1-4:三回目のルール

「直斗。やっぱり、直斗の言う通りだったかもしれない」


 芳市の声はとても弱々しかった。


 ねっとりと縋りついてくる声。聞いた段階で肩先に海藻でも絡み付かされるような、言いようのない不快感を覚えさせられる響きがあった。


 あれからまだ、たったの二日しか経っていない。


 午後三時になり、掃除当番を終えて学校を出た直後のことだった。吉祥寺駅へ向かおうとする道の途中で、突然携帯電話が振動を始めた。


「何があったの?」道路脇のガードレールに身を寄せながら問う。

 電話の先からは沈黙が走る。「ううん」と小さく唸る声が少しして響いてくる。


「どうしたんだよ」と重ねて問いかける。

「ああ、あのさ……」おずおずとした感じに声が返される。


 直斗は素早く左右を見渡す。駅までは歩いて残り五分ほど。少し走った方がいいかと算段を巡らせる。


「とりあえずさ、今、いつもの公園にいるんだ。ちょっと、変な感じになっててさ。悪いんだけど、少しこっち来てくれないか? なんというか、うまく説明できない」


「わかったよ」とだけ言い、相手が尚も何か言おうとするのを無視して電話を切る。

 嫌な感じしかしなかった。小走りに道を進む間も、電車に乗ってひと駅を移動する間も、次々と悪い想像だけが頭を巡ってきた。


 まさか、人を殺してなどいないだろうな、と最悪の考えがよぎる。


 三鷹駅に着いてからも小走りに進み、家の前に辿り着いても玄関に入ることはしなかった。そのまま表に止めてある自転車にまたがり、指定された公園へと飛ばしていく。


「直斗、来てくれたんだ」

 ようやく公園の敷地に辿り着くと、入口の前で弱々しい顔の男が待ち構えていた。直斗息切れしたまま相手を睨みつけ、すぐに周囲に首を巡らせる。


「何があったんだよ」自転車を押して中に入る。


「ああ、とりあえずちょっと来てくれよ」

 芳市は公園の奥へと案内してくる。


 問題のカラスは今日もジャングルジムの頂上に座していた。淡い橙色の光を受けて、かすかに目元が光沢を帯びて見える。


「あれ、なんだけどさ」

 ブランコの手前まで来たところで、芳市が奥の木陰を指差す。公園の周辺は外から区切るためフェンスが張り巡らされ、その手前には等間隔に街路樹が植えられている。そのためにフェンスの近辺は日中でも薄暗く、じめじめと落ち葉の積もる状態になっていた。


