第6話 塩素の臭いとお引越し
プールサイドの観覧席に行くと、強い塩素の臭いが鼻を衝いた。
中三の夏に部活を引退してからまだそんなに時は経っていないのに、何だか既に懐かしい。色々と思い出が脳内に溢れては、意味も無くノスタルジックな気分になる。
「姫じゃん」
「本当だ」
オレに気が付いた部員達が、泳ぐのをやめて水から上がって寄ってくる。約十名程。他の見学人はまだ居ないようだ。
ガラスの衝立越しに、声を掛けてきた。
「こんにちは~! 見学ですか?」
「はい。お邪魔してすみません。オレのことはお気になさらず、皆さんは練習なさっててください」
この学園のプールは室内に設置された温水タイプだ。一年中、季節を問わず利用出来る。オレの中学では昔ながらの外にあるタイプだった為、冬は近所のスポーツセンターを利用していた。それには経費が掛かるので、春や秋頃には学校の冷たいプールに無理矢理入っていたものだ。
ああ、懐かしいなぁ……あの、飛び込んだ瞬間、心臓と呼吸の止まる、凍てついた水温十五度のプール!
「姫、水泳に興味あるの!? 意外!」
「はい、オレ、中学の時水泳部だったので」
「マジで!? 即戦力じゃん!」
「いえ……泳ぐのが好きというだけで、あんまり速くはないので」
苦笑するオレに、水着の先輩方が口々に言う。
「そうだ、折角来たんだから、姫も泳いできなよ!」
「そうだな! 見てるだけじゃつまらないっしょ!?」
「え? でもオレ、水着持ってきてないです」
今日は見学だけのつもりでいたので、当然水に入る用意は無かった。念の為、水濡れ対策で体操着には着替えてきたが……。
「制服あるんしょ? なら、体操着のまま入っちゃえば?」
「着衣泳ってやつ!」
「でも、その……替えの下着が……」
すると、先輩方は数秒顔を見合わせて、
「そんなの、ノーパンで帰ればいいじゃん!」
「何なら、俺のパンツ貸したげるよー!」
「俺も俺も!」
「ギャハハ! 誰がお前らの汚ねぇパンツなんか履きたがるんだよ!」
盛り上がる彼らに、オレは反応に困って曖昧な笑みを刻んだ。そこへ――。
「いけません!」
御影さんが声を上げた。
「そのような破廉恥な行為を陽様に勧めるとは、感心出来ませんね」
「破廉恥!?」
「下着の件は言語道断として、体操着で着衣泳ですって!? 濡れて張り付く衣に、透ける肌……そんなの、過激に過ぎます! 危険です!」
「いや、何言ってんの!?」
どちらかと言うと、
ほら、先輩方も引いている。もうっ、こっちが恥ずかしい!
「御影さんは黙っててください!」
「ですが……」
「着衣泳はしません! 今日は見学だけです! それでいいでしょう!?」
オレがぷりぷり怒りを露わに宣言すると、ようやく御影さんは口を噤んだ。先輩方も決まり悪げに場を取りなす。
「いや、何かごめんね?」
「護衛の人、凄いね?」
「それじゃあ、俺ら普段通りに練習してるんで……自由に見てって」
そう言って、彼らはそそくさとプールの方へと戻っていった。何だか、色々と申し訳ない……。
教室でもそうだったけど、御影さんはこの先もずっとこの調子なんだろうか……非常に気が重い。
◆◇◆
その後は何事もなく無事に見学を終えられた。先輩達に挨拶をしてプール施設を去ると、一度元の学生寮の方に帰った。今日はまだ、この後もう一つ大きなイベントが残っている。――そう、姫寮への引っ越しだ。
昨日準備しておいた荷物を詰めたトランクを回収して、元ルームメイトに別れを告げ、改めて姫寮へと向かった。……尚、荷物はやはり御影さんに取り上げられた。
時刻は、夕方十六時頃。日が伸びてきた最近のこの時間帯は、まだまだ明るい。天気の良い桜の遊歩道は、なかなかに美しく開放的で、散歩をするには持ってこいだ。
姫寮は一般の学生寮よりも校舎に近いが、それでも元々の敷地が大学並みに広大な学園なので、それなりに歩く必要があった。
やがて、遊歩道の先、鉄製のフェンスが取り囲む一角が徐々に姿を現してくる。――広い。庭園と呼べそうな緑の庭の奥に、アンティークな印象の二階建て洋館が建っていた。
資料でも見た通り、白壁に茶色の屋根、正面に玄関ポーチ、その上にバルコニー。左右の端は塔を思わせる少し高くなった作りになっている。
もう何ていうか、完全にそこだけ周辺と世界観が異なっていた。
ぽかんと口を開けたまま呆けたように館を見上げるオレを余所に、御影さんが門前に立つ警備員さんに話をしに行く。門の開閉は機械による自動操作らしく、程なくして目の前のそれは独りでに開かれていった。
……いや、お金掛ける所、間違ってない? 本校舎や学びに必要な施設の方に、この分の資金回そうよ!?
「陽様、それでは参りましょう」
「ハッ、はい!」
心中でツッコんでいたら、不意に声を掛けられて飛び上がった。オレは改めて気合を入れ直し、門の先へと足を踏み入れる。
中央の道を挟んで、左右はちょっとした薔薇園になっていた。見頃はもう少し先だろうか、蕾のままの薔薇がオレ達を迎えてくれた。ガゼボを横目に、彫刻の施された噴水を通り過ぎる。薔薇のアーチを潜り抜け、ようやく館の玄関へと辿り着いた。
低い階段を上がり、御影さんが重厚な二枚扉に手を掛ける。……あ、ここは手動なのか。
おそらく門で来寮を報せてあるからだろう、鍵は掛かっていないようだった。ゆっくりと開かれていく扉の先の光景に、オレは固唾を吞んで見入った。
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