私は年老いた白い犬と霊園を歩いた

馬村 ありん

私は年老いた白い犬と霊園を歩いた

 自転車のペダルをこぐ足を止めたのは、前輪のライトが暗闇にうごめく白い生き物の姿をとらえたからだ。

 犬だ。私は思った。大型と呼ぶには小さく、中型と呼ぶには大きかった。頭のてっぺんから尻尾の先まで白い被毛に包まれており、街灯の青白い光をはね返していた。赤く太い首輪。下半身には犬用のおむつを履いていた。


「キミ、どこに行くんだい?」

 迷い犬に違いない。

 首輪をつけているということは飼い犬であるし、おむつを履いているということはなんらかのケアを受けているということだ。つまり、心配している人がいるということなのだ。

「どこかから逃げ出してきたのかい?」

 背後から話しかける私に一瞥いちべつくれると、犬は首を前に戻して、てくてくと歩きだした。

 犬の歩みには確固たる意思が感じられた。迷っているわけではなく、確実に目的地を見据えて歩いているようなのだ。


「お家に帰らなくていいの?」

 自転車を引きながら、私はその後ろ姿を追いかけた。自転車カゴの銭湯用具一式がカタカタ揺れた。

 犬がこちらを歓迎している様子は一ミリもなかった。

 ――余計なお世話は焼かなくていいよ。

 背中でそう語られているような気がした。


 家庭で犬を飼っていたことがあった。

 それほど昔の話じゃない。私が小学生の頃なので、いまから十年ほど前のことだった。父が友人からもらってきたというダックスフントを抱えて帰ってきた。私と妹の面倒に加え犬の世話まですることになった母の苦労などいざ知らず、私は大喜びで犬を迎えた。

 黒い色のオスで、名前をミントにした。私が名付けた。

 六歳の時にミントは亡くなってしまった。お客さんが玄関のドアを開けた瞬間に家を飛び出してしまったのだ。その直後ミントは走ってきた自動車にひかれてしまった。即死だった。

 一家が悲しみに包まれた。『お前がちゃんと世話をしていないから悪いんだ』。お父さんがお母さんに放った一言はそのまま私にはね返ってきた。ミントの暮らす居間と玄関との境になっているドアを開けっ放しにしていたのは私だったからだ。


 犬の背中を追いかけて、裏路地を進んだ。車両が二台も並べないほど道幅の狭い道路で、住宅や個人病院が並んでいた。この白い犬はもしかしたら、この通りに住む誰かが飼っているのかもしれない。

 明るい夜だった。

 夜空は黒色ブラックというよりも藍色インディゴで、星はいつもより近くに感じられた。犬は北極星を目指して歩いているように見えた。大きなイチョウの木の前で犬は止まった。イチョウの青い葉の間からは北斗七星がのぞいていた。

 犬は地面をクンクン嗅ぐと、前足を左に向けた。左側は霊園になっていた。近くのお寺に隣接する墓地で、小さいが歴史は古く、江戸時代からこの場所にあるらしい。

「こんなところ入っていったらダメだよ」

 私のいうことなどもちろん犬は聞かない。

 自転車を停め、私は犬について歩いた。


 星々の明るさもあってか、墓地には夜闇の恐ろしさといったものがなく、穏やかに感じられた。葉叢はむらのこすれる音が聞こえる。どこかから南国を思わせる花の匂いが漂ってくる。

 卒塔婆そとばと墓石のそびえる墓地の隘路あいろをぬうように私は歩いた。地面は舗装などされていないから、サンダルが踏みしめる度に土埃が舞った。家に着いたときには足の裏は土まみれになっているだろうな。せっかくお風呂に入ってきたのに。