 そんな日陰の一画に、小さく佇んでいる姿があった。

 目を凝らして見るまでもなく、それは人間だとわかった。


 体を小さく丸める形を取り、両手を直接土につけている。フェンスの方へ顔を向けているため。表情はわからない。背中を大きく上下させており、生きてはいるとはわかる。


 でも、明らかに様子がおかしかった。


 口の中が急速に渇いていく。咄嗟に唇を噛み、不快感が込み上げてくるのに耐える。


 着ている服は薄汚れている。白い長袖のTシャツは伸びきっているし、穿いている作業ズボンも変色していて、全体が黄ばんでいるのが見える。


 髪も伸び放題で、明らかに不潔。公園で生活している浮浪者だろうと見当がついた。

 隣に目をやると、芳市がじっと見つめてきていた。


 自転車のスタンドを立て、直斗はゆっくりと相手の方へと歩み寄っていく。浮浪者はずっと四つん這いの状態のまま動かず、しきりに背中を上下させているのみだった。


 へっ、へっ、へっ、へっ、と、荒く息遣いを繰り返しているのが聞こえてくる。直斗は静かに深呼吸をし、頭の中にモヤが溜まりそうになるのを抑え込む。


 溜まった落ち葉を踏みしだくと、カシャリと渇いた音が鳴る。相手との距離は三メールというところ。こちらの足音は相手にも聞こえ、ビクリと身じろぎをするのがわかった。


 そして相手はゆっくりと、首を向けてくる。


 今度は、自分の方が体を震わせる番だった。


 振り返った相手の表情は、どう考えても人間の物ではなかった。

 少なくとも、まともな人間の物ではない。


 舌を長く伸ばし、しきりに息遣いをしている。目は大きく見開かれ、ただぼんやりと周囲の物に首を巡らせてくる。


 知性、というものが一切感じられない表情だった。


 接近に気づき、男は体を翻してきた。なおも両手は地面についたまま、『四本足』を駆使するかのように素早く体の向きを変えてくる。


 そして次の瞬間、頭を大きく真上へと向けた。


「あおおーーーーーーん!」


 男は突然いななきを発し、高らかに存在を主張した。


 ビクリと体を震わせ、直斗は一歩後退する。両手の平に汗が滲んでくるのがわかる。口の中の渇きも酷くなり、息を呑もうとすると粘膜が張り付いて鋭い痛みが走った。


「直斗」と芳市は真横から囁きかける。シャツの袖を指で引っ張り、もっと離れるように促した。


 目の前の男は挑むように睨み据えてきた。


「急に、こうなっちゃったんだ」


「なんの、実験したんだよ」

 まさか犬になれとでも命令したのだろうか。


 しかし、芳市はゆっくりと首を振った。


「変な命令なんか出してない。このおっさん、前にも一回ここで実験に使っただろ。今日もまたベンチのところにいたから、ハーブに頼んで色々試そうと思ったんだ」


 ジャングルジムの辺りまで下がり、芳市は説明を始める。男は距離が出来たのに安心したのか、もう威嚇する動作をして来ない。そのまま再び向きを変えると、四本足の状態を維持したまま、公園の隅の方へと移動していった。


「寝てるみたいだったから、最初にそれを使って実験しようとしたんだ。寝てる相手にも命令が効くかどうか見ようとしてさ」

「それで?」

「それで、立ち上がるように言った。それはうまく行ったから、今度は逆に眠らせてみようと思ったんだ。それでハーブに頼んだらさ、なんか急に、あんな風に……」


 首をかしげたくなる話だった。


「それからもさ、ハーブに頼んで元に戻るようにしようとしたんだけど、なんか全然反応しないんだよ。ここから出てけって言っても全然聞かないし。ハーブはちゃんといつも通りにやってくれてるみたいなんだけど」


 地面に顔を俯かせたまま、芳市はポツポツと話をする。


「それで、これからどうするつもり?」

 少し、責めてやりたい気持ちがあった。やめろと言ったのに手を出して、結果として被害を出した。さすがに懲りたろうと睨みつける。


 だが、芳市はまた首を振ってきた。

「よくわからないんだよ。だからさ、直斗も付き合ってくれよ」


 何を、とは聞く気になれなかった。ただ瞬きを繰り返し、相手を見つめる。


「どうしてこうなったのか、ちゃんと調べないといけないだろ。ハーブが命令を下すと、何かの形でいきなり犬みたいな物になっちゃう可能性があるってわかった。だから法則がどうなってるのか掴めないと、やっぱり不安じゃないか」


