第12話   エリファスの事情

 エリファスは初めて会ったときと同じ赤の布服に、右肩から左腰にかけて丸い鞄をぶら下げている。


 どうやらエリファスは進之介に夜食を持ってきたらしく、その手には何か色々と飲食物が入った籠が持たれていた。


「いや、そろそろ休もうと思っていたところでござる」


 進之介は手の甲で額の汗を拭うと、エリファスは「じゃあ休憩しようよ」と屋上の一角に陣取り、持っていた籠を静かに床に置いた。


 進之介は籠の中からポットとカップを取り出しているエリファスの横に座った。


 エリファスはポットに入ったお茶をカップに注ぐと、進之介に差し出した。


「こんなに練習して明日は大丈夫なの?」


「大丈夫でござるよ。これくらいはいつものことでござる」


 湯気が出ているお茶を受け取った進之介の額にはうっすらと汗が滲んでいたが、このくらいの修練はいつものことであった。


 神威一刀流の門を叩いて13年。


 1日たりとも修練を欠かさなかった進之介である。


 数刻の鍛錬くらいでは音を上げることはなかったが、ただ、若干の緊張感は進之介も感じていた。


 エリファスはカップに入ったお茶を一口飲むと、遠くに見えるアトランティス城を真摯に見つめた。


「あそこに父さんとシンの大切な人がいるんだね」


 進之介はエリファスの横顔から再びアトランティス城へと視線を移した。


 ぼんやりと淡い光を放つアトランティス城はそれ自体が輝いて見えるが、実際は街から放たれている灯火が池の水に反射して光って見えるのである。


 進之介とエリファスはお互い横に並びながら無言で城を眺めていたが、不意に進之介が会話を切り出した。


「エリファス殿」


「ん?」


 エリファスはお茶をすすりながら、進之介に顔を向ける。


「エリファス殿のお父上はどんな方なのでござるか?」


 進之介はふと素朴に思ったことを口にしてみた。


 考えてみれば、進之介はエリファスのことをあまりよく知らなかった。


 進之介自身、今までは知らなくても気にしなかったが、これからは違う。


 まだ知り合って数日しか経っていないが、エリファスとはこれから運命を共にする間柄である。


 エリファスが答えたくなければ深入りはしないが、それでも一度は訊いておきたいことであった。


「私の父さんはね」


 エリファスはカップを隣に置くと、お腹の位置に置いていた丸鞄の中身に手を入れた。


 進之介は何を取り出すのかと見ていると、エリファスは鞄の中から一枚の茶色の包み紙を取り出した。


 進之介はエリファスが取り出したその包み紙に見覚えがあった。


 それは、『カシミヤ』の主人であるバンヘッドに手渡した物と同じ包み紙であった。


 エリファスは包み紙を開けると、中から一枚の紙を取り出した。


「はい」


 エリファスは中から取り出した紙を進之介に差し出した。


 進之介は差し出された紙を手に取ると、受け取った紙の感触に違和感があった。


 薄っぺらい紙を思い浮かべていた進之介だったが、手に感じる厚く堅い感触に想像以上に驚いた。


 しかしそれ以上に、手紙に描かれていた絵に進之介は驚いた。


 四角形の厚紙に描かれていたのは、5人の人間であった。


 一番右側には長身の無精髭を生やした男が笑っており、その左には小柄な男。


 そして中央には仲睦ましく見える男女が描かれており、一番左側には一人だけ丸眼鏡をかけた男が他の四人と少し距離を置いて描かれていた。


 厚紙に描かれて5人は全員が白の羽織らしき衣類を着ており、エリファスが言うには白衣というものらしい。


 進之介が目を丸くさせていると、エリファスがくすりと笑った。


「これはね、絵じゃないんだよ。写真っていう物なんだ」


 進之介は食い入るように写真を眺めた。


 確かにエリファスが言うようにそれは絵ではなかった。


 よく見ると絵にしては人間の細部や背景の描写が巧すぎるのだ。


「これが私の父さんと母さん」


 エリファスは写真の中央に映る男女に指を差した。


 白黒なので髪の色や服の色まではわからなかったが、左頬に縦に走っている傷の男と、男の隣には短めの髪をしている女性が微笑みながら写っていた。


「私の父さんはアテナスでは有名な学者だったんだよ。いつも『俺の研究はいつか世界中の人々を幸せにする』って言うのが口グセで、研究に没頭すると周りが見えなくなっちゃう時もあったけど……それでも私にとっては優しい父さんだった」


 進之介は写真を眺めながらふと思った。


「それが何ゆえお父上はエリファス殿の前から姿を消したのでござるか?」


 進之介の言葉にエリファスはぼそりと呟いた。


「ある日、父さんの元で助手をしていた人が血相を変えて家に来たんだ。そして父さんに言ったんだ……ようやく〈アルス・マグナ〉が見つかったって」


「あるす……まぐな?」


 エリファスは頷いた。


「それを聞いた父さんはまるで人が変わったように研究に没頭し始めたんだ。毎日毎日夜遅くまで研究して……そして、私と母さんの前から姿を消しちゃった」


 エリファスの目元には薄っすらと涙が浮かんでいた。


「エリファス殿……」


「あっ、ごめんね」


 進之介の言葉にハッと気づいたエリファスは目元を手の甲で拭うと、すぐに進之介に笑みを返した。


 進之介はこの時点で話を中断しようと申し出たが、エリファスは「聞いて欲しい」と続きを話してくれた。


「最初は私も何で父さんが家を出て行ったのかは理解できなかった。母さんは覚悟をしていたらしいけど、やっぱり寂しかったんだと思う。時々、父さんの写真を見ながら泣いてたから」


