2-2
(帰りたい帰りたい帰りたい……ボロが出る前に、早く帰ってお屋敷に篭もりたい!)
「緊張してるのか、メアリ? 治安の悪い場所じゃないから、心配いらないぞ。――ほら、ここは領都の中央街だ」
エミリアはおそるおそる、視線を上げて周囲を見回してみた。
ディオンはそっとエミリアの
「ディオン様……肩。エスコートとか、
「なんで。夫婦だろ?」
エミリアがあまりに深刻な顔をしていたので、ディオンもさすがに
「か、顔が暗いぞメアリ。そんなに
ディオンは、エミリアに
「軽く食事をして、君の腹がいっぱいになったらすぐに帰ろう」
大通りから
小路を
「……美味しそうな匂いです」
「ここはヴァラハの台所と呼ばれていてな。
エミリアはカサンドラの替え玉だったので、様々な高級料理を
「メアリ。ほら、これ。食べてみるか?」
いつの間にかディオンの手には、料理の皿が
「そのタルトの果物、珍しいですね」
「このあたりの名産で、デーツっていうんだ。そのまま食べても美味いが、ジャムにしてタルトに載せるともっと美味い。ほら、口開けて」
「はい。……むぐっ?」
ディオンがフォークで切ったタルトを、口の中に運んできた。幸せな甘みが口いっぱいに広がって、エミリアの顔に笑みが
「……もう、ディオン様。何するんですか恥ずかしい」
「いいじゃないか、デートなんだから」
「自分で食べられますよ、ひな鳥じゃないんですから。……でもすごく美味しいです」
あっという間に皿を空にしたエミリアは、「ごちそうさまでした」と頭を下げた。
「それではお屋敷に戻りましょう。お
「うそつけ。今、
エミリアはうろたえた。確かに、肉の屋台を見ていた――すごく美味しそうだ。
「買ってくる。行列ができてるから、ダフネと一緒にここで待っててくれ」
ディオンは後方に控えるダフネに目配せすると、屋台のほうに歩いていった。
「……ダフネ。デートって緊張するわ。ボロが出ないか心配で心配で」
「お疲れ様です」
エミリアは溜息をつきながら、何気なく市場を
妹のほうが石畳につまずいて、ずでんと転んだ。泣き出した妹を、兄が助け起こす。
「おい。だいじょうぶかよ、ミーリャ」
「ぅええ~ん……マルクお兄ちゃん……うぅ」
妹は四歳くらいで、
「平気だよお姉さん。まったく、転んだくらいでミーリャは大げさだなぁ!」
「ぇえ~ん! いたい~!」
「どうせ血が出ただけだろ? ツバつけとけばすぐ治るって!」
(……回復
「ミーリャちゃん、っていうのよね? 傷の具合、お姉さんに見せてくれる?」
うなずくミーリャのズボンの
「あら? ミーリャちゃん良かったね、全然ケガしてないみたい!」
「え!? ……あれれ!? いたくなくなってる!」
「ほらな。ミーリャは大げさなんだよ。
「うん……。ありがと、おねえちゃん」
兄妹が去っていくのを見送っていたエミリアだが、不意に殺気を感じてビクッとした。
「メアリ様? 今、
ダフネが、
「ご、ごめんダフネ。……つい」
「つい、ではありません。あなた今、気が緩みましたよね。ほとんど
「はい……。でも、結果オーライだと……思う。あの子達怪しんでなかったし」
「目立つことは
回復魔法が使える者はエリートで、存在自体がそれなりに目立つ。
「メアリ様、目立たず生きてください」
「……はい。気をつけます。ごめんなさい、ダフネ」
二人が気まずい空気になっていると、
「ん? なんだ、取り込み中か?」
「いえ、お買い物ありがとうございます、ディオン様! わあ、美味しそうですねぇ」
明るい空気を
エミリアは「いただきます!!」と元気な声を張り上げて串焼きを
「……っ! 美味しい!!」
演技などしなくても、本当に美味しかった。
「気に入ったか?」
「はい!」
「もう一本食べたいか?」
「はい!!」
楽しそうにしているエミリアの姿を見やり、ダフネは小さな溜息をついていた。
ディオンとエミリアの食べ歩きツアーは続いている。――エミリアは、ふと気づいた。
(あれ? なんか私、楽しんでる……)
活気あふれる市場を進むうちに、いつの間にやら緊張が抜け落ちていた。
食べること自体が、
「こんにちは、領主様!」
