余命60年の僕にもできる三つのこと
枚島まひろ
第1話 口の中の淀み
焦りと劣等感の味が、いつも口の中に淀んでいる。
十七歳のとき、初めてはっきりと死を感じた。何かマンガを読んでいる最中だったと思う。ふと、画面から顔を上げると、視界の右端に橙色の空が映った。オレンジと白とのコントラストが、いやに明瞭だった。青の絵具に牛乳を混ぜたようなぼやけた色の空に、その左側を炎で焼かれた雲が浮かんでいる。北の空……
《そうだ、北の空だ》と、視界に映るのが、いつも窓ガラス越しに見える北の空だと気づいたとき、僕は自分が涙を流していることを知った。
鋭い鼻の痛みと、喉の渇き、口に広がる粘性の強い唾液の味を、否が応でも覚えさせられる。僕はこの感覚をよく知っていた。
「またこれなのか」と、少々上擦り気味に、僕の口は呟いた。声に押されて、堰き止められていたものが、一気に溢れ出てくる。涙、鼻汁、喘ぎ声、等々。僕はさめざめと泣き、その間、世界は無情にも、僕から五分もの時間を奪っていった。
さてそれから、僕は一階へ降り、キッチンでコップに水を満たした。なみなみ満ちた水の表面を見つめ、《このままではいけない》と、もう何度目かわからない呟きを、ひとりでに心が洩らした。《いい加減に、何とかしなくては》
「しかし、どうしたものだろう」
僕は焦りから、思わず声を出していた。
「これまでだって、どうにもならなかったじゃないか」
《ところで──》と、僕はまたここで訝しむ。何か考えようとするとき、すぐに横やりを入れて疑うのが、僕の悪い癖だ。《ところで、僕はどうして、今度に限ってこんなにもシリアスなんだろう?》
たしかに、こんな出来事は、僕にとって、それほど珍しいものではなかった。たぶん始めては十歳のとき。中学に上がると次第にその数は増え、最近では月を数える以上にそれは身近なものになっていたはずだ。それが、どうして今日に限って?……いや、そんなこと、訊ねるまでもない。欠伸が出るくらい、明確な答えがあるじゃないか。そう──さっきまで読んでいたマンガ・シリーズ。いつも読んでいるファンタジーや、楽天的な日常ものなんかとは違う。シリアスで、どこまでもリアリスティックな……僕は登場人物たちの、苦しみや嘆き、暴力なんかを目の当たりにし、身につまされて、平気ではいられなくなったのだ。彼らの痛みを、死を、まるで自分事のように……いや、将来、あるいは数年後の自分の姿のように、僕は思い、考えずにはいられなくなったのだ。
これは予言である──
そう、僕の心は言っていた。僕は五年後、もしくは十年後に、あのキャラクターたちのように、現実という壁にぶち当たり、苦しんで、そのままに、悲惨に、死んでいくんだ……
死の恐怖。僕はそれから逃れたくて、画面から目を逸らし、涙を流したのだと思う。そうすれば、何もかもから逃れられる、忘れられる気がして。しかし、現実はどこへも行ってはくれなかった。マンガのように、世界がコマや画面の枠で囲われていてくれないから。どこまでも延々と、あるいは宇宙の彼方まで、この世界は僕の身体から地続きであるのだから。ああ、世界! そう、僕の心は叫んでいた。僕はこの無限にも似た広がりの中で、たった一人、この小さな身体で、あなたと正面から対峙しなくてはならないのでしょうか?
しかし、僕は同時に、これまで数々マンガ、アニメ、ゲーム、映画、小説に乗せられてきて、三日後にはすべて忘れてきたことを思い出す。そう、僕は何度、それらに触れ、感動して、明日を頑張る勇気を受け取ってきただろう。だが、その一度でも、頑張りを継続できたことがあっただろうか。
人は
これは、僕にとって、長い間明確なルールであったはずだ。誰も、どんな作品さえも、僕の人格とは無関係であり、僕に対して無責任である。娯楽は、どこまで行っても娯楽に過ぎないし、
じわり、と口の中で、鈍い苦みが広がっていく。僕はぞっと寒気を覚えて、眼前の水を一気に飲み干した。どうか、涙のように、今度こそこの水が、口に広がる苦々しい淀みを、不安を、いっときでも洗い流してくれますように、そう願って。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます