1-6:「芳市。お前は、おかしいよ」

 これはもう、絶対に手に負える気がしない。

 今、未知の何かと接している。おそらく今までの常識は通用しないし、一人の頭で考えて答えを出せる域をとっくに越えている。


 だからまずはやはり、誰かにこの件を話してみよう。


 非日常的なことのため、いきなり話をしても誰も信じてくれないかもしれない。だからまずはクラスメートを数人見繕い、芳市の件で悩んでいることだけ話そう。そしてさりげなくカラスにまつわる実験をするところを目撃させる。


 それが、夜の内に考えて出した結論だった。


 駅のホームで電車を待ち、携帯電話のメール画面を開く。昨晩のうちに何人かに相談したいことがある旨でメッセージを送っておいた。


 午前七時五十分。吉祥寺駅に降り立ち、学校への道を早足に進む。

 昇降口に辿り着き、ブルーの絨毯の上で上履きに履き替える。

 今日に限って同じクラスの友人と全然遭遇しない。いつもなら上履きを履き替える段階で必ず誰かに挨拶されるはずなのに。


 教室への廊下を進む。なぜか今日は廊下にも生徒の姿がまったくない。普段はカップルでうろうろしている人間も何組かはいるはずだし、必ず誰かが廊下に出てふざけているのが普通のはずだった。


