(5)――歌がこれほど力のあるものだなんて、思いもしなかった。
「そうしたら、なんの話をしようかなあ」
足をぱたぱたさせながら、少女は考える。それに合わせて、夏服のスカートが楽しげに踊った。
「あ、そうだ。学校の話が聞きたい」
「別に構わないけど、それ、狛犬のお前は楽しめる話題か?」
念のために確認すると、少女はぎくりと肩を震わせた。
「へ?! あ、え、ええと、無論だっ! 最近の狛犬は人間界の事情にも詳しくてだな。日々最新の情報を集めているのだ!」
「お前がうちの中学の制服を着ているのは、その情報収集のため?」
「あー、ええと……」
少女は最適解を探すように、顔を右へ左へ動かす。
「そ、その通りなのだ!」
果たして、少女は動揺を微塵にも隠せていないまま、そんなことを言う。
狛犬を自称してはいるものの、設定の作り込みは甘いようだ。
「ワタシは躾の行き届いた賢く優秀な狛犬であるからして、人間界に潜入するのもお手のものだ。どうだ、アキ? ワタシは人間に馴染めているだろう?」
「どうって……」
そう言われ、改めて少女を見る。
夜の闇に溶けてしまいそうな黒髪。夕方に見ると、まるで夜へ橋渡しをするかのように、真っ直ぐと少女の胸元まで伸びている。すらりとした長身は、しかしあまりに細く、夏が終わって枯れゆくアサガオを連想させる。季節外れの夏服を着ているから、余計にそう思ってしまうだけだろうか。
「全体的に普通じゃないかな」
「普通……」
「僕のクラスに居る女子と大差ないってこと」
怪訝そうな声を発した少女に、僕はそう付け加えた。
儚さと美しさが同居する雰囲気の少女に声をかけること自体は難易度が高いかもしれないが、これだけ人懐っこい性格だ、仲間外れにされるようなことにはならないように思う。ただ一点、その要因になりそうなものがあるとすれば。
「そのお面がなければの話だけど」
「ぐっ……」
まるで弱点を突かれたように、少女は呻いた。
「そのお面は、外せないのか?」
制服に名札を付けていないことといい、お面といい、明らかに少女は、自身の正体を隠したがっている。その理由は定かではないが、周囲に馴染みたいと思うのであれば、お面は不要なはずだ。
僕としては、そのお面の下にどんな顔が隠れていようと構わない。だって僕は、既にこの少女の性格や話しかたを、だいぶ気に入っていた。顔がどうだろうと、嫌う理由には成り得ない。
「……お面は、外せない」
少女は、お面越しに両手で顔を覆いながら、消え入りそうな声で言う。
「だってワタシは、これ以外は普通なんだから……」
顔を隠したがる理由も、いやに『普通で在ること』にこだわる理由も、僕にはわからない。けれど、そうやって隠す気持ちには共感できる。僕だってこの目つきの悪さがコンプレックスだ。本人にはどうすることもできない事柄に、ああだこうだ言われることが非常に不快だということも、僕は知っている。
「ごめん。変なこと言っちゃったな」
だから僕は、素直に謝る。
「考えてみれば、当たり前のことだったな。お前は神の遣いである狛犬だから、人間なんぞに素顔は晒せないよな。うん。それが普通だし、僕はそのままで良いと思う」
「……」
僕の言葉に、少女はぽかんとしているようだった。
しまった、と冷や汗が頬を伝う。少女の狛犬設定に合わせたつもりだったが、解釈違いでもあったのだろうか。
「……――な」
「え?」
少女の発した声は、木々のざわめきにかき消されるほど小さく、僕の耳にまで届かなかった。しかし、少女自身もきちんと言葉にできていなかったのか、ごくりと唾を飲み込んで、少女は改めて言う。
「アキは優しいな。そんなことを言われたのは、初めてだ」
意表を突かれたようなもの言いに、今度はこちらが驚く番だった。
「い、いや、別に」
褒められ慣れない僕は、早口に言う。
「僕の目つきの悪さを、お前は怖くないって言ってくれたろ。それと同じだよ。お前はそのお面を含めて、この神社の狛犬であるコマだ。それで良いじゃん」
「……えへへ」
お面の奥から、微笑が零れるのがわかった。
良かった、と僕は安堵する。
この少女には笑顔が一番似合う。
表情なんて見えたことがないのに、僕はそんなことを思った。
「それで、ええと、学校の話だったな」
場の空気を切り替えるように、努めて明るい声で少女は言う。
「学校では今、なにをしているのだ?」
そう問われ、ここ数日間の学校生活を思い返してみる。
