10 破局

 早苗はその後の授業をすべて欠席して自分のマンションに戻った。千葉はベッドルームで集中して小説を書いているらしく、早すぎる早苗の帰宅には気づいていなさそうだった。


 早苗はまっすぐ風呂場に入ってすりガラスのドアに内側から鍵を閉めると、ノートパソコンを開いた。二人で暮らす小ぢんまりとしたマンションでは、一人きりになれるスペースがあまりにも少ない。そこで、個人的な用事をする場合に二人は、風呂場に入ることでプライベート空間を確保していた。


 読みかけの紙の本や、観葉植物の鉢、アロマキャンドルなどが置かれ、全体的に物が多い空間だが、空の浴槽の中に座り込むと落ち着けた。


 早苗はインターンから帰ってきてから毎日のように見ているソフトを起動した。萩の家でダウンロードしてきた、小説家のスマートシステムのソフトだ。ロボット介入度のパラメータをいじると、評価基準が変わる。評価基準の中の一つの項目が早苗にとって衝撃的なものだった。一日中その項目のことで思考が占められ、頭の中でぐるぐると暴れていた。


 それは、『知名度』という項目だった。小説家がなんらかの作品を創ったときに評価されることのひとつである。これは、その他の項目と同じように、ロボット介入度によって評価されやすさが変わってくるものだった。ロボット介入度を上げれば上げるほど、少しの努力でたくさんの評価が得られる。つまり、ロボットに仕事をさせて、ある意味手を抜いて作った作品ほど、知名度が大幅に得られるシステムということになる。


 いったいどういうことなのか。駄作ほど有名になるという理屈は到底素直に受け入れられることではなかった。システムが働く人々に与える評価はあくまで、このシステム上での評価なはずだ。システム独自の計算方法で、タスクの終了具合などから100点中80点の働きぶりだと判断したら、80点分の評価を下す、システム内で完結した評価だと思っていた。しかし、『知名度』はシステム内で判断できるのだろうか?多くの読者、たくさんの人間が関わらないと評価できない項目に思えてしかたがない。この国のすべての人間にアンケートを取ってその作品を知っているかどうか調べなければ、その作家の正しい知名度などわからない。システム内で計算するだけではわからない。ちゃんと評価ができるはずがないのだ。


 早苗は文芸雑誌のサブスクリプションページを起動した。オンライン上で定期的に発行される、小説雑誌だ。この雑誌には千葉が作品を連載している。オンライン上で読者の数が記録されていて誰でも見ることができ、レビューや感想を書くこともできる。会員制の小説投稿サイトのような形式であった。


 千葉の作品は10作品ほどあり、読者の閲覧数はどれも安定しており、界隈では知名度のある有名な小説家を名乗っても許されるほどのファンがついていた。感想欄を見ると、多少は批判的なコメントも見受けられるものの、内容を絶賛するものや、自らの考察を述べて、読者同士で議論を行っているコメントも見つけることができた。


 早苗は学生で働いていないため、今二人が同棲している部屋の家賃は千葉が支払っており、小さいながらも二人の人間が不自由なく暮らせる家を契約で来ているところから察するにも、千葉は小説家として十分に評価されていると言っていいだろう。


「一体誰が、千葉の作品を評価しているんだ……?」


 スマートシステムは、人々に働く喜びを与える仕組み。小説家にとっての喜びの一つが『知名度』なのだとこのシステムが定義していて、それを小説家に与えている。


 嫌な仮説が頭をよぎり、早苗は頭を振った。背筋がぞわりとした。思いついてしまった自分が恐ろしくなり、指先が震えだす。


 パソコンを操作し、感想欄をスクロールする。ずらりと並ぶアイコン、アルファベットを無作為に並べたユーザ名、文字、文字、文字。頭がくらくらする。


 そうだ、画面の向こう側にいるのが血の通った人間だとどうして自信を持って言えるだろうか。スマートシステムがあるなら、スマートシステムが働く喜びを与えるシステムなら、画面の向こうにはきっと誰もいない。顔のない文字が、プログラムによって生成され、僕らを喜ばせているだけだ。


 それ以上画面を見ていられなくなって早苗はパソコンを壁に投げつけた。大して丈夫ではない薄型のノートパソコンは、壁に当たると、軽い音を立てて、大小さまざまなサイズのアロマキャンドルを巻き込みながら床に落ちた。画面の端から蜘蛛の巣が広がるかのように白いヒビが入っている。キャンドルのいくつかは割れた。淡々と並ぶ活字が、顔の見えない感想が、ただただ気味が悪かった。全身は粟立ち、冷や汗が流れる。浴槽から立ち上がろうとすると、激しいめまいで足元がふらつき、早苗は浴室の床に倒れ込む。観葉植物の植木鉢が倒れ、けたたましい音が鳴り響いた。


「仁?どうしたの?何してるの?」


 浴室のドアが叩かれる。千葉が音に気付いて駆けつけてきたのだろう。


「ああ、……心配ないよ。ちょっと転んだだけだ」


 早苗は目を強く瞑り、めまいをどこかに追いやろうとしながら、食いしばった歯の隙間から絞り出した。


「今日は授業がなかったの?こんな早くに帰って来るなんて知らなかった。それとも具合でも悪いの?」


「本当に大したことない。ちょっとしたら出るから」


 浴室の床のひんやりした冷たさが背中から伝わって来る。冷や汗はまだひどかったが、めまいは少し収まったので、少しだけ瞼を開けると、すりガラス越しに千葉らしき姿が見えた。


