『名無しの名無花さん』3
名無花さんが我が家に突如現れてから、六日が経過した。
土曜日はちょうど友達と約束があって外にでかけていたが、今日は、なにも用事がない。いつもなら、家族で適当にテレビ番組を観たり、サブスクで映画やドラマを観たりするのだけれど、今日だけはそれに参加する気にはなれなかった。だってリビングには、名無花さんが居る。日に日に増す違和感に耐えきれなくなって、自分の居ないところで吐き気のする会話が行われていようと構わないと意を決し、私は適当な用事をでっち上げて外出していた。
どうしよう。
この一週間、そればかりをぼんやりと考える。
そんな言葉を脳内に満遍なく行き渡らせたところで、狙い澄ましたタイミングで誰もが納得するほど素晴らしいアイディアなんて、思いつくはずもない。現状に対する不満と恐怖、そして無力感だけが『どうしよう』に詰め込まれて積み重なっていく。
ぼんやりと目的地も決めないまま歩き出し、しばらくして辿り着いたのは、家からちょっと離れた場所にある小さな神社だった。
この町の神社は、どこも全て綺麗に管理されている。そのおかげだろうか、空気も他より澄んでいるような気さえするのだ。きっと溜まりに溜まった心労を、ここに来ることで少しでも癒やしていけば良い、というカミサマの思し召しだろう。私は鳥居を潜って、お賽銭箱に小銭を投げ入れてお参りを済ませると、境内の端にあるベンチに座った。
どうしよう、と再び同じことを考え始める。
これまでの人生、私は家族のことが好きで、それが当たり前だった。こんなに嫌悪感を抱くのは、私の人生始まって以来初めてのことで、どう対処したら良いのか、皆目見当もつかない。家族を、嫌いにはなりたくないのに。
「――『あれ』は、そのうち居なくなるぞ」
と。
頭上から、声がした。
それは私より身長が高い人間から放たれた音にしては、随分と遠く。
それだけで、私は声の主がわかってしまった。
「……スキメ様?」
見上げてみると、案の定そこには、身の丈三メートルほどの女性が、私を見下ろしていた。
スキメ様。
それは、大昔にこの町の大元を造ったとも言われるカミサマみたいなひとで、今もこうして透目町を見守ってくれている。その常識外れな背丈からもわかるように、このひとは人間ではない。数々の不思議な力を持っていて、時折人前に現れては、気まぐれのように助けてくれたりするのだ。……いや、そういえばこの前、老舗和菓子屋で復刻品が出たとかで、張り切って上限数まで買い込んでいたという目撃情報を聞いたような気もする。まあ、それくらい人間に寄り添ってくれているカミサマなのだ。
「
慈悲深く微笑んで、スキメ様はそう言った。
「あ、あの、スキメ様は知ってるんですか? 今、ウチでなにが起きてるのか」
私の正面に回り、指をぱちんと鳴らして植物の椅子を生成しているスキメ様に、私は尋ねた。
「ああ、知っている」
できあがったスキメ様専用サイズの椅子に腰掛けて、スキメ様は言う。
「御主の家には今、次元の旅人が居るのだろう?」
「次元の、旅人……?」
「なんだ、本人から聞いていないのか」
「こ、怖くて、会話らしい会話は、全くしてないんです……」
「ふむ、確かに人間の感覚では、あれは不気味に感じるのだろうな」
少しの間、顎に手を当てて考えるような仕草を取っていたスキメ様は、そうさな、と話を続ける。どうやら、説明してくれるらしい。
「次元の旅人というのは、そう言えば格好はつくだろうが、つまるところ、ただの迷子だ。あれらは世界から世界へ渡る力を持っていて、一定時間が経過すると、強制的に別の世界へと移動する。旅人にとっての
「世界から世界っていうのは……?」
「御主の年頃でもわかるように言い換えるのであれば、そうさなあ――異世界、或いは、並行世界と言ったところだろうか」
「異世界……並行世界……」
この町には、特殊な能力を持つ人間がそれなりの数存在している。だから名無花さんもその類だろうとは思っていたが、思いの外規模が大きく、スキメ様の言葉を飲み込むのに多少の時間を要した。
