僕らは未だ十一時

柑月渚乃

第1話

 眠り姫は死んだ。


 そんなニュースの見出しを数年前に何度か目にしたことがある。

 その当時は僕も魔法薬学になんて興味なかったから、その存在もその時初めて知った。そんな僕ですら覚えているんだ。業界内ではそれはもうとてつもない功績だったのだろう。


 一度寝てしまえばそれから数日起き上がれなくなる病気。通称、眠り姫。

 珍しいが実に恐ろしい病気だ。しかし長きに渡りその対処法は見つかっていなかった。見つからなかった。


 だがそんな中、突然眠り姫に効果がある薬を作ったという人間が現れた。

 それがまさかの当時まだ学生だった、ミネルバという女性。


 眠り姫は死んだ。


 何故か僕の頭の片隅にはそんなニュースがずっと残っていた。

 そう、彼女に会うまでずっとだ。


 彼女と出会ったのは本当に偶然だった。


 

 

 あの日は雨のくせに、満月が出ていた。黒い雨が降る敷地内。

 窓から見える歪んだ景色を僕は一人、歩きながら、ただ眺めていた。

 しとしとと植物の葉を雨粒が伝っていく。


 その廊下はとても暗かった。誰も立ち寄らない棟だからだろうか。

 僕はそんな薄暗い廊下をゆっくり踏み締めるようにして歩いていた。


 だが、そんな時、薄暗い建物の中にぽつんと一つ明かりのついている部屋が僕の目に入った。

 そこだけ廊下に光が漏れている。

 

 ――人がいる?

 

 少なくとも僕はその棟に人が入っていくのを見たことがない。

 こんな所に人がいる、その事実に少しだけ僕は興味があった。


 ただ、興味はあるものの別にそこまで気になりはしない。――いつもだったら。

 なんだかその光は不思議な魔力があって。その日、僕は何故だか導かれるようにしてそこへ立ち寄った。


『ん? 君は?』


 中は研究室らしかった。

 そこでは、すらりとした女性が物の散らかった机の上で実験らしきことをしていた。


『あ、すみません! ただ立ち寄っただけで……』


『びっくりした。そうか……君はここの一年生かな』


 長いまつ毛が彼女の瞬きと共に動く。歳は多分そこまで僕と離れてない。

 彼女は一般人が想像する魔女に近い雰囲気をしていた。不思議でどこか掴めない人という印象。


 そんなミステリアスな美人を前にして、僕はとにかくマズイと思っていた。

 ボーッとしすぎていた、面倒なことにはなりたくない、と。ただそれだけ。


『一年……まあ、そうですね』


『名前は?』


『エレンです。ここは研究室ですか?』


 話しながら、ゆっくり僕は後ずさりする。


『ああ、そうさ。……エレン君、魔法薬学は好きかい?』


『え? まあ、好き、ですね』


 適当に話をして戻ろうと思っていた僕を、彼女の言葉が引き止めた。

 

 流石に自分から勝手に入ってきて勝手に出るわけには行かない。

 そうは分かっているけど、でも正直、目上の相手と話すのは苦手だ。早く帰りたい。


 というか魔法薬学が好きか、なんて。

 そもそも嫌いならここにいるはず……


『嫌いならここにいるはずないもんな』

 

 一瞬、自分の体がビクッと動いたのを感じる。

 驚いた。彼女は僕の心を読むようにそう言った。


『でも、本当に好きか?』


『え?』


『エレン君。周りより出来ることと好きなことをイコールにしてはいけませんよ』


 その彼女の言葉に思わず、僕は彼女の顔を見た。


『…………』


 声が出ない。自分の中で色々思っていることはあるんだろうけど、言葉にならない。


『魔法薬学には多いんです、そういう人。他と比べ薬学に才能は要らない、知識さえあればいいですからね。エレン君は一年生ですよね。どうですか?エレン君はそっちの人ですか?』


『それは……』


 僕は言葉を濁す。でも、続く言葉は決まっていた。


『そう、かもしれません……』


 観念したように僕は言った。

 彼女の言葉一つ一つは僕を責め立ててくるようで。


 彼女の話はああそう、確かに当たっていた。

 実を言えば、ずっと見ないようにしていただけでコンプレックスだったんだ。


 僕には、好きなものがない。

 楽しそうに好きを手にしている人を見るといつも自分に嫌気がさす。そして少し嫉妬してしまう。

 

 思い返してみれば、魔法薬学を選んだのは……そう。

 彼女の言う通り、向いているから、だった。


 でも、そんなことを訊いて目の前の人は一体何がしたいんだか、その時の僕にはわからなかった。


『ふふっ。そんな怖がらなくていいですよ、そんなもんです。意外とね、学者でも私くらいなんですよ。本当に好きでやっている人は。……それで、エレン君。助手になりませんか?』


 いきなり予想外の言葉が聞こえてきた。


『助手ですか……?』


『はい。ちょうど欲しいなと思っていたところだったんです。こんな場所の研究室に偶然立ち寄るなんて運命ですよ』


 なんか急に丸め込まれている感じがした。

 詐欺師みたいに口車に上手く乗せられている気が。

 

 どうしたものだろうか。

 いや、助手になる気は全くない。


 ただ即、断るのは失礼じゃないだろうか。

 でも、やる気は一切ないのに返事を濁らすのはもっとダメだ。

 というか面倒事にはなりたくないと思っておきながら、結局面倒事になっているじゃないか。



 最悪だ。どう断ろうか……


 その時の僕はそんな考えでいっぱいだった。

 

 ――だが次の瞬間、その印象はガラリと変わる。


『やってくれたら、その代わりに私が好きにさせてみせますよ。魔法薬学を』


 ドキッと心臓が鳴る。

 急にふわりと微笑んでみせる魔女。その時の彼女の表情は、何故か僕にはすごい魅力的に見えた。


 ――好きになれる?魔法薬学を?


 よく考えれば分かりやすい詐欺の手口だ。

 

 でも、その時、その一言はまるで新しい扉を開いたような。

 今まで自分を閉じ込めていた壁を越えられるような。そんな気に確かにさせられた。


『どうだい?』


『……まあ、僕で良いのであれば』


『本当か!? 良かったー! それじゃあ、また明日、来てくれ』


『ちょっと待ってください! お名前を聞いてもよろしいですか……?』


『あー、そうか。そうだね。私は……ミネルバ。呼び方はなんでもいいよ』


『ミネルバ……えっ!? あの!?』


 彼女との出会いはそんな感じだった。

 出会った当時からあの人は、物事の深いところを急に突いてくる、そんな不思議な人だった。

 

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