2-2


(帰りたい帰りたい帰りたい……ボロが出る前に、早く帰ってお屋敷に篭もりたい!)


 あせだらだらでエミリアがうつむいているうちに、馬車は大きな広場でまった。ディオンにエスコートされて、エミリアはおずおずと馬車からいしだたみに降り立つ。


「緊張してるのか、メアリ? 治安の悪い場所じゃないから、心配いらないぞ。――ほら、ここは領都の中央街だ」


 エミリアはおそるおそる、視線を上げて周囲を見回してみた。みちはばの広い通りには大勢の人がい、大小様々な商店が並んでいる。店の外観や街並みにはどこか異国じょうちょがあって、エミリアの祖国であるレギト聖皇国とはおもむきが違った。

 ディオンはそっとエミリアのかたき、ゆっくりと歩き出した。馬から下りていたダフネも、さりげなく離れて二人のあとから付いてくる。


「ディオン様……肩。エスコートとか、ずかしいのでりません」

「なんで。夫婦だろ?」


 ほおを染めて気まずそうにしているエミリアを、ディオンは楽しげに見つめた。エミリアは、デートを切り上げることで頭がいっぱいだ。これまでほとんどしん殿でんと自室を往復するだけの生活だったから、いっぱんじんてきな振る舞い方には自信がない……。

 エミリアがあまりに深刻な顔をしていたので、ディオンもさすがにこんわくし始めた。


「か、顔が暗いぞメアリ。そんなにいやだったのか? ……じゃあ、市場を少し案内するだけにするよ。どこにどんな店があるか分かれば、気晴らしに外出するとき便利だろ?」


 ディオンは、エミリアにかんを付けさせてくれるつもりだったらしい。彼の気配りを知って、エミリアは少し申し訳なくなった。


「軽く食事をして、君の腹がいっぱいになったらすぐに帰ろう」


 大通りからみちに入ると、こうばしい香りが|こう》に飛び込んできた。通り沿いの屋台で売られている肉料理やパンのにおいだ。あまりに美味おいしそうなので、少し緊張感が緩む。

 小路をけると、色取り取りの食品店街にとうちゃくした。あざやかにきらめく果実を山積みにした果物屋。見慣れない肉料理が店先をいろどる軽食屋。甘い香りは焼き菓子の店だ。


「……美味しそうな匂いです」

「ここはヴァラハの台所と呼ばれていてな。美味うまいものばかりだから、案内するよ」


 エミリアはカサンドラの替え玉だったので、様々な高級料理をたんのうする機会はあった。しかし芸術品のような美食よりも、目の前の屋台に並ぶ食べ物のほうがりょくてきだ。


「メアリ。ほら、これ。食べてみるか?」


 いつの間にかディオンの手には、料理の皿がっていた。香り立つタルトの上に、かんそう果実のジャムがたっぷりえられている。


「そのタルトの果物、珍しいですね」

「このあたりの名産で、デーツっていうんだ。そのまま食べても美味いが、ジャムにしてタルトに載せるともっと美味い。ほら、口開けて」

「はい。……むぐっ?」


 ディオンがフォークで切ったタルトを、口の中に運んできた。幸せな甘みが口いっぱいに広がって、エミリアの顔に笑みがき――次のしゅんかん、恥ずかしさでしかめ面になる。


「……もう、ディオン様。何するんですか恥ずかしい」

「いいじゃないか、デートなんだから」

「自分で食べられますよ、ひな鳥じゃないんですから。……でもすごく美味しいです」


 あっという間に皿を空にしたエミリアは、「ごちそうさまでした」と頭を下げた。


「それではお屋敷に戻りましょう。おなかがいっぱいになりました」

「うそつけ。今、ものしそうな顔で肉の屋台を見てたくせに」


 エミリアはうろたえた。確かに、肉の屋台を見ていた――すごく美味しそうだ。


「買ってくる。行列ができてるから、ダフネと一緒にここで待っててくれ」


 ディオンは後方に控えるダフネに目配せすると、屋台のほうに歩いていった。


「……ダフネ。デートって緊張するわ。ボロが出ないか心配で心配で」

「お疲れ様です」


 エミリアは溜息をつきながら、何気なく市場をわたした。行き交う人も商人も、だれも彼もが幸せそうだ。活気があって、い街みたい……と思っていたエミリアのすぐそばを、十さいに満たないきょう

