天国と冥界の境目

京弾

新しき探偵の定義

「おいおい。これは一体なんの冗談だ?」私はため息をつくより先に大きな独り言をこぼした。

「おむつだよ。独身のおまえには馴染みがねえか? でもよ、おまえだって二十何年前はズボンの下に穿いてたんだぜ? その頃よりは少しばかり変わっちまったかもしれねえが。あと五十年もすりゃさらに進化したおむつが穿けるだろうよ。まだ生きてたらな」リッキーはさも面白いことを言ったと言わんばかりに大きく口を開け、唾を撒き散らして笑った。

「これがおむつなんてことは見ればわかるさ」私は積み上げられたおむつの段ボールを見ながら言う。「ここは盗品の保管庫だって話だったはずだが?」

「ああ、そうだ。俺は嘘なんかついちゃいないぜ」

「これが盗品だって言うのかい?」

「金や宝石だけが盗まれる時代じゃねえのさ」

「こんなもの盗んでどうするんだ? 観賞用ってわけでもないだろう?」

「そりゃあ、売るのさ」答えたのはテカテカのスーツを着た男だった。リッキーの友人で、名前は……ジョンとでもしておこう。ジョンは他の二人の仲間と談笑しながら、おむつの段ボールをアパートから運び出していく。

「売り物になるのか?」私はラビットフットの煙草を燻らせ、誰にともなく疑問を口にする。答えを求めて投げたボールではなかったが、リッキーはすぐさま投げ返してきた。

「それを欲しい人間がいりゃ、なんでも売れる」

「店で買うのとどう違う? こんな得体の知れない連中から買うより、よっぽど安心じゃあないか?」

「おいおい、ダン。おまえはいつの時代の人間だ? インターネットさえあれば、顔を合わせなくたって商売はできるんだぜ?」

「それはわかるが……」私はそこで、数ヶ月前の新聞の記事を思い出した。「ストライキか」

 リッキーは大袈裟に指を鳴らした。「工場に輸送業。いろんなところでストライキがあった。数ヶ月前に終わって、今じゃ忘れてるやつの方が多いかも知れねえがな、忘れていなかったやつもいる。少なくともこの盗人どもは後者だ。いや、もしかするとストの最中から虎視眈々と狙っていたのかもしれねえ。おむつの生産が止まり、輸送されるのが止まる瞬間をな」リッキーはジャケットの内ポケットから葉巻を取り出し、先を噛みちぎって、マッチの火を近づけた。「まだ店頭にゃおむつが並んでるらしいが、在庫は底をつきかけているそうだ。品切れ寸前。そこで、こいつらの出番よ。どこに行っても買えないものを売るんだ。そりゃあ飛ぶように売れるだろうよ」

「なんでおむつなんだ? 品薄になるのはおむつだけじゃないだろう?」

「なくならねえからさ」ようやく葉巻に火がつき、深い煙を吐き出す。「売ってないなら我慢するってなもんじゃ高値で売れねえだろ? 赤ん坊に老人。人間が生きている限り、おむつは必要だ。正しい選択だと思うぜ」

「美しくない話だ」

「おまえさん、まだこの宇宙が美しいと思っているのか?」リッキーは口の端に葉巻を咥えた。

「ところでリッキー、あんた、いつからそんなもん吸っているんだ?」

「こいつか?」リッキーは葉巻を二本の指でつまみ、私の方へ差し出した。

「近づけないでくれ。ひどい臭いだ」

「馬鹿言うな。こいつは正真正銘、グァーマルガ島原産の上物だぜ?」リッキーは腐ったバナナを燃やしたような煙を吐き出した。

「くっちゃべってないで、あんたたちも運んでくれよ」部屋に戻ってきたジョンがおむつの段ボールを抱えながら言った。

 私は肩をすくめ、床に散乱する発泡酒の空き缶の中に煙草を捨てた。


 リッキーと会ったのは昨日の午後、ウエストヴィクトリア州サン・トゥアンヌだった。私は宇宙航空機免許の更新を終えたばかりだった。

 三ヶ月ぶりに火星に戻ったとき、惑星入国管理局から免許更新の知らせが届いた。個人用一般宇宙航空機(一人〜四人乗り)の免許更新は十年ごとの更新だが、私の乗る機体種"アストロナード"は、個人用宇宙航空機の中のタクティカル・マシン––––つまりは戦闘機に分類されているため、五年ごとの更新が必要とされていた。