 進之介はカップに入ったお茶を二口ほど飲むと、エリファスにさらに訊いた。


「そのお父上が向かった先がこのアトランティスだったでござるか?」


 エリファスは進之介が手に持っている写真の中の一人に指を差した。エリファスの指先は右から二番目に写っている小柄な男に合わされている。


「この人、誰だかわかる? バンヘッドさんだよ」


「え?」


 進之介はエリファスの指が合わされている小柄の男をじっと注視した。


 エリファスが言うように写真の中のバンヘッドは今よりもずっと若かったが、確かに顔の特徴などに面影が見て取れた。


「ではエリファス殿の父上と一緒に海を渡ったもう一人というのは、バンヘッド殿なのでござるか?」


 エリファスは頷くと、すかさず写真の中に写るもう一人に指を合わせた。


 エリファスの指先は一番左側に写る陰険そうな男に合わされている。


「で、この一番左側に写っている人が父さんの助手をしていたホムンさん」


 エリファスがホムンと言った男を見るなり、進之介は眉をひそめた。


 実際にその人物を見たことがないにもかかわらず、進之介はこの男を危険な男だと判断した。


 写真に写る他の四人は本心で笑っているとすぐにわかったが、このホムンだけは作り笑いすら浮かべてはいなかった。


 それだけならば別に気にはしなかったが、このホムンの眼つきが異常に鋭く不気味に輝いていたのだ。


 まるで蛇が獲物を狙う瞬間の顔つきであった。


 進之介はまじまじと写真を眺めていると、エリファスは進之介の肩を叩いてきた。


「今度は私が訊きたいな。シンの大切な人のこと」


「梓さまのことでござるか?」


 進之介はまさか自分に話を振られるとは思っていなかったらしく、何をどう話せばいいのか一通り悩むと、仕方なく正直に話すことにした。


「梓さまは拙者の剣の師である武峰鬼柳斎先生の一人娘でござる。思えばあまり会話という会話をしたことがなかったでござるが、そのお姿はまさに天上より舞い降りた天女の如き美しさでござった」


 進之介は遠い眼差しで虚空を見上げた。今から1年前に見た梓の姿が浮かんでくる。


「シンはアズサさんと将来を誓いあっていたの?」


「そういうわけではござらん。拙者が神威一刀流の跡継ぎに選ばれた暁に正式に婚姻するはずでござったが、先生から〈神威〉を受け取ったその夜に消えてしまわれた」


 進之介は胡坐をかいている足の上に置いてあった〈神威〉を見つめながら、激しく唇を噛み締めた。


 淡雪のように可憐であった梓のことを思い浮かべると、どうしてもその後に一人の男の姿が浮かんできてしまう。


 時坂神社で出遭った異人の男。


 すべてはあの男が元凶なのだと進之介は思っている。


「でも梓さんはこの国の王様と結婚したんだよね。シンの話を聞く限りではもし梓さんが攫われたとしたら、攫った国の人と結婚するとはとても思えないんだけど……」


 エリファスの言うとおりだった。


 進之介もバンヘッドに話を聞いた時にはとても本人とは信じられなかったが、詳しく話を訊けば訊くほど梓の特徴と合致していた。


 そして梓がこの国の王と婚姻をしたという話を聞いたとき、進之介はすぐに理解できた。


 おそらく梓は囚われたあと、泣く泣く婚姻を押し付けられたのだと。


 進之介の怒りの矛先は時坂神社で出遭った異人の男とこの国の王とやらに向けたかったが、今は梓を無事に取り戻すことが最優先であった。


 急いては事を仕損じるという格言があるように、進之介のやるべきことはいかに敵の本丸から梓を救い出すかであった。


 進之介はまだ中身が入っているカップと写真を床に置くと、〈神威〉を手に取りながらすくっと立ち上がった。


「シン?」


 エリファスは急に立ち上がった進之介を見上げると、進之介は自分を見上げるエリファスに「稽古の続きでござる」と呟き、屋上の中央付近へと歩いていく。


 進之介は腰の革ベルトに〈神威〉を差して固定すると、居合いの構えを取りながら彫刻品のように静止した。


 そして進之介は一気に剣を抜刀すると、先ほどのように相手を仮想しながら技の修練に入っていく。


 抜く手を見せないほど高速に放たれていく進之介の剣技を、エリファスはただじっと見つめていた。


 ゼノポリスの裏通りにある『カシミヤ』の屋上からは、いつまでも剣が虚空を切り裂く風切り音が鳴り響いていた。

 

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