だいらしき二人がふざけ合いながら走り過ぎていった。――次の瞬間。

 妹のほうが石畳につまずいて、ずでんと転んだ。泣き出した妹を、兄が助け起こす。


「おい。だいじょうぶかよ、ミーリャ」

「ぅええ~ん……マルクお兄ちゃん……うぅ」


 妹は四歳くらいで、ひざかかえて大泣きしている。エミリアは「だいじょう!?」と声を上げ、少女にっていた。


「平気だよお姉さん。まったく、転んだくらいでミーリャは大げさだなぁ!」

「ぇえ~ん! いたい~!」

「どうせ血が出ただけだろ? ツバつけとけばすぐ治るって!」


 あきれた顔で、兄が妹の膝を見ている。少女はズボンをいているから傷の具合は見えないが、激しく転んでいたから血が出ているかもしれない。


(……回復ほう、かけてあげたいな)

「ミーリャちゃん、っていうのよね? 傷の具合、お姉さんに見せてくれる?」


 うなずくミーリャのズボンのすそを、エミリアは傷を確認するようなりでゆっくりまくげていった。それと同時に、回復魔法を発動する。頃合いを見て膝までズボンを捲り上げると、きず一つないきれいなひざぞうあらわになった。


「あら? ミーリャちゃん良かったね、全然ケガしてないみたい!」

「え!? ……あれれ!? いたくなくなってる!」

「ほらな。ミーリャは大げさなんだよ。ばあちゃんが待ってるから、早く行くぞ!」

「うん……。ありがと、おねえちゃん」


 兄妹が去っていくのを見送っていたエミリアだが、不意に殺気を感じてビクッとした。


「メアリ様? 今、余計なこと、、、、、をしましたね?」


 ダフネが、げんそうに眉をひくつかせてエミリアを見下ろしている。


「ご、ごめんダフネ。……つい」

「つい、ではありません。あなた今、気が緩みましたよね。ほとんどせきずい反射的にやらかしてましたよね?」

「はい……。でも、結果オーライだと……思う。あの子達怪しんでなかったし」

「目立つことはけてください。一般人のあっとうてき多数は、回復魔法など使えません」


 回復魔法が使える者はエリートで、存在自体がそれなりに目立つ。


「メアリ様、目立たず生きてください」

「……はい。気をつけます。ごめんなさい、ダフネ」


 二人が気まずい空気になっていると、くしきを持ったディオンが戻ってきた。


「ん? なんだ、取り込み中か?」

「いえ、お買い物ありがとうございます、ディオン様! わあ、美味しそうですねぇ」


 明るい空気をつくろって、エミリアは串焼きを受け取った。ダフネはしぶい顔をしながらエミリアの隣をディオンにゆずり、後方へと下がる。

 エミリアは「いただきます!!」と元気な声を張り上げて串焼きをほおった。美味しがっている演技をして、気まずさをそう……そんなねらいがあったのだが。


「……っ! 美味しい!!」


 演技などしなくても、本当に美味しかった。


「気に入ったか?」

「はい!」

「もう一本食べたいか?」

「はい!!」


 楽しそうにしているエミリアの姿を見やり、ダフネは小さな溜息をついていた。

 ディオンとエミリアの食べ歩きツアーは続いている。――エミリアは、ふと気づいた。


(あれ? なんか私、楽しんでる……)


 活気あふれる市場を進むうちに、いつの間にやら緊張が抜け落ちていた。

 食べること自体が、じゅんすいに楽しい。それに、行き交う人々の楽しげな様子を見ると心が落ち着く。通行人や店主達は、しばしばディオンに明るく声をかけてきた。


「こんにちは、領主様!」

「こんにちは、殿下! 今日はお休みですか?」


 ディオンに向かって、人々はまるで友人に接するような口ぶりではなしかけていた。


「ディオン様、街の皆さんとずいぶん仲良しなんですね」

「かしこまった付き合いがきらいなんだよ」


 まったくもって、彼は王弟らしくない。今度は、果実屋のろうが話しかけてきた。


「こんにちは殿下」

「よぉ、ロッサ。お、今日はミーリャとマルクも店を手伝ってるのか?」


 老婆の隣には、さっき転んだミーリャという少女と、その兄も一緒にいた。


「あ!! さっきのおねえちゃん!」

「婆ちゃん。ミーリャが転んだとき、このお姉さんが優しくしてくれたんだ」

「おやおや、そうかい。孫が世話になりましたねぇ、おじょうさん」


 老婆がにこやかにしゃくをする。


「殿下のお連れさんですか? 可愛いお嬢さんですね」

「ロッサ。彼女は俺の妻のメアリだ」

「おやまぁ! 奥様、はじめまして!」


 ほがらかに笑う老婆に、エミリアはぎこちない笑顔を返した。


「奥様はりょうえんめぐまれましたね。殿下はすごいお方ですよ。うでっぷしも強いし、頭も切れて。殿下がいらしてからとうじゅうもめっきり減ってねぇ。住み良い土地になりました」