「こんにちは、殿下! 今日はお休みですか?」
ディオンに向かって、人々はまるで友人に接するような口ぶりで
「ディオン様、街の皆さんと
「かしこまった付き合いが
まったくもって、彼は王弟らしくない。今度は、果実屋の
「こんにちは殿下」
「よぉ、ロッサ。お、今日はミーリャとマルクも店を手伝ってるのか?」
老婆の隣には、さっき転んだミーリャという少女と、その兄も一緒にいた。
「あ!! さっきのおねえちゃん!」
「婆ちゃん。ミーリャが転んだとき、このお姉さんが優しくしてくれたんだ」
「おやおや、そうかい。孫が世話になりましたねぇ、お
老婆がにこやかに
「殿下のお連れさんですか? 可愛いお嬢さんですね」
「ロッサ。彼女は俺の妻のメアリだ」
「おやまぁ! 奥様、はじめまして!」
「奥様は
「
じゃあ、またな。と軽く手を振り、ディオンはエミリアと共に店から遠ざかった。そうする間にも、花売りや買い物客達が「殿下」「領主様」と気さくに声をかけてくる。
「ディオン様って、全然王弟らしくないですね」
「だろ? かしこまった生き方は、ガキの頃にやめたんだ」
ディオンは笑っていた。
「王位なんて俺には不相応だし、そもそも姉上がお治めになるのが正しい。王宮暮らしは嫌いだから、辺境の地に行くことにした。治安の悪い場所だったが、任されたからには良い土地にしたいと思っているよ。……まぁ、俺の話はどうでもいいか。次は何を食いたい、メアリ?」
「さすがにお腹いっぱいです。もう食べられません」
「……そうか。だったらそろそろ、帰るか?」
お腹がいっぱいになったら屋敷に帰る、という約束だった。でも今のエミリアは、もっとヴァラハ領のことを知りたい気持ちになっている。
「もう食べられないので……なので、今度はいろいろな場所を見て回りたいです。ご案内をお願いできますか、ディオン様」
「
ディオンは
広場には小さな
にもかかわらず、なぜかディオンは
「人形劇、無理に
「……いいえ、せっかくですから観ていきます」
人形劇は大衆
「かつてこの世に陸はなく、無限の空と海だった。雲上には神々と
人形遣いが、歌交じりで語ったのは、エミリアもよく知る創世神話のストーリーだ。一頭の竜が私利私欲のために神々を
「女神はかつて、その竜の親友だったのさ。だから女神は、泣きながら言った。『罪深き竜よ。そなたの
人形遣いは大きな竜のマリオネットを糸で
「女神は竜の亡骸を海へ落として、陸地を作った。そして陸地に人間を産み落としたのさ。気の遠くなるような長い長い
青い布に沈んだ
「
人形使いが
「人間達を助けるために、女神は自分の血を大陸の東西南北に
舞台の奥から、人形遣いは純白の
陽光を受けてきらめく美しい聖女の人形に、劇を観ていた子ども達が
「ねぇ、おじさん! 聖女ってほんとにいるの?」
「勿論さ。隣国レギトが、西の聖皇国なんだ。レギトでは
「でもおれ、聖女なんて会ったことないよ」
「そりゃそうだ。俺達の住むこの〝大陸西部〞には、
「じゃあわたし達の国にも、聖女は来てるの?」
「残念だが、聖女の数が足らなくて、ログルムントは聖女を派遣してもらえないんだ。だから救いが欲しい
そう言うと、人形遣いは聖女のマリオネットをくるくると
「てな訳で、女神に
終幕の音楽と共に舞台に幕が下り、観衆の
(大陸西部に聖女は九人だけ。でも本当は、私も入れれば十人だったんだ……)
法王の
(……でも実際には、
自分が正規の聖女として
(……それにもう、私は偽聖女ですらないんだ。素性を
自己保身のために能力を隠して、救う役目を
思いつめていたそのとき、ディオンに肩をぽん、と
「やっぱり今日は、もう帰らないか?」
「え……? いえ。せっかくですから、もっと街を……」
「俺の都合で済まないが、腰を落ち着けていたら疲れが出てきた。案内は今度でいいか? 次は市場だけでなく、領内全部をじっくりと見せるよ。だから、今日は帰ろう」
ディオンに気遣われているのは明らかだった。彼の
「竜化病だ!」
市場のほうで、そんな
「果実屋のガキが竜化病を発症したぞ!! 自警団を呼べ、早く取り押さえろ」
「いや、殺せ! そんな危険な奴は、今すぐ殺しちまえ!!」
――殺す?