 柳と沙羅さらの木の間にある墓石の前で、白い犬はくるくる円を描くようにまわった。それからおむつに包まれた腰をおろして、あくびをひとつした。

「お墓の人に怒られるよ?」

 私は言った。

 墓には「××家代々乃墓」とあった。

 ショルダーバッグからスマートフォンを取り出し、私は地元警察署に電話した。迷い犬がいる。××寺の墓地です。警察は間もなく駆けつけるといい電話を切った。

 警察が来るまでの間、犬の隣でジーンズの足を折り曲げて座った。

 うるんだ両目で犬は私を見上げてきた。

「まもなく警察が来てくれるからね。それからお家の人に会えると思うよ」私は言った。

 

 犬のまなざしはなおも私に向けられていた。

 何かを訴えているようだった。

 さわってもいいのかな? 犬の優しげなまなざしに、何か許しのようなものを得たような気分になり、私は犬の平たい頭をなでた。ふわふわの毛並みという分には年老いていたけれど、柔らかい毛並みであることには間違いなかった。

「ねえ、君もしかしてミントの生まれ変わりだったりしない?」

 私はたずねた。

 だけど、そうじゃないことは分かっていた。

 この白い犬はどうみても十歳を超えている。それにおとなしいこの子と比べて、ミントはどっちかというとやんちゃな性格で、一秒だってじっとしていられない性質だった。


「ねえ、聞いて。私ってひどい飼い主なんだ。かわいいワンちゃんを死なせちゃったんだよ」

 犬はものも言わず私を見返していた。

 ダックスフントという犬種は長生きだから、ミントは本当ならまだ生きていられたはずだったんだ。

 家の中で飼っているなら、外に出ないように居間と玄関の敷居に鍵でもかけておくべきだったのだ。

「私は犬を飼う資格のない飼い主。本当は君をなでるなんてこともしちゃいけない人なんだよ」

 犬をなでる手のひらが動きを止めた。犬をなでていることが唐突に怖くなったのだ。

 すると、犬は自らの頭を私の手にこすりつけるような仕草をした。

「ありがとうね、ワンちゃん」

 犬は小さく舌を出して、私の震える手を舐めた。温かかった。


 間もなくしてパトカーがやってきた。二人の警官が車を降りた。彼らは私に質問を――たくさんの質問をして、それから二人で白い犬を抱きしめてパトカーまで連れて行った。

「お前、年寄りのわりには重い体しているな」

 警官のひとりはそう口にした。

 抵抗した様子もなく、犬はパトカーに積まれたケージの中に収まり、そこから私を見つめていた。

「またね、ワンちゃん」

 私は手を振った。


 後日、地域の警察を訪れた。

 当直の警官はちょうどあの時来てくれた人だったので、その後犬がどうなったのかを教えてくれた。

 あれからすぐに犬は近所に住む六十代の飼い主の男性のもとに届けられた。

 飼い主およびその家族からは大変感謝をされたという。大切に育てられている犬だったのだ。

 その後まもなく犬は息を引き取ったということだった。

 十七年の歳月を生きたという。この種類の犬としては大往生と言ってよかった。

「賢い犬は飼い主に死に様を見せないというでしょ。だから亡くなる前に飼い主のもとを飛び出したんじゃないのかな」

 警官は言った。

 

「びっくりする話があるんだ」

 犬がおもむいた場所を聞いて、飼い主たちはたいそう驚いたのだという。

 あそこは、前の飼い主――現在の飼い主の兄にあたる人物――の墓前だったのだ。

 現在の飼い主はあの墓地まで一度もあの犬を連れて行ったことがなかった。

 犬は何か人間の想像を超えた力のようなもので、あの場所へとたどり着いたのだ。

「不思議なこともあるもんだね」

 警官は言った。


 私はその夜ミントの夢を見た。

 ミントは私の横たわるベッドに飛び込んできて、私の周りを駆けまわり、ワンワンワン、高らかに声をあげた。その声は歓喜にみちあふれていた。

 目が覚めると、部屋はシンとしていた。

 不思議と悲しくなかった。

 ミントの好奇心いっぱいのまなざしと、生きることが楽しくてしかたないといった息切れの音がいつまでも耳の中で鳴りひびいていた。

 


 終わり

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