 コズミックウオッチに内蔵したパスポート・チップを惑星入国時に使用する個人識別IDから"アストロナード"の情報表示に切り替えた。機体名"狼の心臓"、高速S型アストラナード機、更新期限二一八二年十月末。期限までは一年と四ヶ月あったが、火星本土でしか更新手続きができないことを考えると、済ませておいた方がいい。

 火星圏宇宙ターミナルのゲートで入国申請を済ませると、大気圏を突破し、ウエストヴィクトリア州に向かって飛び、州都サン・トゥアンヌの〈マシン免許更新センター〉へ着陸した。

 惑星入国申請同様、数分で終わるものだと思っていたが、それはゴールド免許に限った話のようだった。私は一年前に火星衛星フォボスで違反切符を切られ、ブロンズ免許にランクが下がっていた。

 ブロンズ免許保有者には、免許講習が義務付けられていた。事前に申請していれば、オンラインでの受講が可能だったが、今更もう遅かった。私は二十世紀の学校のような部屋に押し込められ、一時間の講習を受けさせられる羽目になった。

 私と同時間帯の宇宙航空機個人用戦闘機種免許対象の受講者は百人ほどだった。

 講習はまず、マシンの動力源「アンゴルモア・プラズマ」のエネルギーについてから始まった。

 電力による再生が可能なプラズマ・エネルギー「アンゴルモア・プラズマ」をマシンのコアエンジンとしたものは、「アンゴルモア・キューブ」と呼ばれる。宇宙航空機のみならず、一部船舶や自動車など、多くのマシンの動力源とされている次世代エネルギーだ。機動エネルギーだけでなく、攻撃エネルギーへの転換もできることから電気自動車類の最高位に位置づけられているそうだが、その説明は何度聞いても深く理解することはできなかった。もっとも、それは講習担当者自身も例外ではないように見えたが。

 アンゴルモア・プラズマのチャージは、惑星内や宇宙ターミナルに設置された「補給ステーション」で行うことができる。フルチャージまでの時間は、アンゴルモア・キューブのサイズによって変わり、キューブのサイズは、機体の大きさや性能によって決まる。

 講習担当者は、プラズマカノンや飛行機銃の使用可能条件について熱を入れて説明していたが、熱心に聞いている受講者は見られなかった。

 私もその一人で、気がついたときには「メビウス・システム」の説明に移っていた。

 マシンの機体制御や測位・航行管理、自動操縦などのシステムをパッケージ化したものを「メビウス・システム」と呼ぶ。メビウスには、次世代型AI、ギャラクシー・ナビゲーション––––通称「G-–navi」と、PCなどで使用されている惑星間衛星通信「グレープ・ネットワーク」が搭載されている。離陸後、安定航路に入れば自動操縦に切り替えられ、コックピット・ポッド内のモニターで動画配信サービスを観たり、映像通信やホログラム通信で船外の他者と雑談をしたりすることを可能にした革新技術だ。大抵の個人用宇宙航空機には、簡易冷蔵庫やトイレも完備されていて、これらすべてが惑星間の航海に一役買っていた。

 そういったわかりきった説明を長々と聞かされ、航空領域違反や着陸違反など最も重要な話になったときには、皆睡魔に打ち勝つことしか考えられなくなっていた。

 見事睡魔に打ち勝った我々は、前時代的な方法で名前が呼ばれるのを待ち、窓口でパスポート・チップの情報更新を行った。ウエストヴィクトリアの時間で午前九時頃に入国したはずだったが、免許更新の手続きを終えた頃には、午後三時を過ぎていた。百年前と比べ、文明は著しく進化したが、事務手続きは百年前と何も変わらないようだ。

