─11─ ライあーズ
結論から言えば、ナースステーションにわたしたちの考えていたようなものは無かった。
もぬけの殻。なんにも無い、ただのデスクと椅子の繰り返しを見て愕然とする。そりゃあそうもなるか……診察室のあの徹底ぶりから察するべきだった。この病院にはもう、ろくな情報は残されていない。
何かが起きたのは間違いない。そこに『芥川龍之介』という吸血鬼が関わっていたことも。けれど病院は意図的にそれに関わる証拠を消し去っている。芥川龍之介の言葉があちこちに書かれて残っていたのは、あれを読める病院の関係者は一人もいなかったから。───そう考えるのが妥当だろう。
病院のお医者さんや看護師さんって、皆頭が良くて外国の言葉もなんでも知っているんだと思ってた。そうじゃなかったんだな……。だって、あんな恐ろしい言葉を患者さんたちが揃って持ち物に書き始めたりしたら、それこそ『精神病院』の意味が無いでしょ? お医者さんたちがもしあの言葉を理解できていたなら、必死になって全部没収して、隠し通したはずなんだ。
「ネモはどうしてあの文字を読めたの?」
「え……?」
「あの文字、どこの国で使われている文字なの? わたし、冒険者になる前は宿のウェイトレスをしてたの。親父さんに頼まれて買い出しに行くこともしょっちゅうで、ザッフィラとルベアンダの簡単な文字くらいは分かるんだ。でもあれは、ちっとも見たことが無かった」
「うんと……、古典、みたいな? 昔の言葉的な感じだよ〜!」
「そっか。ネモはそういうのも興味あるんだね」
「へへ、意外っしょ〜。これでもインテリ系美少女目指してまっす!」
久しぶりに見たキラキラのウインク。ちょっと安心すると同時に、わたしの心にもう一つの疑念が浮かび上がってきた。
ネモは『キャラクター』だ。
ヨウ───いや、太宰治という人によって
───でも。
「……じゃあ、どうしてあの言葉が芥川龍之介の『歯車』の文章だってわかったの?」
「へっ…………」
「ネモ、言ったよね? あれは芥川龍之介が最期に残した、未完成の『歯車』の一文。『歯車』はあの文章から先が無い。何故なら芥川龍之介はその後死んだ……吸血鬼になって行方を眩ませてしまったから。そのことを全部知っているあなたは、本当に太宰治の生み出したキャラクターなの?」
ライターズの手で生まれたキャラクター。
つまるところ『キャラクター』という存在は、わたしたちライターズから一つ次元を落とした存在だということになる。そしてライターズの作る物語を娯楽として消費する『リッターズ』は、わたしたちより更に一つ上の次元……。
わたしたちの『ロール』には初めから、目には見えない形でそういった階層がある。
たった今気付いたわけじゃない。これまで見てきたもの、出会った人、聞いたことを踏まえてようやく辿り着いた『可能性』だ。
とするなら……ネモが芥川龍之介の『作品』を知っているのはおかしい。あの文章を、本人から直に『名文詠唱』という形で聞いたことが無いのなら、キャラクターであるはずのネモにそれを知ることはできない───。
「わたしを、疑うの……?」
「そうじゃない!」
ネモが退く。わたしが一歩前に出ると、彼女は「ひっ!」とまた後退した。じり、じり。さっきまでの笑顔が嘘のように、彼女はいやいやと首を横に振りながら、怯えた瞳でわたしを見つめてくる。
言い方を間違えたかな。わたしはネモを『悪い』とは思っていないのに、彼女にはわたしの複雑な思考回路すべてを通り越して、「自分は疑われている」「自分は責められている」というマイナスな結果だけが届いてしまっているように感じる。
そして、もう一つ気にかかることは───あの見たことも無い文字。あれがこの世界の文字ではないとしたら?
そう、例えば、いくつもある
……詳しいことは知る由もないけれど、わたしたちライターズと六天遺跡───世界同士を繋ぐ楔のようなものには、なにか重大な関係がある。あの遺跡の向こうに繋がっている
なら───おかしいのは、
「聞いて、ネモ! あなたはもしかして『ライターズ』なんじゃない? あの文字はきっと……多分……
「いやッ! 許して!!」
「ネモ!」
ドンッ───と、ネモがわたしを強く突き飛ばした。それどころか、気が動転した彼女は見るからに重たいデスクや椅子を、次々と片手で薙ぎ倒しながら走り去っていく。
「待って、ネモ!」
「ごめんなさいごめんなさいッ! もう許してッ! ごめんなさい! もうしない! もうしないからぁッ!」
「ネモ!!」
あの細い腕のどこにこんな力があるっていうの……?!
