出張で起こったあれこれ
オッサン
△△山地のとあるホテル
随分前の話になるが、顧客から相談を受けて、現地に赴くことになったことがある。
そこは近くを通る鉄道もバスもなく不便、一番近いのは〇〇自動車道のインターチェンジで、車で向かうのが一番速い。しかも作業は簡単に終わりそうになかったのだった。
「今日はどちらにお泊まりです?」
訪問先の社長が話を振る。彼はいつもしかめっ面をしている。が、悪気はない。
単に胃が悪いのだ。右手で腹を押さえながらも世間話を始めるほどには気を使える人だ。
「ちょっと遠いのですが、▢▢市の▢▢国際ホテルに泊まろうと思ってるんですよ。いつもの◯◯堂は一杯で予約できなかったんで。」
そう言うと、彼にはめずらしくにこやかな表情を浮かべ
「そうですか。それは大変ですね。距離もあるし明日も来られるなら、今日は早めに切り上げてゆっくりするのも良いかもしれませんね。」
と。いつも渋い表情だが悪い人ではない。苦労人なのはよく知ってるし、長い付き合いだ。その言葉にうなずきながら、作業を進めていった。
「予約の✕✕です。」
「いらっしゃませ。ご利用ありがとうございます。・・・✕✕様、本日は3階の305号室となっております。当ホテルをご利用になられたことはございますか?」
出張先のホテルでいつも繰り返されるやり取りは、事務的で簡単にすむ。
ここ▢▢市の▢▢国際ホテルは、山奥にある。鉱山跡や霧の中に浮かぶお城が有名で、観光スポットとして知られているからか、ホテルの雰囲気は意外と良い。ロビーを見れば結婚式場も兼ねているのがよくわかる作りになっていた。
エレベーターに乗り3階のボタンを押す。ぐんと持ち上げられる感覚とともに動きだす。一人で狭いエレベーターの箱の中。静かだ。3階についてドアが開いたら人が立っていた。なんてあったら怖いな。などつまらぬことを考える。
エレベーターが止まる。3階の廊下には誰もいない。まあそんなもんだよな。
ひんやりした空気の中、目的の部屋の番号を探す。
301・・・302・・・303・・・305。ここだ。
キーをドアノブに差し込み右にひねる。そのまま扉を押すとあっさりと開く。簡単な作りだ。
扉から右に簡易クローゼット、そして左はユニットバス。ユニットバスの扉の正面に姿見が立て掛けてある。ちょっと悪趣味ではないかと苦笑。裸の自分に向き合いたくはない。
奥に進むと右側の壁は鏡。そのままテーブルになっていてテレビが置いてある。左側はベッド。まあ普通の単身用ホテルの部屋だと思った。思っていた。
「305号の✕✕です。」
「おかえりなさいませ。」
いつもチェックイン時間の目処が立たないので、夜は外食することにしている。
ホテルの前には一軒だけこの場所を通るJRの路線と同じ名の居酒屋があった。
そんなに飲んだつもりはないのだが疲れが出たのだろう、眠くなったので早々に引き上げた。
さっきのは部屋に戻るときのフロントとの会話だ。
3階でエレベーターを降りた。
なんだか寒いな。
初夏とは言え、標高の高い場所だからか肌寒い。
とっとと風呂にでも入って寝よう。
寒気がするからか酔いも冷めてしまったようで、熱いシャワーを浴びる。
体を洗い、明日も頑張るかとユニットバスの扉を開けた。
そいつと目が合った。
「うおっ!」
思わず声が出てしまったが、自分だった。
ユニットバスの反対側にある姿見だ。
やっぱり悪趣味だ。
飛び出しそうな心臓の鼓動を押さえながらそうつぶやく。
ベッドに腰掛けて頭を乾かしていると足元がやっぱり寒い。
今、ベッドの下から手が出てきて足を掴んだら心臓麻痺で死ぬ自信があるな。
そんなくだらないことを考えたら怖くなったのでさっさと寝よう。
そう思った。
出張で何度も泊まりになっているのに相変わらずくだらないことを思う。
変わらないものだ。
いつの間にかウトウトとして寝返りを打ったらしい。
左向きに横になり、まくらにつけていた右耳に低くくぐもった男の声が聞こえた。
「飯食いに行こうか〜」
「いや、もう食ったし、めんどくさい」
まくらから声がするなんてありえないのだが、半分寝ぼけていたためか、つい返事をしてしまった。
その途端、ぐいっと背中を強く引っ張られた。
一気に目が覚めた気がした。
あっあっあっ!
背中を何かが掴んでいる。
強い力で壁の方に引っ張られる。
ベッドの真ん中に寝ていたはずなのに引きずられて行く。
ドン!と、壁にぶつかる。
反対側ならベッドから転がり落ちて目が覚めたのかもしれない。
でも、こっちは壁がある。落ちることはない。
引っ張る力は弱まることはない。
壁とベッドの隙間に吸い込まれそうになる。
ちょっ!ちょっ!ちょっ!
言葉にならないが気持ちは焦る。
両手はなにか掴もうと必死なのだが、虚しく空を切る。
気持ちは焦り、心臓の鼓動は激しく大きくなる。
壁とベッドの隙間に体が半分くらい引っ張り込まれていた。
ものすごい圧迫感を体の両側から受けてこのまま潰されるんじゃないかと思った。
だが、グイグイと背中を強く引っ張られる感覚は突然途絶えた。
「昨日えらい目に会いましてね。」
「やはりそうですか。305でしょ?」
翌日、件の社長に会うなり昨晩の体験を伝えた。
あそこはね。出るんですよ。昔ね、ホテルの名前を変える前に・・・
そんなふうににこやかに話し始める訪問先の社長がそこにいた。
胃潰瘍は治ったのか?そう問い詰めたい自分がいた。
後日、そのホテルのことが気になったので検索サイトで調べてみたのだが、社長が言うような事件や事故の記事はなかった。
ただ、投稿掲示板の中にうわさとして書き込みがあったのを見つけただけだった。
そう、見つけてしまったのだった。
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