「君はさっきまで小説を書いていたの?」


「え……まあ、そうだけど」


 まだ心配そうな色の残る声で千葉は言った。物音がして飛んできて、鍵のかかったドア越しに恋人を心配しているときに唐突な話題変換をされて戸惑っていた。


「君はさ、前に、美しい物語を創るためならば嘘が入っていてもいい、むしろ嘘と脚色にまみれた創作の方が好ましいという話をしていたよね」


「そうだね。それより大丈夫?頭とか打ってない?」


 ドアががちゃがちゃと動く音がする。千葉が外から開けようと押したり引いたりしているのだ。


「あの時は言わなかったけど、実は僕はそうは思わないんだ。嘘を許しておくことがどうしても耐えられない。この世に嘘なんか一つもあってほしくない。僕は真実が知りたい。嘘を嘘のまま愛していられないんだ」


 ドアの音が止む。当然鍵がかかっているのでドアを外から開けることはできない。


「本当は嘘を愛したまま、信じたいものを信じているだけで生きていきたい。でも無理だ。なあ花月、小説家の書く小説に、読者なんかいなかったんだ。全部プログラムが作り出したただの文字だ。小説家を喜ばせるためにコンピュータが生み出した、偽物の読者だったんだよ」


 少し乾いた小さな笑い声がした。喉が鳴るような、無理にひねり出したか細い笑いだった。


「OK、今そういう小説を書いてるのね」


「違う。僕は少し前にインターンに行っただろ。その時に、この国の、働く人々を評価し、給与を与えるスマートシステムを見たんだ。君を含め小説家は皆、誰もいない虚空に誰も読まない文字の羅列を作って、その作業時間に応じてロボットから褒めてもらっていただけだ」


「スマートシステムは聞いたことがある。そういうとらえ方をする人がいてもいいと思う。でも、小説を書く人のことをそんな風に言わないで」


「とらえ方?僕の言ってることは真実なんだよ?政府とこのシステムがそうしたんだ!」


「もうやめて!」


「目を覚ませよ!創作家の活動は、血の通った同じ人間に評価されることはなかったんだ。君はロボットに生活を支配されている」


「それ以上小説家の仕事を無意味と言ったら別れましょう」


 千葉の声は震えていたが、迫力がこもっていた。


「私は、証拠とか、真実とか、正直そんなものはどうでもいいの。仁の言ったことはもしかしたら真実かもしれないけれど、嘘かもしれないと思うこともできるでしょ。それは個人の自由なはず。だったら私は、自分の仕事に誇りを持ちたいし、たくさんの人に評価されているんだと思いたいし、自分の作品に自信を持つことで幸せになりたいの。それが嘘かどうかなんて、そういう話はしていないの。ねえ、どうして物事を最良のとらえ方で見ることができないの?自分の人生を形作り、記憶に遺すのはすべて主観なんだよ?私の頭の中では、私のとらえる世界の全部は私の主観によって作られているの。世界の全員が塩を辛いと言っても私が甘いと思ったら、私の人生の記録には、塩をなめて甘かったという幸せが遺るの。真実なんて、さほど問題じゃないでしょう?」


「でも僕はどうでもいいとは思えないんだよ。偽物の幸福じゃ耐えられない」


「どういうこだわりなの?意味がわからない。幸せになりたくないの?」


 千葉の声は泣いていた。どうか肯定してほしい、とでも言うかのような媚が混じっていた。


「僕には無理だ」


 千葉のすすり泣く音がする。


「僕たち、別れた方がいいのかもしれない」


「そうだね」


 千葉は泣きながら、でもあっさりと言った。


「小説家という仕事に意味がないと知ったあなたに、小説家の私はもう必要ない。あなたは最初から、小説家というものを単なる文章を書く職業だと思っていたよね。小説を書くという行為が、自分の欠片を後世に遺すための本能的にやりたい行為、その行為そのものに幸せを感じられるんだと思っていたのは、どうやら私だけだったみたい。あなたは本質的にはそう思っていなかった。だから小説家の仕事の価値について幻滅したから、まるごと小説という芸術表現の価値にも幻滅した。あなたは小説の価値を知らない。あなたが真実にこだわるようだから言っておくけど、私はそのことをずっとわかってた。だってあなたは、私の小説を一度も読んだことがないものね」


 すりガラスの向こうで千葉のシルエットが立ち上がる。


「あなたの信念についてはある一定の尊重はするけど、あなたが私の信念を尊重してくれたなら、それを嘘と気づいても、そのまま言わないでいて欲しかったかな。この世界が私を騙すなら騙し通していて欲しかった。仁は小説家に向いてないよ。だって小説家は、嘘を売っているんだから」


 千葉はドアの前から消えた。自分が嘘を愛せたならこんなに苦しまなくて済んだのに、と早苗は思った。


 遠ざかる足音に、どうかガラスを突き破って、涙で醜悪なその顔で中指を立てていってくれたらどんなによかっただろう、とありもしない想像をした。

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