僕自身の日常はあまり思い出したくもないことばかりだが、学校行事として考えるのなら、今まさに旬なものがひとつあった。
「月末に文化祭があるから、それに向けていろいろ準備に追われてるかな」
「いろいろ?」
「展示する作品を描いたり作ったり。あとは、校内でクラス対抗の合唱コンクールをやるから、曲決めとか」
「合唱コンクール!?」
いやに食いついてきたかと思ったら、少女はぐいっと距離を詰めてきた。肩が当たりそうなほど近づいてきた少女からは、微かに森の香りがする。
「もう曲は決まっているのか? どんな曲を歌うのだ? アキのパートはどれだ?」
女子とこんなに距離が近くなっているというのに、どきまぎする隙さえ与えない、怒涛の質問攻めである。
「ま、まだなんにも決まってない」
気圧されそうになりながら、僕はどうにか答える。
「あ、でも、一年生は三部合唱だっていうのは、聞いた気がする」
「ふむ。であれば、男子のパート分けがない、ソプラノ、アルト、テノールの三部合唱だろうな。それで、曲は決まっていないと言っていたが、候補くらいはもう挙がっているのだろう?」
「……ちょっと待って。今思い出す」
米噛みに指を当て、必死に記憶を辿る。
思い出せ、ほんの数時間前に見た、黒板に書いてあった文字列を。
「……候補に挙がってたのは、確か……」
どうにか五曲全ての曲名を挙げることに成功すると、少女は、ほほう、と相槌を打つ。
「一年生にしては難しい曲ばかりが出揃ったのだな」
どうやらこの曲名たちに覚えがあるらしい少女は、神妙に頷く。
「それで、アキはどの曲が良いと思ったのだ?」
「どの曲が良いもなにも、視聴のときに居眠りしてたからなあ。さっぱりだ」
「なっ……!」
まさしく、言葉を失う少女。
信じられない、と手を震わせる少女だが、居眠りの原因はあのハンカチにある。
なんとなくばあちゃんに見つかるのが嫌で、ばあちゃんが寝るのを待ってから洗濯をしてアイロンをかけていたら、いつもより寝るのが遅くなってしまったのだ。
寝不足の状態で、教室が静まり返り、ただ曲を聴くだけの時間に放り込まれてしまえば、居眠りもしてしまうというものだ。だからそう、これは不可抗力である。
「それは勿体なくないか、アキ」
「別に……」
行事だから参加はするが、あまり興味はない。
「あっ、そうだ!」
何故か合唱に対して並々ならぬ情熱があるらしい少女は、なにか閃いたらしく、両手を合わせ、パンッと鳴らした。
「ワタシがその五曲を、今からここで歌おう!」
「え?」
「そうしたら、アキもちゃんと曲を知ってることになる。アキも自分の好きだと思う曲に投票することができるぞ」
「ええと……」
困惑しつつも、状況を俯瞰的に眺める冷静な僕が考える。
普段であれば、こんな一方的な好意は突っぱねている。余計なお世話だし、どうせ『可哀想な美秋君』に向けた自己満足的なものでしかないのだから放っておいてほしい、と。
しかし今は、そんな気持ちは微塵にも起きない。
だって少女には、そういった感情が全くないのだ。嫌悪感など抱きようもない。
「それじゃあ、うん。お願いしても良いか?」
「ヤーッ!」
嬉しそうにそう言って、少女は立ち上がった。
そしてそのまま、とことこと僕の正面に移動する。
「えー、ではでは」
改まった様子で、少女は言う。
「基本はソプラノで歌わせてもらうが、男声メインのところがある曲も、できる限りカバーしていくから安心して聴いてくれ」
「うん」
「よし」
僕の相槌に、少女は小さく頷いた。そして、喉の調子を整えるように軽く咳払いをすると、足を肩幅ほどに開く。たったそれだけの所作でも、場の空気ががらりと変わったのを感じる。
すぅっと息を吸い込んだかと思うと、語りかけるような優しさで歌い始めた。
凛とした歌声は、同時に透き通るような美しさも持ち合わせていて。風に乗る草木の音さえも巻き込み、ひとつの楽曲としているかのようだ。
たった一人で歌っているはずなのに、物足りなさを全く感じない。むしろ、一人であるからこそ、少女の歌声を遺憾なく発揮できているのだろう。僕は音楽に明るくないが、少女の歌がとても上手であることくらいは、否応なしに理解できる。
すごい。
ただただ、この一言に尽きた。
歌がこれほど力のあるものだなんて、思いもしなかった。
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