 なんだかな、と思いながら頭上の表札を見る。『1‐6』と自分のクラスの番号を目にし、黄緑色の引き戸に手をかける。


「おはよう」と中に挨拶をしようとする。

 しかし、ドアを開けた瞬間に違和感を覚えた。


 思わず、首をかしげさせられる。

 なぜだか、教室の中から笑い声が聞こえてくる。


 普段も一応、教室では誰かが笑い声をあげているのが普通だ。どうでもいい冗談を言い、ゲラゲラと笑う。


 でも、今日は明らかに何かが違う。


 教室の中を見ると、自分以外のほぼ全員が既に来ているようだった。

 出歩いている人間はいない。皆しっかりと着席し、ニコニコと朗らかな笑みを浮かべていた。四十人いるクラスメートの目が一斉にこちらへと向き、直斗は一瞬身が固まる。


「ごきげんよう、瑞原くん」

 手前にいた女子生徒が挨拶をしてくる。小さく首をかしげ、にっこりと微笑んでくる。


「うん、おはよう……」と直斗はおずおずと挨拶を返す。


 教卓の方へと移動しようとすると、同じように「ごきげんよう」と挨拶をされた。


 この段階でもう、『違う』という事実は把握できた。

 同時に、頭の中に尖った氷が張り詰めるような気分がした。


 素早く首を巡らせる。クラスメートが机の前からしきりに笑みを向けてくる。とても上品で、朗らかで、物語の中にだって出てこないほどの穏やかさだ。


 直斗は教卓に手をつき、一人ひとりの顔を確認していく。薄っぺらな笑みを見ていくごとに、足元がぐにゃぐにゃに崩れていく感じを覚えさせられる。


 やがて、教室の中で動くものが出てきた。

 一番後ろの席。廊下側の一つだけ出張った机の前で、一人だけ立ち上がる人間がいる。


「ごきげんよう、直斗」

 芳市は満足そうに笑みを浮かべ、他の人間と同じ挨拶を口にしてきた。


 直斗は一歩後退し、相手から距離を取ろうとする。教卓の後ろへと回り、静かにベランダの方へと体を移動させる。


「いい感じだろ。やっぱり、一番大事なのは『優しい世界』を作ることだと気づいてさ。まずはこうして、楽しい学園生活を作ってみようと思ったんだ」

 よれよれの開襟シャツを着て、芳市は背後の教室を示してくる。その間も他の生徒たちは何も反応せず、ただ柔らかく笑うのみとなっている。


 急激に、体から力が抜けていくのを感じた。

 教室の空気から逃げるように、ベランダの入口へと後退していく。


 窓の外を見ると、ベランダの手すりに黒い鳥がとまっているのが見えた。


「どうかな。一回くらいだったらまたすぐに戻せるわけだし、こういう感じに学校の中を変えていくと、結構暮らしやすい状態になると思うんだ」


 芳市は笑みを浮かべ、尚も意見を語ってくる。直斗は聞く気にならず、ただ首を左右に振って返す。

 開いた窓からカラスが教室の中に入ってきた。そのまま身じろぎもせず、透明な光を放つ目で観察を続けていた。


「いくらなんでも、やり過ぎだよ」

 直斗は力なく呟きを発する。


「そうでもないだろ。二回までならOKだって、この前も確かめたんだから。どうせすぐ戻せるんだから、少しくらいはこういう風に変えてみたってバチは当たらないだろ」


 頭を抱え込みたかった。


「芳市。お前は、おかしいよ」

 眉間に皺を寄せ、直斗は言葉を吐き捨てる。


「直斗?」と芳市は不思議そうに声を出す。直斗は拒絶し、傍らにいるカラスの方だけを凝視する。


 カラスはゆっくりと羽根を広げる。こちらへ一歩距離を詰め、更に顔を見つめてくる。

 やがて、カラスは小さくいななきを発してきた。


 これから先に何が起こるのか、なぜだか予想がついた。


 ものの数秒としない内に、ベランダの先から歩いてくる姿がある。

 窓のすぐ前で立ち止まり、開襟シャツの生徒が顔を覗きこんでくる。傍らにはカラスが立ち、同じく穴があくほどまっすぐに見据えてくる。


「オメデトウ、ゴザイマス」


 また例によって、祝福の言葉を最初に発する。


「コレは、ニンゲンのためになる、オコナイですか?」

 カラスの言葉が代弁される。無機質な生徒の声を聞き、直斗はゆっくり首を振る。


「直斗?」と芳市がまた声を出した。カラスとこちらの顔を交互に見ているのが雰囲気で察せられる。


「シツモンです。このヒトは、ただしいニンゲン、ではないのですか?」

 昨晩と同じ内容の問いを、カラスは再び繰り返す。


 今もこのカラスの真意はわからない。

 でも、質問に対する答えだけははっきりとわかる。


「正しくない。間違ってる。こいつはおかしいんだ」


 ガラス戸から体を離し、芳市に対して首を振る。カラスの方へと歩み寄り、はっきりと相手の質問に答えを返してやる。


 カラスは嘴を左右に振る。きょとんと顔を上げ、円らな目で見つめてきた。


「だからもう、こいつの言うことなんか聞かないでくれ。こいつはおかしいんだ。人間として正しくないんだ。だからもう金輪際、こいつには関わらないでくれ」

 溜め込んだ感情を吐き出すように、一気に言葉をまくしたてる。


「おい、直斗。なんなんだよ」傍らで声がする。直斗は振り向かず、ただ首を振った。


 やがて、カラスは大きく羽根を広げた。


「リョウカイ、しました」


 傍らの少年が言葉を再生する。


 そしてすかさず、「カァ!」と甲高いいななきが発せられた。


 瞬間、部屋の空気が変化した気がした。今まで密閉されていた空間に、ふと風が舞いこむような。


 ふと目を向けると、クラスメートらの顔から笑みが消えていた。ぼんやりとしているが、心なしか瞳の色が濃くなったように感じられる。


 続けてもう一度、「カァ!」と鳴き声が発せられる。


 今度は真横で反応が出た。芳市が小さく体を震わせる。一瞬両目から光が失われ、直立不動の姿勢を取った。


「ん? なんだ、今の」

 すぐに正気を取り戻し、芳市は不思議そうに前髪をかきあげる。


 しかし、カラスは待ってはくれなかった。


 続けざまにもう一度、同じくいななきが発せられる。


「なんだよ、一体。さっきから……」

 前髪を指で払いのけ、カラスの方を見ようとする。直斗も身動きすることができず、ただじっと相手の姿をまじまじと見た。


 傍らにいるカラスは、再び大きく羽根を広げた。


 これは、まずいのではないか。


 カラスが何をやろうとしているのか。そしてこれから何が起きるのか。今更ながらに状況が把握できた。


 止めようか、と思った刹那のことだった。

 甲高いカラスの声が、教室内に響き渡った。


 全ての音が消えたように感じられた。カラスの声だけが耳の中でこだまし、それ以外のすべての物が動きを止める。


 う、と短い声が漏らされる。芳市はまたもや両目から光を失い、呆然と佇むだけの状態に変わっていった。


 彼は動かない。さっきまでと違い、数秒が経過しても正気に戻る気配はなかった。


 直斗もじっと立ち竦み、目の前の幼馴染の変化に目が釘付けになる。カラスだけが悠々と羽根を広げ、窓枠の上を闊歩していた。


「ぶ」と、しばらくした後に短く声が発せられた。

 芳市の口から発せられたと理解できるまで、更に数秒の時が必要となった。


「ぶぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」


 二本脚で立つことをやめ、教室の床に両手をつく。その状態で頭だけを上に向け、「ぶひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ、ぶひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」と濁った声を上げ始めた。


 膝が震えてくるのを感じた。直斗は立っているのもままならなくなり、ベランダのガラス戸に背中を預けてへたりこむ。


 傍らで羽根を広げる音が聞こえてくる。音の方へと目を向けると、カラスが表情のない目でじっと見下ろしてきていた。


 代弁役の生徒もそれ以上は何も言わない。正気に返ったらしく、不思議そうに教室の中の芳市に目をやっている。


 カラスは素早くベランダの手すりへとジャンプし、再び大きく羽根を広げる。


 その後は一切振り返ることなく、颯爽と空へと飛び立っていった。

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