院に行きます」と私は彼らに宣言したのである。


 ネウトラーレ女修院は、ソリトド村から少し離れた場所にある施設である。未婚の女性たちが生涯を通じて、身を清め、神に奉仕する場所だ。ここなら、オルセン家の評判も落とさないので、養父母に迷惑をかけることはない。


 初めは反対されたが、私は自分の意見を押し通した。

 一度は私の要望を受け入れた夫妻だったが、養父は諦められないといった様子で、女修院に娘を送ることを取り消すための手紙を書き始めようとした。


「お養父様」


「クリスティーナ。お前が、ネウトラーレ女修院にいく必要はない。どうか考え直してくれ」


「持参金をたとえ作って結婚して、お養父様たちが生活していくお金がなくなってしまうのは、本意ではないわ。もう何度も話し合ったでしょう? 私が結婚を諦めるのが一番なのよ」

 フルグス地方の貴族たちと連盟で王都に助けを求める手紙を出したというのに、返事はもうずいぶん来ていない。物資も滞り、私たち男爵家も、日々の暮らしのために多くの宝飾類や家具を手放した。


 養父は瞳に涙を浮かべ「私が不甲斐ないばかりに、お前を不幸にして申し訳ない。私がもっと銀行の経営に気を配って金を他所に移動させていれば」と私を強く抱きしめた。


「銀行の倒産は、誰も予想できなかったのよ。お養父様、私は不幸なんかじゃないわ。お養父様とお養母様と家族になれて、本当に良かった」


「クリスティーナ……」


 それ以上は言葉にならなかった。そっと養父の手に自分の手を添えると、握りしめられた。部屋の外から様子を伺っていた養母も入ってきて、私と養父を抱きしめる。

 大丈夫だと自分自身に言い聞かせた。


 受けた愛情は忘れない。これ以上彼らの重荷になってはいけない。どこへ行っても、この幸せな日々を胸に強く生きていけるはずだ。


 +++


 受け入れ先のネウトラーレ女修院から届いた手紙を持って来た配達員が、ガランとしたオルセン家の屋敷の中へ入ってきた時のことだった。玄関先で家財の整理をしていた私は、彼らの話を聞くことになった。


「おお、スミスくん。ありがとう」


 養父が手紙を受け取って、配達賃金を渡す。すっかり萎んだ財布から出された錆びれたコインを受け取ると、配達員は興奮した面持ちで口を開いた。


「男爵様。先ほど、ソリトド村の外れにある森付近で、身元がわからない少女が遺体で発見されたらしいです。しかも恐ろしいことに、全身から血が抜かれていたとのことですよ。みんな朝から大騒ぎで」


 配達員は、村で起きた悲惨な事件を興奮した様子で伝えていた。


「犯人は、きっとあいつですよ。ドミニク・ベルジック」


「スミスくん。滅多なことを言うものではないよ。彼は、人との関わりは希薄ではあるが、由緒正しい伯爵の地位を持っている方だ」


「ですが、あの森の先にあるのは、彼の屋敷ですよ。みんな噂しています。普段は村の方に近寄りもしないのに、見かけたやつがいるんですよ」


 配達員は、犯人は彼で間違いないと言わんばかりの態度で、息を荒くしていた。

 ドミニク・ベルジック。ソリトド村から少し離れた森の奥に古城を構える伯爵だ。人嫌いで有名で、その古城に足を踏み入れた者は少ない。


『あの古城の中には、数世紀も前の肖像画がいくつも飾ってあって、不気味だぜ。部屋だって、綺麗に整えてはあるが古びたままで、ベッドの布なんかは朽ちているのに変えていない物もあった。正直、二度と行くのはごめんだね』


『あそこの使用人も変なんだ。主人と同じ首輪をつけて、食い入るようにじっとこちらを見つめてきてよ。不気味ったらありゃしない』


 数々の悪い噂話がある彼であるが、若い乙女にはこっそり人気があった。なぜなら、彼はものすごく端正な顔立ちをしているからである。透き通るような白い肌に、薔薇のような唇、黄金色の瞳は見るものを吸い込んでしまうような輝きを誇っている。癖のない真っ直ぐ伸びた長い黒髪を一つにまとめ、皺ひとつない黒服に身を包んだ彼は、神秘的な魅力すらあった。