ひっくり返されたデスクも、空っぽの棚も、全部がわたしの道を塞ぐように倒れてゆく。下手なドミノ倒しみたいだ。それは到底崩せようもないバリケードとなって、とうとうわたしの前を完璧に封鎖してしまった。
ネモの姿は見えない。もう足音も聞こえなくなった。
……どこまで走っていってしまったんだろう。それに、繰り返していた「許して」「ごめんなさい」という言葉。
─── 「ありがとっ。ライターズじゃないなんてはぐらかさないでいてくれて」
「…………ライターズって、人から言われたり自分から言ったりするの、そんなに嫌なことだったのかな」
置いていかれたわたしはバリケードの中で、首から下げた懐中時計を引っ張り出した。集合時間までまだ余裕はあるけど、一個一個デスクを崩している暇は無さそうだ。
……『作品』の力を使おう。少し疲れるけど、あれを使えばわたしの力でもバリケードを一瞬で壊せるはず。
「───向き合う必要が、」
詠唱を始めようとした、その瞬間。
「……?」
違和感を覚えて、声を詰まらせる。
初めは目の錯覚かと思ったんだ。この病院は一面真っ白で、それはもう気分が悪くなるくらいには同じ色ばかり目に飛び込んでくるから、ほんの些細な影の動きですら視界が歪んだように思えるのかって。
でも、違う。
ぐんにゃり、ぐんにゃり───わたしの立っている足元が変に波打っている。
「え……?!」
わたしの体は無意識にバランスを取ろうと足を広げた。けれどわたしの体が揺れているわけじゃない。そもそも床だって、波打ってなんかいない。ただそう見えるだけだ。
おかしなことに、この病院の風景が全部、そうしてグニャグニャと歪んで溶け始めていくのだった。
◇
「俺たち……浴場の扉を開けたはず、だよな?」
「……ああ」
ヨウの問いに、おれは小さく頷いた。
白い廊下の先、おれたちは確かに『大浴場』の案内を見て扉を開けたのだ。中身の無い棚と、数枚の姿見があるだけの簡素な脱衣所を通過して、いよいよこの先が風呂場なのだろうと足を踏み入れた時───二人同時にひどい頭痛と、床が回転しているかのような目眩を感じた。
酸性雨を浴びたフレスコ画が、時間をかけて歪んでいくように。目玉焼きの黄身をナイフで突き破り、白身に侵蝕する黄金色を眺めるばかりでいるかのように。
おれたちが妙な気配から立ち直ったその時には既に───これまで見ていた景色は綺麗さっぱり無くなっていた。
想定していた風呂場どころか、飽きるほど見ていた白い壁も、白い床も、まるきり違う。木造の、どこにでもあるような普通の建物。低い天井には蜘蛛の巣が張って、決して広いとは言い難い室内に、ベッドが四つ並んでいる。黴臭く、ぺたりと潰れた布団に、虫食いの枕、割れた窓ガラス。ちぎれたカーテンは外からの風でぴらぴら揺れている。
「エリシャくん、まさかこれ」
「…………」
ヨウが扉の取っ手から手を離す。泥だらけになった手と引き戸を見比べて、彼はすっかり青ざめていた。当然、引き戸なんてここに来るまで一枚も無かった。
おれたちがこれまで見ていた『ネズニア精神病院』は、完璧な嘘。───これが、これこそが本当の廃病院の姿だ。
「魔術結界、か? 俺たちが今まで見ていたのは全部偽物で……誰がこんなことを、って…………んなのネモしか考えられねえか……ッ! まずいぞ、コヒナちゃまが危ない!」
「いや」
空中に手を差し伸べる。近くに感じられる生命の気配は、おれ自身と、ヨウ。それから……おれたちほど大きくはない存在が、二人分。
「お嬢は無事だ。ネモも。……ネモが魔術結界でおれたちをまよわせたわけは、また本人を見つけてきけばいい。彼女は、うそはつかないだろう」
「なんだってこんな大掛かりな術を……! キャラクターにしたって、無尽蔵に魔法を撃ちまくれるわけじゃねえだろうに!」
「お嬢をさがそう。ネモが無事で、かつ結界がとけたということは、彼女は自分でそれを『解いた』にちがいない。お嬢とネモの生命エーテルがかなりはなれているのを感じる。ネモはきっと、お嬢からにげているんだ」
「上手くいきゃあコヒナちゃまと挟み撃ちできるかもしれねえって事か……!」
挟撃か。おれはなにも、そこまでしてネモを責める必要は無いと思うのだが。
しかし、結界についてはヨウの言った通りだ。建物の全てを上書きするなんて芸当が、果たして彼女にできるだろうか。おれたちがこの廃病院に来てから、もう数時間が経過している。その間一切のボロを出すことも無く、触れることも、その上を歩くこともできる幻覚を作り出し続けるだなんて……それではまるで……
「ライターズの、『作品』のような…………」
「エリシャくん! こっちの廊下、地下室に繋がってるみたいだ! 行こう!」
「わ……、まってくれ、先生!」
ああ、おれの仲間になる人はこう、どうして、思い立ったらすぐに動き出してしまうのだろう……。
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