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足がもたつく。
体が音楽についていかない。
ところどころ振りが飛ぶ。
「こら、桜井! 何やってんだ!」
コーチから俺ばかりが怒鳴られる。それもしかたがない。ダンスはチームワークがものをいい、一人の出来が悪いと全体に響く。足を引っ張っているのは明らかに俺で、こんな状態が許されないことは自分でも分かっていた。
「お前、ここんとこ弛んでるぞ! 外周五周!」
「はい」
あがった息のまま外履きに履き替えて、体育館から出た。十二月の外気は冷たく、半袖シャツの汗だくな体にこたえる。
外周の歩道を走り出す。五周なんて前の俺ならちょうどいい体慣らしだった。けれどいまは一歩一歩が途方もなく苦しい。
足が思うように前へ出ない。呼吸がうまくできない。走りが遅くて他の部活の邪魔になる。
タ。タタ、タ。タ。タ。タタ、タ…
足がもつれる。自分の呼吸と足音が頭の中でやかましく響き、口が異様に乾いた。
振りを覚えきれないのはダンスへの気持ちがおぼつかないからだ。呼吸も含めて体の動きがままならないのは、日々増えていく喫煙のためか、毎晩のように強要されるセックスのためか、それとも、ろくな食事を摂っていないからか。おそらくはその全部だろう。
「ハ、ハア、ハア、ハ、ハア…」
五周はキツかった。痛くなった脇腹を押さえながら途中から歩いてしまう。足りない空気を求めるように、ごくりと息を飲みこんだ。渇いた喉が鋭く痛む。
「ハア…――ハ…」
ようやく戻ってきて外の水道水で喉を潤した。枠に手をついて、呼吸が整うまで待つ。
蛇口だの、排水溝だの、雑草の枯れた土だの、視界のすべてが鬱陶しくて目を閉じた。体育館から聞こえてくるのは学期末の校内発表会で踊る曲だ。仲間は必死で練習している。
翻って、自分を現状を考える。俺はいったい何をやっているんだろう。みんなは真剣に練習しているのに、振り一つまともにできないで。
やっと呼吸が落ち着いてきた頃、そばに人が立っているのに気づいた。一人でいたかったから放っておいたが、いつまでも立ち去る気配がないから仕方なく確認する。厳しいまなざしをした庄田だった。
「なんか、用か」
「ちょっと、いいスか」
「何」
腕を掴まれて、ぴくっと跳ねあがる。高倉に抱かれて以来、誰かに触れられると大袈裟なほど拒絶反応が出るようになった。
近くの大木の裏に押しつけられた。前に立って逃げ道を遮断され、その巨体にたじろく。一方で庄田はどこまでも峻厳とした態度だ。こんなときに好きだのなんだのは勘弁願いたい。いま、俺はそれどころじゃない。
「後輩が先輩にすることか」
憎まれ口も聞こえないようだ。突然、庄田の両手が俺の頭を包んだ。
「何、すんだよ!」
髪に顔を埋められ、思いがけないことに気が動転する。顔を離した庄田は真剣な表情だった。
「臭うんス、先輩」
なんのことかと顔をしかめた。庄田が小さく溜め息をつく。
「タバコの臭い。髪に染みついてる。きっと気づいてるのは俺だけじゃない。いくら、うちの高校がゆるいからって、タバコはまずいスよ。法律で決められているんだから」
ショックだった。毎朝気をつけてシャンプーしているのに、落ちきれていないのだ。
「あと、これも噂になってます」
俺の左腕を掴んで手首の包帯に手を掛ける。
「もう一ヶ月もしてますね。なんの怪我スか?」
「触んな!」
その手を払おうとしても、強い力と固い意志のもとにかなわず、包帯がほどかれてゆく。
「離せってばっ!」
暴れても無駄だった。まもなく数本の傷痕が空気にさらされる。
「やっぱり…!」
庄田の視線が鋭くなる。
「なんですか、これ」
俺の目の位置まで傷痕をあげて、わざとらしく問う。
「なんでもいいだろ」
悔しくて目を逸らした。
「何があったんですか。先輩…」
いったんほどいた包帯を庄田は丁寧に巻き直す。無骨な見た目にはそぐわない器用な手つきだった。
「もしかして、富谷のせいとか?」
「違う」
「でも別れたんスよね。最近、全然一緒にいないじゃないですか」
「お前には関係ないんだよ」
関係なさすぎる。こういうことをすること自体、俺にとってお節介以外のなにものでもなかった。
「ほっとけ、庄田。こういうの、迷惑なんだよ」
「ダンスだってめちゃめちゃですよ、いまの先輩」
カッとなった。後輩に即答でそんなことを言われるほど格好のつかないことはない。
庄田が包帯をとめる。もうそれ以上何かを言う気もないようで、踵を返して体育館へ戻っていく。すっかり呆れ果てたのだろう。
その背中を見てぼんやりと思った。
(ダンス、やめようかな…)
すぐに固い意志へと変わる。
もう何もかもがどうでもいい。
何もかもがつらい。
毎晩のように高倉の言いなりになって苛酷に強姦され、勉強も部活もままならない。何が楽しくてこんな日々を続けなくてはならないのか。
…本当に、つらいから。こんな人生、本気で終止符を打ったっていいだろう――?