 人々の前に滅多に姿を現さない割に、噂の絶えないドミニクであるが、私は一度だけ彼と踊ったことがあった。


 それは、村の収穫祭を祝うための舞踏会が開催された数年前のこと。気まぐれに訪れたのか、誰かが絶対に参加すべきだと彼に進言したのかは定かではない。とにかく、彼は舞踏会に姿を現したのである。


 全員が固唾を飲んで見守っていたが、彼はその会場にいる誰とも話すことはなく、裏庭の方へ向かってしまったらしい。


 らしいというのは、その時私も裏庭にいたのである。生まれて初めて舞踏会に参加したはいいものの、気後れして見事に壁の花になってしまった。居心地の良くない会場にいるのが辛くなって、裏庭で星空を眺めていた。


 その時、やってきたのが伯爵だった。私は、彼がかの有名なドミニク・ベルジックであると気がつかずに声をかけてしまったのである。


『こんばんは。すっかり壁の花になってしまって逃げてきてしまいました。あなたも星空を眺めにきたんですか』


 相手は驚いたような表情を浮かべていたが『ああ、そんなところだ』と答えてくれた。


『あの星、青白く光っているのですが、なんだか知っています?』


『あれは、一等星だ。下方に赤く光る星とその下にある三点と繋げると、女神の星座になる』


『お詳しいですね』


『君より、ずっと長生きだからな。知っていることは多い』


 なんだか親近感が湧いたので、私は調子に乗って『もしよければ、壁の花同士で踊りませんか? 私、今日がデビューだったのですけど、このまま帰宅するのは寂しくて』と手を差し出してみたのだ。彼は一瞬目を見開いたが、小さく微笑んで私の手を取ってくれた。


 冷たい手だったので少し驚いてしまったが、優しく触れてくれたので怖くはなかった。


 微かに聞こえる音楽を頼りに、月明かりと星空の下で踊った。


 胸の奥に温かい何かが芽生えてくるのがわかった。不思議な安心感と共に、今までどうして離れていられたのだろうといった感情が心の中に渦巻く。


 曲が終わって少しの間、お互いに手を繋いだままだった。先に手を離したのは彼の方で『今夜の思い出はできただろうか?』と優しく尋ねられた。名残惜しさを感じたまま、私は『ええ。ありがとうございます』と答えた。


 彼と会ったのは、その日が最後だ。のちに、彼が有名なベルジック伯爵だと知り、ひどく驚いた。私が裏庭から戻ってきたことを知ると、周囲からは心配の声をかけられた。


 何を言っても悪い方に取られるだけだと思い、彼と一緒に踊ったことは、私だけの秘密にすると決めた。

 あの夜のダンスは、私の中にある甘くほろ苦い大切な思い出である。


「だから、奴が怪しいと思うんですよ」


 配達員の声で我にかえった。彼が、人殺しをするような人だとはどうしても思えなかったが、養父はすっかり信じてしまったようである。


「まったく、恐ろしいことがあるものだ」


 二人はしばらく話を続けていたが、私はこれ以上その噂話を聞くのをやめた。


 +++


 女修院へ出発する日の夜明け前、私はこっそり家を抜け出した。生家から少し離れた場所にある、自分が捨てられていた巨石の前へと向かったのである。


 新しい人生の門出の前に、過去の自分と決別する意味も込めたかった。幼い頃には何度か両親に連れられてやってきたことがあったが、一人で来るのは初めてだった。

広大な草原に連なる巨石は、どっしりと構えて天に向かって伸びている。草原の向こうにある森から小さな木の葉の擦れる音が、風に運ばれて聞こえてきた。


 私を産んだ母は、どんな顔をしていたのだろう。私と似ていたのだろうか。


 本当の両親は、どういうつもりでここに私を置き去りにしたのだろう。


 物心ついた時からずっと脳裏に浮かんでは消してきた疑問を、もう一度心の中でそっと唱える。私は何者なのか。ただの孤児なのか。


 少しでもいい。手がかりがあればいいのにと思いながら、一番大きな巨石の方まで歩いて行って、そっと触れてみる。石はひんやりして気持ちが良かった。


 まだ星が輝いている。ドミニクに教えてもらった女神の星座は、今日も一等星を中心として輝いている。東の果てからは、橙色の空が侵食し始めるのが見えた。もうそろそろ太陽が顔を出し始める頃だろう。少しでも天気のいい日があれば、作物が育つ。今日は雨が降りませんようにと願う。