 正気か、と言いたくなった。


「うん。言いたいことはわかる。もちろん俺だって犠牲者を増やしたいとは思ってない。でも、こんな危険なことの原因がわからないと、やっぱり怖いじゃないか」


「関わらなきゃいいだけだろ」


「それもわかってる。でも、とりあえず横で見ててくれよ。直斗は責任取らなくていいからさ。気になってることがあるから、それだけ試させてくれよ」


 言うなり、右手を高く掲げる。頭上のカラスに合図をし、自分の肘にとまるようにと指示を出す。すぐに相手も反応し、曲げた肘の上に移動してきた。


 それ以上は何も言わなかった。軽く一瞥だけをして、公園の入り口へと向かっていく。


 そっと背後を窺うと、まだ浮浪者の男は四つん這いで土の上を駆け回っていた。



 芳市は前を歩き続ける。住宅街の中を進んで行き、灰色の塀が並ぶ一帯へと入る。


「あのおばさん、見てくれよ」


 途中の角で足を止め、物陰から前方を示してくる。

 示された先にはゴミ置き場があった。白い半透明のビニール袋がいくつも並べられ、日の光を受けてくすんだ色を浮き立たせている。


 そのゴミ置き場の前に屈みこんでいる影があった。紫色の前掛けをしていて、全体的にぶよぶよと太った体型をしている。年齢としては五十か六十というところだった。


「あのおばさん、知ってるだろ。近くのゴミ屋敷に住んでるんだ。いつもああやってその辺からゴミを持ち帰って、自分の家の前で散らかしておくんだ」


 言われてすぐに思い浮かぶものがある。ここから通りを一つ離れたところに、たしかにゴミ屋敷と思われる空間があった。壊れた冷蔵庫や洗濯機がいつも庭先からはみ出ていて、近づくと異臭がする。


「まさか、あのおばさんなら許されるとか?」


「そんなんじゃない。とりあえず、やめさせてみようと思う。ハーブの力であのおばさんを変えられれば、周りも少しは助かるだろ」


 芳市は太った女を見据えたまま、右肘にいるカラスに顔を近づける。


「やめろ」と声に出したが、相手は聞く耳を持たなかった。


「あのおばさんが、もうゴミを溜め込まないようにしてくれ」


 カラスもなんら抵抗を示さず、小さく鳴き声を発する。


 すぐさま女に反応が出た。ゴミを漁ろうとする手を止め、電流でも走ったかのように背筋をまっすぐに伸ばした。


「これで一回目」と芳市は呟く。大きく肩を上下させ、深く息を吐いていた。

「芳市」と直斗は相手の肩に手をかける。相手は首を横に振り、手を払ってきた。


「次だ。今度はあのおばさんが、あの汚い前掛けを捨てる」

 芳市はあくまで振り向かず、カラスに対する指示を重ねる。


 今度もカラスが鳴き声をあげると、女は命令通りに自分の前掛けを外し、丸めて集積場の袋の上に投げ捨てた。


 相手は動かない。そのままぼんやりとゴミの前に立ち尽くしている。

 芳市の息が見るからに乱れている。耳も赤く染まり、上気した様子で『実験台』の様子を観察し続けていた。


「じゃあ、最後だ。今度は今すぐ家に帰るよう、あのおばさんに命令してくれ」

 息切れするのを抑えつつ、三つ目の命令を下した。カラスは同じくいななきを発し、彼の言葉を実行しようとする。


 気がつくと、こめかみに汗が浮いていた。自分も知らぬ間に呼吸が早まってしまっていた。緊張しているのが表に出ないよう、直斗はゆっくりと肩を上下させる。


 何が起こるのか、と自転車のハンドルを強く握りしめた。


 女は動かない。ずっとゴミの前に佇んだまま、呆然と空を仰いでいる。


 それから数秒が経過したところで、女の動きに変化があった。

 女は突然座り込んだ。丸々と太った尻をコンクリートの上に落とし、続けて体を地面に横たえる。


 一瞬、目の前がぼやけそうになった。上体が揺らぎそうになり、直斗は素早く自転車に体重を預ける。


 女は太った体を小さく揺さぶり、低いいななきを発しているところだった。


「ぐもぉぉぉぉ」と、かすかに聞き取ることができた。


 女は半ば寝そべる姿勢を取ったまま、空へ向けて奇妙な声を発している。そ


 今の鳴き声。そしてこの重たい感じの寝そべり方。こういう動作をする生き物を自分は知っている。


 今この瞬間、目の前の女は『牛』に変わった。それが、起きた出来事の全てだ。

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