かぶりすぎだ、ロッサ」


 じゃあ、またな。と軽く手を振り、ディオンはエミリアと共に店から遠ざかった。そうする間にも、花売りや買い物客達が「殿下」「領主様」と気さくに声をかけてくる。


「ディオン様って、全然王弟らしくないですね」

「だろ? かしこまった生き方は、ガキの頃にやめたんだ」


 ディオンは笑っていた。


「王位なんて俺には不相応だし、そもそも姉上がお治めになるのが正しい。王宮暮らしは嫌いだから、辺境の地に行くことにした。治安の悪い場所だったが、任されたからには良い土地にしたいと思っているよ。……まぁ、俺の話はどうでもいいか。次は何を食いたい、メアリ?」

「さすがにお腹いっぱいです。もう食べられません」

「……そうか。だったらそろそろ、帰るか?」


 お腹がいっぱいになったら屋敷に帰る、という約束だった。でも今のエミリアは、もっとヴァラハ領のことを知りたい気持ちになっている。


「もう食べられないので……なので、今度はいろいろな場所を見て回りたいです。ご案内をお願いできますか、ディオン様」

もちろん! それじゃあ、広場でいったん足を休めよう」


 ディオンはうれしそうにして、エミリアを広場に導いた。

 広場には小さなたいができていて、にんぎょうつかいがマリオネットの劇を始めるところだった。エミリア達は、きゅうけいねて客席の一角にこしかける。舞台のわきに立てかけられた看板に、〝始まりの竜と聖女〞という演目名がかかげられていた。聖女という単語を見た瞬間、エミリアの心臓はとくりとねた――だが、どうようを顔に出さないように気をつける。

 にもかかわらず、なぜかディオンはづかいの色をかべてエミリアを見つめた。


「人形劇、無理になくていいんだぞ? 場所を変えようか」

「……いいえ、せっかくですから観ていきます」


 人形劇は大衆らくの定番だし、みょうなところで嫌がったら不自然かもしれない――そう考えたエミリアは、人形劇を観ることにした。


「かつてこの世に陸はなく、無限の空と海だった。雲上には神々と数多あまたの竜が住み――」


 人形遣いが、歌交じりで語ったのは、エミリアもよく知る創世神話のストーリーだ。一頭の竜が私利私欲のために神々をらい始め、しかしがみとうばつされてしまう。


「女神はかつて、その竜の親友だったのさ。だから女神は、泣きながら言った。『罪深き竜よ。そなたの亡骸なきがらなえどこに、私は命を育みましょう。そなたの罪が、新たな命で洗い清められますように』――」


 人形遣いは大きな竜のマリオネットを糸であやつり、大海を模した青い布へとしずめていった。その直後、緑の陸地を表す舞台が現れる。


「女神は竜の亡骸を海へ落として、陸地を作った。そして陸地に人間を産み落としたのさ。気の遠くなるような長い長いさいげつを経て、大陸中に命が増えていった――だが!」


 青い布に沈んだきょりゅうのマリオネットが布からい上がり、暴れるような動きを始めた。陸地を模した緑の舞台の上で、ろうにゃくなんにょの人形達があわてふためく。


ざんにんな竜のおんねんは、人間の心をむしばんだ……! それが、かのおそろしきりゅうびょうだ!」


 人形使いがきつな声で告げ、マリオネットの老若男女に暴れるような動作をさせた。


「人間達を助けるために、女神は自分の血を大陸の東西南北にいってきずつ垂らした! しずくを受けた四つの国は〝聖皇国〞となり、その四つの国にだけ竜化病を治せる特別な女が生まれるようになったのさ。――それが、〝聖女〞だ」


 舞台の奥から、人形遣いは純白のほうを纏った聖女姿のマリオネットを登場させた。

 陽光を受けてきらめく美しい聖女の人形に、劇を観ていた子ども達がかんせいを上げる。


「ねぇ、おじさん! 聖女ってほんとにいるの?」

「勿論さ。隣国レギトが、西の聖皇国なんだ。レギトではまれに聖女が生まれるんだと」

「でもおれ、聖女なんて会ったことないよ」

「そりゃそうだ。俺達の住むこの〝大陸西部〞には、げんえき聖女はたったの九人しかいないんだから、めっに会えやしないさ。九人の聖女は全員レギト生まれだが、そのうちの八人は西の諸国にけんされているらしい。大昔の法王様が、『聖皇国は、周辺の国に聖女をさずけて人々を救いなさい』というルールを作ったそうだ」