 しばらく触れて手を離そうとした時だった。巨石の表面に文字のようなものが刻まれていることに気がついて、その一列の文字をそっとなぞってみる。


「きゃっ!」


 火花のようなものが指から溢れ、同時に全身を覆うほどの青白い光が巨石から放たれた。その光に連鎖されるように、他の巨石からも青白い光が浮かび始める。


 何が起こっているのかわからなくて、後退りをするが、巨石たちから放たれた光は、宙で一つになると、目にも止まらぬ速さで私の方へ向かってきた。光は私の腹の中に入ると、通り抜けずにゆっくりと輝きを消失させる。


 全ての強い光が私の中に入った後、草原では何事もなかったかのような静けさが戻っていた。


「どういうこと? 何が起こったの?」


 自分の腹に触れてみるが、何も反応しない。先ほどの光は幻想だったのかと、もう一度巨石の文字をなぞってみたが、火花は出てこなかった。


「何をしている?」


 突然低い声が背後から聞こえてきて、振り返る。そこには、ドミニク・ベルジック伯爵が立っていた。 


 太陽が空の最果てから姿を現し始め、巨石の影が彼の立っている闇の方へと向かう。


 ドミニクは、光の進み具合をちらりと黄金の瞳で確認した後、私の方へと視線を戻した。


「家へ帰るんだ。早く!」


 あまりに鬼気迫る表情であったので、私は怖くなって草原の端に寄せていた馬車の方へ走る。


 しかし、馬は興奮していてうまくいうことを聞かない。何かに怯えているのか、両耳をピンと立てて後ろに後退りながら、落ち着きなく足踏みをしていた。


「大丈夫よ。大丈夫だから」


 なんとか宥めて座席に座り、馬を走らせる。馬は「ヒヒン!」と鳴くと私を乗せて、男爵家の屋敷へと向かい始めた。振り返ると先ほど伯爵が立っていた場所にまで太陽の光は届いており、彼の姿は忽然と消えていた。


 家に戻るとまだ誰も起きていなかった。


『家へ帰るんだ。早く!』


 彼の言葉が脳裏に蘇る。乱れた息を整えて、どうしてあの巨石が光ったのか、そしてどうして彼があそこにいたのか、混乱するばかりの頭で考えた。


 しかし、答えなどができるはずがなかった。


 朝日が窓を通して、床を照らした。一瞬人影が通った気がして、視線を窓の外へ向ける。物音ひとつしないのが、不気味だった。意を決し、窓を思い切り開けて外を見渡したが、そこには誰もいない。私は怖くなって、窓を閉めた。


「クリスティーナ? 起きているの?」


 寝起きの養母が二階から降りてくる。私は彼女の方へ顔を向ける前に一度呼吸を整えた。先ほどあったことは、言わないでおこうと心に決めて。


「おはよう。お養母様。ちょっと今日は早起きしてしまったの」


「寂しくなるわ。本当に」


 養母が両手を広げてきたので、私は彼女の腕の中に素直におさまった。母の好きなラベンダーのコロンの香りがかすかにして、少しばかり安心する。


「お養母様のラベンダーの香り。大好き」


「嬉しいことを言ってくれてありがとう。使いさしでよかったら後であげるわ」


「いいの? とても気に入っていたのでしょう」


「宝飾類はすべて手放してしまったんだもの。たったのガラス瓶だけれど」


「嬉しい。ラベンダーの香りを大切に、お養母様のことを思い出すわ」


 視線があって微笑み合う。そして養母は「そろそろ、あの人を起こして朝食の支度にしましょう」と私から少し距離を取った。


 いつもと同じ日常が、そして、最後の日常が幕を開けようとしていた。

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