グリモワール1《魔術の書》が私にすべてを開放せよ、と叫んでいる。
春野 セイ
第1話 ドブネズミ
「なんて汚い。まるでドブネズミじゃないか」
しわがれた女の声がする。
ドブネズミ? それってわたしのこと?
なんて口の悪い女。一体、どんな顔をしているんだろう。
顔を見ようとすると唾を吐かれた。
「目を合わすんじゃないよ、ドブネズミ」
わたしはドブネズミじゃない。
けれど、自分が誰だか分からないから、否定できない。
その後、女が言った。
「あんたが手に持っているそのミルクをつけてくれたら、そのドブネズミもらってやるよ」
何らかのやり取りがあったのだろう。
突然、首の鎖が外れて自由になった。
わたしをもてあましていた商人はミルクを手放してでもいいから、わたしを棄てたかったのだろう。
こうして、わたしの事をドブネズミと呼ぶ女に引き取られた。
さて、次の居住地は? というと。
馬小屋だ。
悪くない。それどころか天国だ。藁が敷き詰めてある。なんていい匂いがするのだろう。
「呼ばれるまで、その桶で身体を洗って待ってな」
蹴飛ばされて床に這いつくばる。桶には雨水がたまっていた。
よかった。体まで洗えるなんて。生きてきた中で一番まともな住みかだ。
洋服を脱いで桶にたまった雨水で身体を洗った。手でこすると垢がどんどん出てくる。
体を洗い終えると、再び洋服を着た。せっかく体の匂いはましになったのに、服は汚れたままだ。
少しして、先ほどの口の悪い女が現れた。
「お前は汚すぎるから旦那様にご挨拶する必要はない」
「はい」
「名前は面倒だから、ドブのままでいいね」
わたしはぐっと口を噛んだ。でも、言い返せない。
「…はい」
「それからお前は今後、はい、しか言っちゃいけないよ。それ以外の言葉はなしだ」
「……はい」
わたしはドブじゃない。言葉も話せる。けれど、口応えはしない。
「ドブには給金はやらない。けれど、朝夕は旦那様のパンの残りと水を与える」
「はい…」
パンが食べられる。
聞いただけで、口の中に唾がたまる。その唾だけでも甘い味がした。
それからわたしはこの屋敷で働かせてもらえることになった。
他のメイドと顔を合わせた事はない。
どうやらわたしは存在しないメイドらしく、ドブと名前で呼ばれることも滅多になかった。
主な仕事は水汲みと薪を探しに行くこと。
単純な作業だが、朝から晩まで働いた。
体はきつかったが、気は楽だ。
目がつぶれるまで殴ったりする人間はいない。
でも、わたしはドブネズミじゃない。
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