2-3:転校生、瑞原直斗

 東京にいる父は市役所の職員だった。そのため、企業勤めの他の父親たちと違って、転勤も単身赴任の心配もなかった。三鷹にある自宅だって子供たちが生まれる前に建てたものだし、新しく引っ越さねばならない事態は人生の中で一度もなかった。


 だから、『転校生』として紹介されるのは初めての経験だった。


「吉祥寺の高校から編入してきた瑞原直斗くんだ。家庭の都合で今はこちらの親類に引き取られることになったそうだ」

 担任教師が黒板の前で紹介をする。四十を少し過ぎたくらいの男性教諭で、頬骨が出張った顔をしている。頭は角刈りで、伸びきった感のあるトレーナーを着ていた。


 直斗は笑顔を作り、簡単な自己紹介をする。窓側の前から二番目の席に千晶がいるのを見る。彼はこちらに見向きもせず、頬杖をついて窓の外を眺めていた。


 これは、彼が決定した方針だった。


(おかしな状況に追い込まれた時こそ、日常的な時間は確保した方がいい)


 異常事態だから学業をおろそかにするというのは、『敗北』を認めることに繋がるのだと。動物たちに支配されるから勉強をしなくていいと決めることは、イコールで『もう元の日常に戻れない』と諦めることに繋がるのだという。


「では、そこの空いている席に座ってくれ」

 担任教師が指示をし、直斗は窓際の一番後ろへと歩いていく。


 十月に入ったので、今は黒のブレザーを羽織っている。赤紫のネクタイに黒の学生ズボン。


 自分用の席に腰を下ろす。机は用意されているが、教科書の類はまだ持っていない。ノートと筆記用具だけを鞄から出し、机の上に並べる。


「教科書、必要だよね?」

 隣の席は女子だった。直斗が準備を整えたのを見ると、自分から声をかけてくれる。「ありがとう」と直斗は言い、相手の方へと机を近づける。


 結構可愛らしい少女だった。顔立ちは少し幼い。目は円らで、頬がほんのりと赤く染まっている。髪はショートでボーイッシュな雰囲気がある。


「わたし、笹原ささはら芙美ふみ。よろしくね、瑞原くん」

 芙美はこちらの顔を覗きこみ、朗らかに微笑んでくる。「うん、よろしく」と直斗もつられて笑顔になり、芙美の姿をまじまじと見る。


 現金なものだな、と我ながら思ってしまう。学校など行かず、一刻も早く状況を打開すべきだと決めていたのに、やはり日常も大事かもしれないと今は考え始めている。


 でも、浮かれていられる立場ではない。

 ふと、窓の外へと顔を向ける。


 ベランダの方を見てみると、銀色の手すりの上に異物があるのがわかった。

 滑らかな光沢を放つ鉄の棒の上に、灰色の生き物がとまっている。どこにでもいるキジバトの一羽。それがじっとその場に留まり、まっすぐに顔を見据えてきていた。


 監視されている、と直感で察せられた。


 頭の中にあった淡い空気が急速に霧散していく。

 何も期待するな、と直斗は自分で自分に言い聞かせた。

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