翌日、庄田に呼び出された。昼休みに入ったばかりだった。
ノートや教科書を鞄に片付けている最中に名前を呼ばれ、振り向けば教室の後方ドアに庄田がのそりと立っている。相変わらず気難しげな顔で愛想がない。
「すんません。ちょっと話があるんで、抜けられますか」
こそこそと言い出すから、前もって念を押した。
「言っとくけど、昨日のことだったらお前には関係ないからな」
「分かってます。そうじゃなくて、別件で」
「じゃあなんの用か先に言え」
「それが、ここじゃちょっと言いにくいんです」
正直、うんざりした。こいつはなんか、いろいろと重い。何かとウザい。
鬱陶しいと思ったが、どうせ昼食は抜くつもりだったから時間はあった。出入りの邪魔になる教室のドアでしつこく粘られて根負けし、ついていくことにした。
自転車置き場に連れていかれた。木々が鬱蒼としていて、この時間はまったくひとけがない。
「待っていてください。すぐに来るはずなんで」
「…来る? 誰が?」
訊ね終わるか終わらないうちだった。建物の角から睦が現われた。
びっくりした。睦も俺を見て戸惑った顔をする。それでもすぐに視線は外された。
「なんの用だ」
不機嫌そうに問う。庄田が睦を呼んだのか。どうして。
ふと、昨日のことが思い出される。とんでもなく余計なことをされそうな予感がして逃げたくなった。
「来てくださってありがとうございます。来てもらえないのが一番困ると思っていたので」
「前置きはいい。用件はなんだよ」
制服の前を開けている睦はスレた感じがする。その胸元に俺はこそっと視線を這わせた。途端、真美の言葉が耳に蘇る。
『物欲しそうに見るんでしょ』
ああ。そうだ。相変わらず気持ち悪い奴だ、俺は。
「こっちに来てください」
庄田に言われ、「めんどくせーな」と睦が舌打ちする。
傍まで来ても、睦は俺を見ようともしない。まるで俺などここに存在していないように無視し続ける。
なぜ見てくれないんだろう。なぜ、ここまで嫌うのか。嫌われて別れたはずではなかったのに。吹きすさぶ木枯らしに吹かれ、寂しい心がますます冷えた。
「要件を言え」
「ちょっと、こいつの頭を嗅いで欲しくて」
突然、俺の頭を庄田のでかい掌が包み込む。
先輩を「こいつ」呼ばわりしたことなんかは、この際どうでもいい。話の方向がまずかった。やっぱり昨日のことを持ち出す気なのだ。
「やめろ、庄田!」
唸りながら体を押したり引いたりして、庄田から逃げようとした。
じたばたと暴れる俺を巨体の庄田は子供のようにあしらって睦へと突き出す。睦はじっとして動かない。何事かと怪しんでいるのだろう。
「なんのことか、ちゃんと説明しろ」
落ち着いた声が流れる。こんなときなのに、懐かしい響きに胸の奥がじんとした。俺の睦への恋しさは、少しも変わっていない。
「嗅がないんですか? 嗅がなくていいんですかね? それとも、嗅ぐのが怖いんですか?」
挑発的な言い方にひやりとする。案の定、苛立った睦の声が続いた。
「ぐだぐだ言ってないで、どういうことか説明しろよ」
「なら、俺が代わりに」
庄田が頭に顔を押しつけてくる。何を勘違いしたのか、睦が低く喉を鳴らす。
「そういう熱いトコを見せたいなら、俺は帰る。見る義理もないしな」
「待てよ。そうやって逃げるなよ。あのさ、こいつの頭、臭いんですよ」
踵を返していた睦が振り返った。
「臭い?」
「タバコの臭いで」
余計なことを暴露するなと、俺の体が怒りで震えた。
「そうか。でも俺には関係ない」
「関係ない? よくも、ぬけぬけと」
「は?」
睦が笑う。いまにも喧嘩になりそうだった。
「やめろ、庄田! もう、やめてくれ…!」
これ以上は睦の迷惑になるだけだ。頭から手が離れたと思ったら、今度は腕を掴まれる。いよいよ体が縮みあがった。タバコの匂いのことで気が動転し、すっかり忘れていた。
(嫌だ。これを睦に見られるのだけは、絶対に嫌だ…!)
