第17回/蜘蛛になる/総合25位

第1会場2番

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会場7位/総合25位



《あらすじ》

半年ほど前から起きている小学生女児の行方不明事件。

行方不明となった女児の通う小学校は、徐々に私の暮らす町に近付いていた。

クラス内に居場所はなく、家に帰れば酒に溺れる母の暴力。

いつ死んだって構わないと思っていた生活が変わったのは、ある放課後のことだった。

誘拐されたいじめっ子、彼女の居場所を知るのは自分だけ。

監禁部屋の上部に嵌め込まれた窓から私を見て、助けが来ると期待した彼女の顔。

今まで想像したこともなかった考えに埋め尽くされ、私は蜘蛛になる。

ねぇ、垂らされた糸を切られるのって、どんな気持ち?



《本文》

 じゃばじゃばじゃば。

 生臭い匂いが鼻を突く。暖房のかかっている教室の中、頭皮を伝った水が背筋を震わせた。


「腹減ってんなら金魚でも食ってろよ」


 キャハハハと、彼女の周囲からわらいが溢れる。私の頭に餌やり用のカップですくった水槽の中身をぶちまけた彼女は、既に表情を退屈に染め上げていた。

 彼女と取り巻きたちが自席に戻るのとほぼ同時に昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響き、私は担任の教師に叱責しっせきされることになる。


「また貴方なの?! 早く体育着に着替えて、床の掃除もしなさい!」


 私は小さく返事をし、床板の上で必死に跳ねる金魚を水槽に戻した。何が起きたのかも分かっていないだろう金魚は、しかしすぐにいつもの調子を取り戻す。

 もう私のことなんか忘れた顔をして泳ぐ金魚を横目に、机の脇にかけてあった体育着の袋を持ってトイレに行った。パーカーとTシャツを脱ぎ、濡れていない部分で髪の毛や湿った肌をガシガシと拭く。生地にへばりついた水草をトイレに流すと、少し安心した。まだ、私は何かを捨てられる。


 トイレの清掃用具入れを開けば、昨日の湿り気が私の身体を包んだ。薄汚い紐の塊みたいなモップを取り出し、廊下に出て水場の蛇口を捻る。じゃぶじゃぶと塊を濡らして、近くに置いてある絞り機でぎゅうぎゅうと絞った。

 汚れた服をみちみちに詰め込んだ体育着の袋とモップを手に、教室へ。規則正しく整列した机に向かうみんなは真面目に授業を受けるフリをしている。誰の目も黒板にチョークを走らせる教師の方なんか見てもいなくて、小さく折られた手紙だったり、消しゴムの欠片だったりが飛び交っていた。


 私は床にできた水たまりをモップで吸い取った。片面を滑らせ、もう片面も滑らせ、それでもなお取りきれない水槽の水が上履きの底を濡らす。私は雫を滴らせながら廊下に行って再びモップを絞り、床が乾いた状態になるまでモップを滑らせ続けた。

 もう授業は半分ほど終わっていて、それでも机に戻りたくなくて、とっくに綺麗になっている床を撫で続けていると、また担任の甲高かんだかい声が響く。


「いつまで掃除してるの! さっさと片付けて席に戻りなさい」


 時間稼ぎは許されず、それでも精一杯ゆっくりな動作でモップを片付けに行った。半袖半ズボンの体育着は、私から熱が奪われていくのを守ってはくれない。教室の後ろに並んだ剥き出しのロッカー。ボロボロのランドセルの上にぎゅうと無理やり突っ込んでいたジャンパーを引っ張り出し、身にまとってから席に戻る。国語の授業は退屈で、破れて汚れた教科書を開く気にもならなかった。


 水曜日は五時間で授業が終わる。帰りの会が済んだらすぐに、逃げるように教室を飛び出して図書室へと駆け込んだ。図書室にはいつも一人先生がいて、先生の目に入る位置の椅子に座って本を読んでいれば何もされることがなかった。

 家に帰りたくもなかった私にとって、図書室は唯一の逃げ場所だった。


「最近、小学生が危ない目に遭っているみたいだから気を付けて帰りなさいね」


 放課後の開放時間の終了間際、そう声を掛けられた。この半年ほどで数回、小学生が行方不明になっていた。始まりは県内とはいえ遠く離れた場所の小学生だったが、段々と私たちの暮らす地区に近付いているのだ。二週間ほど前に行方不明になった女児は、ここから電車で数駅先の地区の小学生だった。


 私は頷き、本を棚に戻して図書室を出た。別に誘拐されて殺されてもいいと思っていた。むしろその方が、私にとってはきっと幸せだった。だから犯人は私を狙わないだろう。テレビに映る女児たちは、みんながみんな綺麗で可愛らしかった。


 そう、彼女のように。


 太陽は山の向こうに沈み、電灯に照らされた薄暗い道を歩いていた。何か悲鳴じみた小さな声が聞こえたような気がして足を止める。歩調を緩やかにして曲がり角の左右をうかがうと、体格のいい男が子供を抱えている姿が見えた。

 反射的にきびすを返し、へいにへばり付くようにして呼吸を潜めた。今見えたのは、何だったか。父親が自分の子供を抱えているようにも見えたが、その子供は両足をじたばたさせ懸命に抵抗しているようだった。もう一度、確認しなければと思った。しゃがみ込み、そっと片目を塀からのぞかせる。