「ダフネ!! メアリを頼む!」
護衛のダフネにエミリアを
「メアリ様、あなたには関係ありません。
エミリアは目を泳がせた。
(……私、治せるのに)
「馬車へ戻りましょう。ディオン殿下が戻られるまで、馬車で待機します」
「ダフネ……私、何もしないから。だから市場のほうに行くのは、問題ないでしょう?」
「メアリ様!」
「本当に、何もしない。見守るだけよ。約束する。……お願い、心配なの。ダフネ」
切々と
「仕方のない人ですね……。絶対に余計なことはなさらないように。もしあなたが何かしようとしたら、私は全力で
市場前の通りは、すっかりパニック状態だった。
竜化病を
無数の粒が寄り集まって、少年の周囲に数本の火柱が上がる。
「ぅ、…………うぅ。ああ…………」
少年の
「お兄ちゃん、マルクお兄ちゃん! どうしたの!?」
少年の妹――ミーリャは混乱しながら
「ダメだよミーリャ!! 行っちゃいけない、マルクに殺されちまう!!」
「なんで、おばあちゃん!? マルクお兄ちゃんがミーリャを殺す訳ないでしょ!」
「……竜化病は、ダメなんだ。全然違う人間になっちまう。ああなっちまうと、もう……」
マルクの祖母であるロッサは、血の気の
「誰か魔法で戦える奴はいねえのか!? そんなガキ、早く殺せ!」
ミーリャは泣きながら自分の耳を
「お前達、落ち着け」
低くて響きの良い声が、ミーリャの
「ディオン殿下がお見えになったぞ!!」
わぁ、と人だかりから歓声が上がった。
「殿下、果実屋のガキが竜化病になりやがったんだ」
「あのガキを、やっちまってください領主様!」
騒ぎ立てる彼らを冷めた目で見やってから、ディオンはミーリャに
「心配するな。マルクは助かる」
石畳を
ディオンは止まらない。爆炎を抜けてマルクに迫ると、
「
ディオンに引っ張られ、マルクは前のめりによろける。少年の首の後ろに、ディオンは「とん」と手刀を入れた。
ーーいとも
「――黙れ、お前達」
彼の冷たい声に、一同は息を
「竜化病は誰でも発症し得る病気だ。この大陸の人間は、全員が〝竜の因子〞を持っているからな。なのに〝化け物〞だの〝殺せ〞だの、よくそんなことが言えるな。その
水を打ったような
ディオンはマルクを抱き上げて歩き出し、老婆と少女の前で止まった。
「ロッサ、ミーリャ。怖かっただろうが、心配は要らない。マルクは俺に預けてくれ」
「……ディオンさま。マルクお兄ちゃんは、病気治った?」
「まだ治ってない。気絶しているだけだから、起きたら今と同じ状態になる。ちゃんと治すには、隣国の聖女のところに連れて行って、
ディオンは人だかりの中に、エミリアとダフネがいることに気づいた。
「メアリ、見てたのか。俺はこの子を運ぶから、悪いが先に馬車で帰っててくれ」
それからダフネに「メアリを頼む」と言い残し、彼は去っていった。
「メアリ様、屋敷に戻りましょう。……メアリ様?」
エミリアは何も答えない。青ざめて立ち尽くし、泣き出しそうな顔をしていた。
やけくそで密入国した夜逃げ聖女は、王弟殿下の愛に溺れそうです 越智屋ノマ/ビーズログ文庫 @bslog
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