『飛べない翡翠の歩きかた』6
両親以外の誰かとこうして外を出歩くのは久しぶりだというのに、加えて相手は男子である。若干の緊張を孕む私をよそに、望月君は楽しげな声音で話し始める。
「この辺、いつもの散歩コースじゃないからあんまり来ないんだけど、道路がまだ新しいからか、歩きやすくて良いね。チカちゃんの言ってたとおりだ。ああ、チカちゃんって、仲の良い地域猫のことね」
道路が新しいのは、この辺りが新興住宅地だからだろう。かくいう我が家も、都会では目が飛び出るほど高額な土地も、ここは良心的な価格だったらしく、広い庭付きの一軒家を構えたほどである。
「花桐さんの家もこの辺りだって風の噂で聞いたことあるけど、そもそも県外からこっちに引越してきたんだっけ? どう? 透目町は。……なんて、もう丸三年も住んでる人に訊くのも変な話か」
私相手に、沈黙を埋める為の世間話を一方的にするものだと思った矢先、突如として発言を求められ、私は目を丸くして望月君を見た。どんな感情でそんなことを言っているのか、確認しようと思ったのだ。
「え、だって、この子たちだけじゃなくて、俺も花桐さんと話をしてみたかったし……」
しかし、そうやってさも当然のように言われると、こちらとしては余計に言葉に詰まる。いや、そもそも言葉を紡ぐ喉が正常に動作していないから、言葉なんて出しようがないのだが。
「文化祭で展示されてた花桐さんの作品、すっごい素敵だったからさ。どんなものを見て、どんなことを考えていたら、あんな風に描けるのかなって、訊いてみたかったんだ。だけど花桐さん、あんまり人と関わりたくなさそうで、訊くに訊けなかったんだよね」
「……」
望月君の言う絵は、果たしてどれのことだろう。文化祭で展示した作品に限ったところで、それが三年分だと、それなりの数になる。直近の記憶に残っているものと仮定するなら、三年生のときのものだろうか。あれは確か、受験勉強の息抜きにちまちま描き始めたら、それまでで一番描き込んだ作品になったものだ。中学校から見える風景を描くのも、これで最後になると思ったら、ついつい熱が入ってしまったのだ。
そんなことをぼんやり思い出しながら、私は筆談用の小さなノートを取り出した。生憎と高校生になってもスマートフォンのひとつも所持が許されていない私は、アナログな方法でしか意思表示ができないのである。
『この町は居心地が良い。気に入ってる。そういう気持ちを込めて絵を描いたつもり』
歩きながら書いた字は少しがたついていたが、読めないほどではない。だが、暗くなりつつある野外では、そもそも見えにくかった。
望月君は目を細めてノートに書かれた文字を読み取ると、へえ、と短い声を上げる。
「それは良かった。ほら、ここっていろんなことは起きるけど、なんにもないところだからさ……うん?」
望月君の連れている犬が、彼を見上げてなにやら訴えていた。望月君は歩きながらそれを聞き取り、
「そっかあ、俺も君に会えて嬉しいよ~。一緒にたくさんお散歩しようね~」
と、なんともほのぼのとする返事をした。
この二匹の犬は、とにかく望月君のことが大好きで、お喋り好きのようだ。
『いつからボランティアをしているの?』
ノートを出したついでにと、私も質問してみることにした。
「高校生になってからだから、今年の四月からだね。あ、どうして猫と話ができるのに、猫の面倒を見てないんだって顔してる。はは、花桐さん、意外と表情に出るタイプなんだね……じゃなくて。俺が犬の散歩を率先してやってるのは、単純に、猫以外とも話ができるようになりたいからなんだ」
猫と話せるだけでも充分すごいのに、と首を傾げた私に、望月君は続ける。
「俺さ、将来、獣医になろうと思ってるんだ。動物の言葉がわかる獣医ってすごいじゃん。だから今は、練習中ってところ」
あまりに真っ直ぐで眩い言葉に、私は思わず息を呑んだ。
私たちはまだ高校生になったばかりだ。ようやく高校受験から解放され、新しい学校生活に慣れることに躍起になっているところだというのに、彼はもう将来に向けて走り出している。
将来なんて、どうなるのかわからない。
明確に目指す目標も、なりたいものもない。
どこかの大学へ進学して、どこかの会社に就職して働く人生なのだろうと、漠然としか考えていなかった。いや、これは『考えている』なんて大層なものではなく、敷かれたレールの先をぼんやり眺めているだけに過ぎないのだろう。
「もう将来のこと決めてんのって思うかもしれないけど、なんというか、これが今の俺の役目だと思うんだよね。なにかの縁や因果で俺にそういう力が備わっているなら、俺はそれを活かしたい。それなら獣医かなっていう、割と安直な発想でしかなんだけどさ」
きっと望月君にとっては、それが彼にとっての人生のレールなのだろう。私と違うのは、誰かに敷かれたものではなく、自分で選んで敷いたものだという点だ。わかりやすく先が見えていて、進みかたもわかっていて、それに野次を飛ばす人間も居ない。なんとも理想的な人生設計だ。
自分の適性を正確に判断し、進むべき道を決める。それができなかった人間が溢れかえっている世の中で、やっぱりこの時点で諸々が定まっている望月君は偉いと思う。
「それで、さ。ずっと花桐さんに訊いてみたいことがあったんだけど、良いかな」
それはさっきもう終えた話題では、と思ったが、周囲を念入りに見回して誰も居ないことを確認する望月君の様子を見るに、こっちが本命の話題だったらしい。
あのさ、と望月君は声を潜めて、言う。
「どうやったら、花桐さんみたいに鳥と仲良くなれる?」
刹那、胃を直に掴まれたような錯覚を覚えた。
吐き気で喉が締まるような思いがする。
冷や汗が、じっとりと頬を伝う。
どうして望月君が、それを知っている?
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