「じゃあわたし達の国にも、聖女は来てるの?」

「残念だが、聖女の数が足らなくて、ログルムントは聖女を派遣してもらえないんだ。だから救いが欲しいやつは、直接レギトに行って聖女に頼むことになってるよ」


 そう言うと、人形遣いは聖女のマリオネットをくるくるとおどらせた。巨竜は再び青い海へと沈んでいき、老若男女のマリオネットが嬉しそうにばんざいをする。


「てな訳で、女神につかわされた聖女だけが竜化病を治せるって訳だ。竜化病だけじゃなく、いろんな病気やケガも治せるらしい。いつかはお目にかかりたいものだなぁ、皆の衆?」


 終幕の音楽と共に舞台に幕が下り、観衆のはくしゅが響いた。……エミリアは。幕が下りた後もずっと、こわばった顔で舞台を見つめていた。


(大陸西部に聖女は九人だけ。でも本当は、私も入れれば十人だったんだ……)


 法王のしょうにんがないエミリアは、聖女の数にはふくまれない。だから、各国に派遣される聖女の人手が、一人足りない。ログルムントは聖女を派遣してもらえず、聖女カサンドラがレギト聖皇国とログルムント王国の二国の仕事をけんするという形になっていた。


(……でも実際には、聖女カサンドラわ た しの仕事はレギト国内だけで手いっぱいだった。ログルムントにはたまに表敬訪問に行くのが精いっぱいで……)


 自分が正規の聖女としてかつやくできていたら、もっとたくさんの人が笑顔になれていたのかもしれないのに――そんな思いがみ上げて、胸が苦しくなる。


(……それにもう、私は偽聖女ですらないんだ。素性をかくすために、聖女の力は二度と使えないから。でも、それって、すごくきょうなんじゃない?)


 自己保身のために能力を隠して、救う役目をほうするなんて――。

 思いつめていたそのとき、ディオンに肩をぽん、とたたかれてエミリアは我に返った。


「やっぱり今日は、もう帰らないか?」

「え……? いえ。せっかくですから、もっと街を……」

「俺の都合で済まないが、腰を落ち着けていたら疲れが出てきた。案内は今度でいいか? 次は市場だけでなく、領内全部をじっくりと見せるよ。だから、今日は帰ろう」


 ディオンに気遣われているのは明らかだった。彼のはいりょに感謝しつつ、一緒に馬車のほうへと戻ろうとしていた、ちょうどそのとき――。


「竜化病だ!」


 市場のほうで、そんなさけびが聞こえた。にわかに、市場の方角がさわがしくなる。さきほどまでの陽気なにぎわいとはまったく違う、悲鳴とごうが聞こえてきた。


「果実屋のガキが竜化病を発症したぞ!! 自警団を呼べ、早く取り押さえろ」

「いや、殺せ! そんな危険な奴は、今すぐ殺しちまえ!!」


 ――殺す? ぶっそうな声にぼうぜんとしていたエミリアは、ディオンの声で我に返った。


「ダフネ!! メアリを頼む!」


 護衛のダフネにエミリアをたくして、ディオンは騒ぎのほうへとす。そうはくな顔で彼の背を見つめるエミリアに、ダフネがするどい声で耳打ちをした。


「メアリ様、あなたには関係ありません。一般人、、、には、竜化病のりょうなど不可能です」


 エミリアは目を泳がせた。


(……私、治せるのに)

「馬車へ戻りましょう。ディオン殿下が戻られるまで、馬車で待機します」


 だまり込んでいたエミリアは、やがてかすれる声でたずねた。


「ダフネ……私、何もしないから。だから市場のほうに行くのは、問題ないでしょう?」

「メアリ様!」

「本当に、何もしない。見守るだけよ。約束する。……お願い、心配なの。ダフネ」


 切々とうったえられ、ダフネは眉を寄せて溜息をついた。


「仕方のない人ですね……。絶対に余計なことはなさらないように。もしあなたが何かしようとしたら、私は全力でしますのでそのおつもりで」


 市場前の通りは、すっかりパニック状態だった。ばくえん魔法の暴発音がしきりに響き、人々は悲鳴を上げて逃げまどう。なんせずに、遠巻きから竜化病の少年の様子をうかがっている野次馬もいた。野次馬の中には「まわしい!」「のろわれたガキなんか、殺しちまえ」とわめく者も少なくない。

 竜化病をはっしょうしたのは、十歳にも満たない幼い少年だった。あらい呼吸で背を折り曲げて、石畳に膝をいている。少年の体は異様な電気を帯びていて、ぱりぱりと細かい放電が起こっている。苦し気に胸をきむしると、その指先から火の粉のような光の粒がこぼれた。