「あれの褒めるべきは、自然と周囲に馴染むという点だろうな。まるで以前からそこに居たかのように記憶を改竄し、日用品も当然のように出現させる。だが今回、御主はどういうわけか、その記憶の改竄の対象にならなかった」
スキメ様が、じっと私を見つめる。
私の顔を見ているというよりかは、その奥にあるなにか別のものを観察しているような目つきだ。きっと、スキメ様にしか見えないなにかがあるのだろう。
「御主には特段能力はないようだが……ふむ、あくまで偶然による例外か」
果たして、スキメ様による状況判断はあっという間に終わり、結論に達する。
「あれは基本的に無害だ。故に、儂も次の世界へ移動するまで放置している。御主にとっては災難だろうが、せいぜいあと数日の辛抱だ。ふふ、そうだ、頑張っている御主に、ちと早いが褒美をやろう。御主、和菓子は食べられるか?」
「は、はい。大丈夫です」
「そうかそうか」
嬉しそうに口角を上げながら、スキメ様は左手の人差し指をついっと回す。すると、その指先からどら焼きがふたつ出現した。続いて、既にお茶が注がれているらしい湯呑がふたつ出てくる。それは空中をすいすい進み、私とスキメ様の前でそれぞれ停止した。
「ありがとうございます」
受け取ったどら焼きを見れば、スキメ様のお気に入りの和菓子屋さんの焼印が押されていた。ここのどら焼きは私も好きで、たまに自分のお小遣いで買っているほどだ。お茶に詳しくはないが、とても良い匂いがするから、きっと良いものなのだろう。
「あれをあまり怖がってやるなよ」
お茶を一口飲んでから、スキメ様は言う。
「この町には異能力者が多く居るが、ほとんどの人間はその能力を掌握し、自身の管理下に置いている。しかしあれは、言わば成り損ないなんだ。この町の異能力者ほどの能力は持たず、かと言って、無能力の人間でもない。加えて、居場所のない生き物だ」
「どうして、そんなことになったんでしょうか……?」
「因果の収束、或いは、発散の結果だろう。なに、人間には観測できない事柄だ。誰が原因でそうなったわけではない。ある種、なるべくしてなった、と言ったほうが良いものだ」
「はあ……」
スキメ様が言うからにはそういうものなんだろう、と思いつつ、どら焼きを一口かじる。慣れ親しんだ大好きな味が、口の中に広がっていく。こうして落ち着いてなにかを食べるのは、なんだか久しぶりな気がして、涙が出そうになった。
「世界を渡る能力を持つ人間というのは、なかなかどうして面倒な因果を持っているやつが多くてな。この間も、並行世界からこちらに来て、帰れなくなった男が居てな。旅人の上位置換の能力だというのに、実にもったいない。だが幸い、ちょっとした縁が奴の鎹になって、旅人にならずに済んだのだ。面白いだろう? これだから人間から目が離せなんだ」
身体の大きなスキメ様は、私が何口もかけて食べるどら焼きを、ぺろりと一口で食べ終えてしまう。そうして再び人差し指を回し、おかわりを出現させていた。
そんなスキメ様を眺めつつ、私はなにかを言おうとして口を開き、しかし、結局それを言葉にすることなく、お茶を飲んだ。うん、このお茶、思った通り、すごく美味しい。
「うむ、御主はそれで良い。手の届かないところにまで干渉して溺れる愚か者でなくて、儂は安心したよ。どら焼きもお茶も、美味しいか?」
「……美味しいです、すっごく」
スキメ様の口調は、明らかに幼子に対するそれだったが、このひとからしたら、高校生も中年も老人も、大して差はないのだろう。等しく『人間』という生き物でしかない。
スキメ様はあくまでもカミサマみたいなひとであって、断じて人間ではない。それは言わば、存在からして同族ではないと一線を引いていることを意味する。透目町で暮らすということはどういうことかを、小さい頃から耳にタコができるくらいに言い聞かせられてきた。だから、このひとに「人間の観察って、なにがそんなに楽しいですか?」なんて、分不相応なことを訊くなんて、あってはならないのだ。
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