『名無しの名無花さん』6

 寝起きのぼやぼやとした思考回路で、昨夜のことを思い出す。

 果たしてあれは、現実だったのだろうか。名無花さんがドアをノックしたところからして、夢だったのかもわからない。部屋の中に置き手紙の類はなかった。名無花さんは、本当にあの一言を言う為だけに私の部屋を訪れ、部屋主は寝ているというのに、本人に届かない言葉を並べ立て、勝手に満足して行ってしまったのだろうか。

「……おはよう」

 リビングに行くと、昨日まであった名無花さんの椅子がなくなっていた。食器棚を見れば、彼女用としていた食器類がなくなっていることも確認できる。

 ああ、本当に居なくなったんだな。

 この一週間ずっと願い続けていたことが、ようやく実現したというのに、存外喜べない自分がいる。あの言葉がなければ、きっと今頃すっきりとした朝を迎えられていただろうに。

「おはよう、詩帆。もうすぐお前のぶんもできるぞ」

 台所に立つ父は、いつもと変わらない様子で四人分の弁当の用意をしながら、私の朝食の準備をしている。母はばたばたと身支度を進めていて、兄はのんびりとテレビを観ながら朝食を食べている。

 ああ、本当にいつも通りの朝だ。

 当たり前の日常が、こんなにも輝かしく見える日が来るだなんて、考えてもみなかった。

「ほら詩帆、早く食べなさい」

 父はそう言いながら、私のぶんの朝食を兄の隣の席に並べ始めた。

「ちょ、ちょっと、お父さん! そこは私の席じゃないでしょ」

 ぎょっとした様子で止めに入った私に、父は少し大げさじゃないかと眉を顰めながら、

「ああ、悪い悪い」

と、兄の正面の席に朝食の品々を置き直す。

「……お父さんさ、昨日の夕飯、なんだったか覚えてる?」

「おいおい、なんだよ急に。流石に昨日の晩飯は忘れないさ。カレーだっただろう?」

 一抹の不安を覚え、ふと父にそんな質問を投げかけてみたが、普通に普通の答えを返された。名無花さんによる記憶の改竄というのは、あくまで名無花さんが関わる場面に限定するもので、家族全員で囲った食事のメニューまではその限りではないということか。

「でもさあ、先週の日曜もカレーだったよな。カレーは好きだけど、ちょっと間隔短くない?」

 そう言って会話に入ってきたのは、兄だった。

 兄の指摘に、父も、確かになあ、と相槌を打つ。

「でもほら、確かお前が母さんにリクエストしたんだろう? どうしてもカレーライスが食べたいって」

「え? 俺はしてないよ」

「じゃあ詩帆か?」

「……私もそんなリクエストはしてないよ」

「ええ? でも母さんが『あんなに熱心なプレゼンをされたら、カレーにせざるを得なかった』って言ってたんだが。はて……?」

 リクエストをしたのは、名無花さんだ。

 ただカレーを食べたい気分だからリクエストしたものだと思っていたが、その並々ならぬカレーへの情熱は一体なんだろう。

「母さん母さん、昨日の夜、どうしてカレーにしたんだっけ?」

 リビングの隣の部屋にある化粧台でメイク中の母に、父は問いかけた。

 すると、少し考えるような間があってから、母が答える。

「えー? どうしてもカレーが食べたいって言ったじゃない」

「誰が言ったか、覚えてる?」

「え? ええと……? あれ、お兄ちゃんか詩帆じゃないの? なんか、『カレーって家によって本当に味付けが違うから、この家のカレーが食べてみたい』って……あれ、本当に誰がそんなこと言ったんだっけ」

 記憶を辿るように中空に視線を遣った母だが、その先にあった掛け時計が示す時間が、遅刻ギリギリを指していることに気がつくと、慌ただしく身支度を整え、弁当を引っ掴むと出勤して行った。

「……ま、母さんのカレーは好きだから良いんだけどね」

 父さんが、宙ぶらりんになった問題に適当なオチをつけて、以降、この話は有耶無耶になった。

 月曜日こそ、私以外の家族は生活の中に若干の違和感を覚えていたものの、それも加速度的に薄れていった。むしろ、カレーの件を覚えていたほうが奇跡的だったのだろうと、そう思えるほど。

 これは私の勝手な憶測でしかないが。

 名無花さんは、きっといつもその世界に滞在する最終日に、カレーを食べているのだろう。

 世界によって、家庭によって異なるカレーの味を堪能し。

 その味が自分の世界のものではないことも同時に飲み込んで、また次の世界へ旅立っていく。

 私という特異点でさえ、彼女の鎹にはなれなかった。それならきっと、その鎹というものは、スキメ様の言葉を借りて言えば、強い因果で結びついたなにかなのだろう。

 再会の約束さえできない、次元の旅人である名無花さん。

 それなら、私から言える言葉はひとつだけだ。

 どうか、お元気で。




 終




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