 無数の粒が寄り集まって、少年の周囲に数本の火柱が上がる。


「ぅ、…………うぅ。ああ…………」


 少年のうめき声は異様に低く、どこかにんげんばなれしていた。ぎりぎりと食いしばった歯のすきから魔獣のようなうなり声がれ出す。幼い顔立ちにふんの色が刻まれて、彼の瞳はせんれつなまでのにじいろと化している。それはまさに、竜化病かんじゃとくちょうだった。


「お兄ちゃん、マルクお兄ちゃん! どうしたの!?」


 少年の妹――ミーリャは混乱しながらき叫んで、兄の名を呼んでいた。ミーリャはマルクのもとに駆け寄ろうとしていたが、老婆にそれを止められる。


「ダメだよミーリャ!! 行っちゃいけない、マルクに殺されちまう!!」

「なんで、おばあちゃん!? マルクお兄ちゃんがミーリャを殺す訳ないでしょ!」

「……竜化病は、ダメなんだ。全然違う人間になっちまう。ああなっちまうと、もう……」


 マルクの祖母であるロッサは、血の気のせた顔をしていた。絶望しきった顔で、わなわなとふるえている。人々は口々にっていた。


「誰か魔法で戦える奴はいねえのか!? そんなガキ、早く殺せ!」


 ミーリャは泣きながら自分の耳をおおった。ふさいだ耳には、なおも「殺せ!」「殺せ!!」というざんこくな叫びが聞こえてくる。――そのとき。


「お前達、落ち着け」


 低くて響きの良い声が、ミーリャのを打った。市場に現れたのは、ヴァラハ領の領主にして王弟・ディオン=ファルサス・ログルムントだ。


「ディオン殿下がお見えになったぞ!!」


 わぁ、と人だかりから歓声が上がった。


「殿下、果実屋のガキが竜化病になりやがったんだ」

「あのガキを、やっちまってください領主様!」


 騒ぎ立てる彼らを冷めた目で見やってから、ディオンはミーリャにほほみかけた。


「心配するな。マルクは助かる」


 石畳をっていちじんの風のようにマルクへせまる。一方のマルクは魔獣のようなほうこうを上げた――次の瞬間、ディオンの周囲の空気が何かに引火したかのように爆炎を上げる。

 ディオンは止まらない。爆炎を抜けてマルクに迫ると、ちゅうちょなくマルクの手首を取った。少年ののどから咆哮がほとばしり、不可視の音のがディオンを襲う。ディオンは少年の手首をにぎったまま、半歩さがってそれをかわした。


ねむっていろ」


 ディオンに引っ張られ、マルクは前のめりによろける。少年の首の後ろに、ディオンは「とん」と手刀を入れた。がら身体からだだつりょくしてたおれ込み、ディオンに抱きめられた。

 ーーいともたやす易く、勝敗は決していた。

 かんの声が市場をくし、場に居合わせた者達は「殿下」「殿下」と色めき立った。ところがディオンは、とても不快そうな顔をしている。

「――黙れ、お前達」


 彼の冷たい声に、一同は息をんだ。


「竜化病は誰でも発症し得る病気だ。この大陸の人間は、全員が〝竜の因子〞を持っているからな。なのに〝化け物〞だの〝殺せ〞だの、よくそんなことが言えるな。そのせいがいつ自分や家族に浴びせられるか分からないのだと、全員きもめいじておけ」

 

 水を打ったようなせいじゃく

 ディオンはマルクを抱き上げて歩き出し、老婆と少女の前で止まった。


「ロッサ、ミーリャ。怖かっただろうが、心配は要らない。マルクは俺に預けてくれ」

「……ディオンさま。マルクお兄ちゃんは、病気治った?」

「まだ治ってない。気絶しているだけだから、起きたら今と同じ状態になる。ちゃんと治すには、隣国の聖女のところに連れて行って、しきをしてもらわなきゃならない。あとで神官をロッサの家にすから、くわしい説明はそのときだ」


 ディオンは人だかりの中に、エミリアとダフネがいることに気づいた。


「メアリ、見てたのか。俺はこの子を運ぶから、悪いが先に馬車で帰っててくれ」


 それからダフネに「メアリを頼む」と言い残し、彼は去っていった。


「メアリ様、屋敷に戻りましょう。……メアリ様?」


 エミリアは何も答えない。青ざめて立ち尽くし、泣き出しそうな顔をしていた。


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やけくそで密入国した夜逃げ聖女は、王弟殿下の愛に溺れそうです 越智屋ノマ/ビーズログ文庫 @bslog

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