 私は免許センターの駐機場にマシンを停めたまま、サン・トゥアンヌの街を歩いて回った。この大都会の観光など考えたこともなかったが、三ヶ月も宇宙にいた精神と肉体が、自然と惑星の空気を求めていたのかもしれない。

 ウエストヴィクトリはいつの間にか六月になり、カラッと澄んだ青空が広がっていた。初夏の陽気でじんわりと汗をかき、ジャケットを脱ぎ、シャツの腕をまくった頃、ようやく空腹を思い出した。

 最初に目に留まったグァーマルガ料理店に入り遅い昼食を摂った。

 リッキーと会ったのは、そこだ。彼は私にづくと、許可も求めもせず私の正面に座った。私にはまだ、彼が誰なのかもわかっていなかった。

「久しぶりだな」リッキーは手を上げてウエイターを呼び、赤ワインのカラフェとグラスを二つ頼んだ。一つは自分ので、もう一つは私のだ。私は呑むなんて言っていなかったが。

 私は彼の雑談に適当な相槌を打って付き合いながら、コーヒーを飲み、去ってくれるのを待った。が、彼が去るよりもワインが運ばれてくる方が早く、ワインがグラスに注がれると、彼は料理まで頼み始めた。

 そういったやりとりの間、はち切れそうなシャツのボタンを眺めているうちに、彼のことを思い出した。

「まだ探偵は続けているのか?」リッキーは言った。

「一応ね」

「その割にしばらく姿を見かけなかったな。〈倶楽部〉には顔を出してねえのかい?」

「しばらく火星を離れていたもんでね」

「でかいヤマを追ってたってわけか」

「そんなところだ」

 二十一世紀まで、つまり、人類がまだ地球の資源を貪っていた頃は、探偵には依頼者が必要だった。だが、いまではそれほど重要なものではない。太陽系探偵協会の発行するライセンスを取得すれば、犯罪捜査権を得ることができる。捜査機関と違い、逮捕権と給与はないが、犯罪者を拘束し、捜査機関に連行することはできる。それにより犯罪者が逮捕されれば、探偵には報酬が支払われる。旧時代の賞金稼ぎのようなものだ。今では依頼人から受ける捜査も少なくはないが、多くは賞金稼ぎを主な生き方とする場合が多い。そして、私もリッキーもそういった探偵だった。

〈倶楽部〉というのは、探偵協会が運営する施設で、太陽系で横行する犯罪に対する情報交換を目的として火星中に数軒設立された。が、今では酒と談笑の場としての役割の方が多く、まともに仕事の話をする人間の方が珍しい。それ故、私にとっては縁遠い場所となった。

「ピーナッツバレーのときよりもでかいヤマか?」リッキーはニューカラント州の地名を口にした。以前、私たちが共同で捜査にあたった事件のことを言っているのだろう。

「それほどじゃないさ」

「そうだろうな。あんなヤマ、滅多に出会えるもんじゃねえ。いまも〈倶楽部〉の帰りなんだがな、チンケな事件ばかりしか話題に上がらねえ」

 知っているさ。私は心の中で答えた。本当の情報が欲しければ、信用できる筋に直接問い合わせるのが一番だ。

 リッキーは、話し足りない舌をワインで黙らせた。

「話があるって顔だな」私は居心地の悪い沈黙に耐えかね、余計なことを口走った。彼の話に、爪の甘皮ほどの興味もなかったというのに。

 リッキーは舌の先で唇を舐めると、ゆっくりと口元を緩めた。「実はな……」

 そうして、私は極悪窃盗団がニューカラント州ベルフラワーに潜伏していることを聞き、彼と彼の三人の仲間と共にアジトへ潜入したのだ。それがまさか、おむつ窃盗の転売組織だったなどと、誰が想像できただろう? 

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