『雪解けのときはまだ遠く』2
その日は、夜のうちにどっさりと雪が降り積もっていたが、私はいつも通り散歩にでかけた。
早朝のうちに除雪車がおおよその道路の除雪は済ませてくれているし、大半の人間が出勤や登校を済ませた道は、ほどよく歩きやすく均されていた。
雪は、私の膝丈ほどまで積もっていた。この町においては、例年並みの積雪量と言ったところだろうか。小学生の頃はもっと積もっていたような気もするが、ぐんと背が伸びた大人になってみれば、大したことのないように思える。いや、これだって雪の降らない地域の人間からしたら、豪雪と言わしめる程度の積雪量なのだろうけれど。
雪が降り積もると、世界は途端に静かになる。
いつもであれば遠くに聞こえる電車や車の走る音、どこかの工事現場の音が、雪に吸われてしまうのだ。
聞こえるのは、自分の呼吸音と、着込んだ服の衣擦れする音と、ぎゅむぎゅむと雪を踏みしめる音だけ。いたってシンプルだ。
足元だけを見つめ、黙々と足を進めていく。
雪の日は特に足元に気をつけて歩かないと、すぐに転んでしまうからだ。瞬時に次に足を置く場所を選び取り、慎重に足をつける。それができたら、もう片方の足。その繰り返しだ。それだけに集中して一定時間歩くだけという点においては、私にとっては、雪の日は一番散歩に向いているのかもしれない。歩くこと以外に、なにも考えずに済む。
そうして、どれだけ歩いた頃だろうか。
気がつけば、私は家からかなり離れた空き地の近くまで来ていた。
正確に言えば、ここには昔、そこそこ大きな家があったはずだ。しかし、ここに一人暮らしをしていたおばあさんが亡くなって、あっという間に家は取り壊され、開いた土地だけが残ったのだ。田舎ではよくあることだ。うちの近所でも、何軒か同じ状態になっている場所がある。こんな田舎でも、子どもの頃から比べると、随分と風景が変わってきているのだ。
変わらない場所なんてない。
だからきっと、私もこの状況からは遅かれ早かれ脱却できるのだ。そうに違いない。そうでなければ――
「やっほー、久しぶりー」
と。
歩きながら良くない思考に陥りかけていた私の耳に、底抜けに明るい女性の声が届いた。
こんな雪の日の、こんな半端な時間に、こんな場所で、待ち合わせをしている人なんて居たのか。
好奇心で顔を上げて周囲を見回すが、ここには声を発した女性と私の二人しか居なかった。
静寂に包まれた、真っ白の世界に、二人だけ。
それが心臓を握り締められたような錯覚を覚えるほど、苦しく切ない思いにさせる。有り体に言えば、『懐かしい』というやつだ。
その女性は、私の古い記憶にある少女の面影がありつつも、しっかりと大人の姿になっていた。昔は空色だったワンピースも、今は少し落ち着いた色――勿忘草のような色味になっている。いや、正直に言ってしまえば、見た目云々よりも先に、真冬にワンピース姿という、ある種突飛な格好をしている点においては当時から変わらずで、むしろそれだけで、私は彼女が当時遊んでいた女の子であると同定できてしまっていた。
「君だよ、君。
えへへ、と脱力した微笑みを向けてきた彼女に、私も似たような表情を浮かべ、
「相変わらず寒そうな格好してるなって思ってただけだよ、
と言いつつ、歩み寄る。
彼女――蒼葉の足元には、手のひらサイズの小さな雪だるまがいくつも並べられていた。今日ここで会う約束なんてしていないのに、私が来ると信じて疑っていなかったようである。いや、蒼葉ならそういうこともわかるのかもしれない。なにせ彼女は、人間ではない。
「なんだっけ、全国を巡る修行の旅をしてたんだったよな?」
「そ。ようやく一人前になって、姿も大人になれたからさ。千慧にお披露目してあげようと思って、こっちに来たんだ」
雪女、大師様、
私がこの町から引っ越す際も、無理を通して見送りに来てくれた。
そのとき、修行云々についても言及していたのだ。
修行の旅に出るからしばらくは会えなくなる、と。
だけど絶対一人前になって戻って来るから、そのときはまた一緒に遊ぼうね――そんな約束もしていた。
しかしまさか、こんなタイミングで蒼葉との再会を果たすとは予想だにしておらず、私は内心動揺していた。それは、彼女が怪異的な存在だからではなく、私が平日の昼間に近所を徘徊する大人に成り果てていることに対しての、掴みどころのない焦燥感と羞恥心からくるものである。
「おかげで、この大雪ってわけだ」
彼女がそういった類のものを見通すことができるのかは、わからない。しかし私は、それらを誤魔化すように言った。
「えへへ、つい張り切り過ぎちゃった。でも千慧、わたしと再会できて嬉しいんじゃないの~?」
「そりゃあ嬉しいさ。嬉しいけど、加減ってものを知れって話。除雪車がいつも以上に活躍しまくってたぞ」
「だって、千慧とたくさん雪遊びしようと思ったんだもの」
「確かに、これなら遊び放題だけども」
蒼葉との会話は、二十年のブランクを一切感じさせなかった。まるで昨日も一緒に遊んでいたような気さくさで、私の心を当時に戻してくれているようにさえ感じる。社会の泥を身体に詰め込まれる前の、純真無垢だった頃に。
しかしそれは、あくまで錯覚だ。
社会に揉まれすり減った私は、もうあの頃と同一になれはしない。
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