思いきり駆け出そうとした。走ってこの場から逃げだしたかった。なのに庄田の強い力で引き止められてしまう。
「これを見ても、あんた、そんなふうに平然としていられるのかッ」
袖を引きまくる。
「や――――! 庄田、やめろ――――!」
泣きそうになりながら懸命に抵抗した。
けれど昨日と同じように、いくらもがいても庄田の手から逃げられない。包帯はするするとほどかれ、生々しい傷跡が現われた。神経が焦げつきそうになって庄田の肩に顔を埋めた。睦の顔を見られない。
「これでも、関係ないって言うのかよッ」
庄田が怒鳴る。長い沈黙が流れた。
睦に見られるなんて。
体がぶるぶると震えてくる。きっと睦は俺の馬鹿さ加減に呆れるに違いない。
リストカットなんて罰当たりな人間しかやらない。みんなそう思ってる。
馬鹿な奴。恥ずかしい奴。かっこ悪い奴。
だからもう、死んでしまいたい。
「違うんだ、庄田。これは、睦のせいなんかじゃないんだ――――!」
庄田の胸にもたれて泣いた。
いつか感じた運命の歯車が、何かの拍子に俺を不幸な方向に回し始めた、ただ、それだけ。
だからこそ俺はこのつまらない「生」というものに――――運命の歯車なんかに振り回されて、自傷行為にしか救いを求められないような己の人生に、そろそろ別れを告げようと真剣に、狂いそうになりながら考えているのだから。
だから放っておいて欲しかった。それでも庄田の体はとてもあたたかくて、制服は額に心地よくて、めちゃくちゃに苦悩する俺の心を少しだけ和らげる。
初冬の風が肌から容赦なく熱を奪っていく。……寒い。早く傷を隠してくれ、庄田。
「庄田。やっぱり俺には関係ない」
答える睦の声は、この風のように冷たかった。
「タバコを吸おうが、肌を傷つけようが、桜井の勝手だ。俺には関係ない。…なあ、庄田。桜井を俺に押し付けるな。俺たちは終わったんだよ。お前はそいつが好きなんだろ? だったら俺なんか巻き込まないで、自分でなんとかしろよ。さっさと自分のものにしちまえ。桜井とセックスしてみろ。普段の顔からは想像できないほど、ものすごい乱れ方をするぜ」
睦のものとは思えない容赦のない言葉が、俺の心を芯から凍てつかせる。
「てめえ、よく、そんなことを…!」
俺を離した庄田が低く唸る。
庄田が睦へと躍りかかった。
あまりの早さに対応しきれなかった睦の顔を、一発、二発と殴る。睦は自転車を将棋倒しにして倒れこんだ。
「睦!」
「クッソ…!」
鼻と口から血を流した睦が、呻きながら立ちあがる。
二人は激しく取っ組みあって自転車の列に傾れ込みながら殴りあった。重い打撲音と、ガチャガチャと自転車が鳴る音があたりに響いた。俺は震えあがり、情けないほど身動き一つできなかった。
やがて教師が来た。五人がかりで二人を止めても、睦と庄田はまだ肩をいからせて睨みあっていた。
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