 男は子供の抵抗に苛立いらだったのか、地面にその小さな頭を打ち付けるように投げ飛ばした。勢いよく宙を舞った子供の身体はコンクリートに叩きつけられ、嫌な音を立てて転がった。そこにのし掛かるように馬乗りになった男が、子供の首を絞めている。苦しみにもがくようにばたつく子供の足先が、電灯に反射してキラリと光った。


 数日前、彼女が自慢げに履いてきた靴があった。大ぶりの透明なビジューが彩る靴は可愛らしく、彼女の細くて白い足をキラキラと飾っていた。それを、思い出した。まさかと思い様子を窺っていると、男はぐったりとした子供を抱きかかえた。そして抱えた子供に大きな上着を被せ、そのまま歩き出す。はたから見れば、遊び疲れて眠ってしまった子供を抱えて帰宅する父親のように見えるそれ。

 私は気配を殺したまま、男の後を追った。男の肩口から垂れるツインテール。少し桃色がかった小さなビーズのヘアゴムは、彼女のお気に入りだった。


 十五分ほど歩いたと思う。男は住宅街を抜けた先に建つ一軒家に入って行った。そこは富裕層向けに作られた区画で、元々あった商店や家屋を追い出してまで整備したものの想像以上に買い手が付かず、今やゴーストタウンのようになってしまった場所だった。男の家も、両隣の空き家に負けず劣らずツタに覆われていて、しかし遮光カーテンに向こうから漏れる明かりが、かろうじて人が住んでいることを示している。

 私は一度大きく深呼吸をして、家に帰った。


「今何時だと思ってんだよ!」


 腹部をげられ、迫り上がる給食を必死に飲み込む。焦点の合っていない目で私の方を見てボサボサの髪を振り乱した母は、空っぽのビール缶をいくつも投げつけながらわめいた。


「酒がねーんだよ! さっさと買ってこいよクズが!」


 お金は、などと聞き返せばまた蹴られるか殴られるに決まっている。私はうつむきながら庭先にランドセルと体育着の袋を置いた。ゴミだらけの廊下の床を舐めるように見つめながら玄関に向かって歩くと、キラリと光る五百円玉を一枚見つける。それを握りしめ、染みのついたトートバックを持って家を出た。


 近所の酒屋の前。酒類の並ぶ自動販売機でビールを二本買う。帰ったら眠っていてくれないだろうか。祖父母の遺した古い一軒家に住む母と私。両隣の家は空き家ではないが、私にとっては空き家みたいなものだった。母の怒号、癇癪かんしゃく、折檻の音だって、誰の耳にも届かないらしいから。


 居間のテレビがバラエティ番組を流し、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。こたつに下半身を埋めて寝転ぶ母にビールを差し出すと、勢いよくひったくられた。もう一本をこたつの上に置き、なるべく足音を立てないよう庭に出た。

 石造りの水道は、祖母が庭の植木に水をやるのに使っていた。今は私が洗濯に使っている。冷たい水をタライに溜めて、体育着の袋からバサバサと服を出した。袋もタライに突っ込むと、縁の下に隠してある粉末洗剤を少し振りかける。

 じゃぶじゃぶと手で泡立てて、生臭さが洗剤にかき消されていく。手が赤く、かじかんで、いる。


 服を家と塀の間に張った紐にぶら下げ、縁側に丸めてある布団に潜り込んだ。いつもならそのまま目が覚めなければいいのにと思う夜が、早く明日になってほしいと願う夜に変わっていた。


 翌日、やはり彼女は学校に来なかった。私は体温が上昇するのを感じていた。クラスメイトがざわめくのを眺め、必死に無表情を作り続けた。


 平和な授業を終えて放課後、私は図書室に行かずに男の家に向かった。遠回りをして裏手に回ってみると、小さな鉄の門はかんぬきが壊れて半分開いた状態になっていた。私はそこから身体を滑り込ませ、気配を消しながら家に近付く。

 肌がチリチリと粟立ち、自然と早くなる呼吸を意識して落とす。大丈夫だ、人の気配はしない。ぼうぼうと生い茂る背の高い雑草に紛れて壁まで辿り着いた私は、地面近くに小さなごろしの窓を見つけた。


 窓の向こうは防音材の貼られた壁で、天井には電気らしきものはない。どうやら地下室の上方に設けられた小さな窓のようだ。下の方を覗き込むように視線を移動させると、猿轡さるぐつわを嵌められ、そこから伸びる鎖で壁に繋がれた彼女が力なく座っていた。

 彼女の前にはトレイに乗った皿が並んでいて、その周辺にはなにやらぐちゃぐちゃとしたものが散らばっている。きっと、皿に顔を突っ込んで食べなくてはならなかったのだろう。


『ほら、食えよ』


 給食当番は私に給食をほんの少ししか配膳はいぜんしない。腹を鳴らす私の前にポテトサラダを放り投げたことを彼女は覚えているだろうか。床にべちゃりと落とされたポテトサラダ。取り巻きに私の両腕を拘束させ、その状態で食べろと命じたことを彼女は覚えているだろうか。


「まるで犬みたい」


 あの時の彼女の口から発せられた文言が、私の口から紡がれる。

 差し込む光に影が差していることに気付いたらしい彼女が顔を上げた。窓の外に人影を認めた彼女の顔が、絶望の色が、希望に塗り変わる瞬間を見た。


「また、明日」


 私は彼女にひらひらと手を振った。

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