─3─ 牙

 わたしは無意識に自分の口に手を添えていた。

 わたしにはキバがある。人より発達して尖った犬歯を、親父さんがよくそう呼んでからかうんだ。そのキバは紛れもなくうちの子の証だ〜ってね。まあ、ただの冗談なんだけど。

 例えばわたしがリン兄にしがみついて、その肩口へガブリと噛み付いたらどうなるだろう。リン兄はきっと、わたしの襟首を掴んで引き剥がそうとする。それ自体はさほど苦労しない。この人は見掛けによらず、結構力が強いから。それで、わたしも引き剥がされまいと顎に力を込める。わたしのキバはリン兄の肌をわずかに抉り取って、平行に二本の傷跡を残すはずだ。


 ───考えろ。考えるんだ。


 リン兄は何者かに噛み付かれた。ちょうど、わたしのような鋭い犬歯を持った『人間』に。

 人間だと断定できるのはあの歯型のせい。二つの穴を『犬歯』の位置と仮定して、残りの薄ら残る痣を注視すれば、それが人間サイズの小さな上顎にぴったりだとわかる。

 ヒトの肌に噛み付いてくる『何者か』───ヒトを食べようとする魔物にはいくつか心当たりがあるけれど、ああも人間と同じ歯型を持っている……つまり、人間と近しい姿をしている魔物は自然と限られてくる。


「───吸血鬼ヴァンパイア


 わたしが心当たりを呟くと、鉛筆の走るコッカッコッカッ……という絶え間無い音が止んだ。視線を感じる。スメラギが手を止めて、こちらを見つめてにんまり笑っている。


「で?」


 スメラギは急かした。


「リン兄は自分を襲った相手が吸血鬼だと分かっていた……と思う」

「何故言い切れる?」

「リン兄は廃病院の倉庫で襲われたから。あそこは肝試しに行く人も多くて、廃病院とか呼ばれてるくせに結構人の出入りが多いんだ。だから吸血鬼なんかうろついてたらもっと有名になってるはずだし、有名になったら困るそんな魔物がずーっと居座ってるわけ無い。でも、倉庫まで行く人っているのかな? 倉庫ならずっと陽は射さないし、人も入ってこないから隠れ住むにはちょうどいいよね」

「犯人の目星は付いているようだな」

「犯人は……ロロだ。それはなんとなく、傷を見た瞬間からそうかもしれないって思ってた」


 わたしはもう一度リン兄の体を見上げた。


「ロロは言葉が通じなかったし……人型になったとき、あの子はちょうどわたしみたいなキバがあって、頭の大きさもわたしと同じくらいだった。わたしの持ってるアクセサリーがぴったりだったんだ。ロロは倉庫に住んでいて、リン兄が来たから驚いて襲いかかった。だけど力が足りなくて元の姿に戻って、リン兄にそのまま持って帰られちゃった」

「そういう事にしておこう。それがリンにとっての『前提』だ。お前はようやくリンと同じ立場になれた訳だが、それでろくに定宿で休むこともせず彼が真っ先にオレを訪ねた理由は……オレに聞きたかったことは何なのか。考えてみろ」

「スメラギを訪ねた理由……。ロロは吸血鬼で、ロロはユウジンとの交渉に使えて……、……スメラギに聞かないといけない事があった。…………」

「難しいか? ───オレは滅多に外へ出ない。関わる人間も非常に少ない。リンと会ったのは今日が初めてだ」

「えっ……? じゃ、じゃあ。……そうだ、リン兄が持ってる『前提』はわたしと同じ。リン兄はスメラギが遺跡を管理してることや、『芥川龍之介』を追っていることなら知ってる。そんなの、この辺りの人にとっては有名な話だから……。ロロを連れ帰って、ユウジンとの交渉材料にするためにスメラギに聞かなくちゃいけないことがあった……としたら……」


 リン兄は『六天遺跡』か、『芥川龍之介』か、そのどちらかについて聞きたかったからスメラギを訪ねたはずだ。───可能性としては、『芥川龍之介』のほう。吸血鬼はあんな開けた遺跡じゃ暮らせないし、言葉の分からないロロにとってあの遺跡はほとんど無価値に近いだろう。

 ロロ、吸血鬼、芥川龍之介。

 ロロ、芥川龍之介、吸血鬼。

 吸血鬼、芥川龍之介、ロロ。

 ───あっ。


「芥川龍之介って吸血鬼なの?」

「お前の馬鹿は誰譲りだ?」

「違うんかいッ!」

「『違う』なんて言ってない。お前のその『仮説』に辿り着くまで普通もっと段階を踏むだろう。お前は単語だけを繋げて適当なことを言い出したから馬鹿かと言ったんだ。実際、リンはそれを訊ねるのに『八分』かかって」

「おまえをブチ切れさせて『モデル』の刑に処された……なるほど」


 それから、コヒナわたしは段階を踏んで答えに辿り着くよりも、ある仮説を用意してそこから逆算していく考え方の方が向いている。……と、スメラギはそんなようなことを言った。

 ちなみにリン兄は三回目の質問で『芥川龍之介は吸血鬼なのか』と訊いたらしい。

 一回目は『吸血鬼について知っているか』。二回目は『吸血鬼の種類について』。たしかに段階を踏んではいるけれど、彼はわたしよりずっと確信めいたビジョンを持っているように感じる。


「なんでスメラギは吸血鬼について詳しいの?」

「吸血鬼について、というのは語弊がある。オレの専門は美術、それから『六天遺跡』だけだ。お前もあの遺跡を見たなら『旧文明』が分かるだろう」


 わたしは頷く。

 この部屋を照らしている蛍光灯や、壁に貼られた薄型のモニター。それにスメラギが片耳だけに付けている小さな機械も、全部旧文明の遺物だ。

 旧文明には便利な機械が沢山あって、大きくて速い乗り物もあった。いろんなもので溢れかえっていて、世界全体がまるで賑やかな市場のよう。


「物は多いが人類ヒトは一種類だけだ。オレはそのことを調べていた」

「ひとの、種類……?」


 今度はスメラギが頷く。

 いつの間にか彼の手には何も無くて、彼は組んだ脚の上に、鉛筆で真っ黒になった指先同士を握り合わせていた。


「この世には様々な人類が存在する。純粋な人間、獣人族、ホムンクルス……広義に『人型』をそう呼ぶのなら、吸血鬼や夢魔やグールまでこれに該当する。だが旧文明にはこのうちのたった一つ、『純粋な人間』しか存在しなかった」

「そうなの? 知らなかった」

「勉強不足だな。少し聞いて回れば大抵の大人は誰でも知っている事だ。無論、リンもそうだった。だから奴はオレを訪ねた。人類の存亡を調査する足がかりとして『六天遺跡』を『利用』しているだけに過ぎない、このオレを」

「利用……」

「そう。オレの目的は遺跡の保護ではない。人類の救済だ」


 ───ああ、そうか。

 この人はわたしの話を真剣に聞いているんじゃなくて、わたしのことを『真剣に話を聞いてくれる人』だと感じ始めたから、絵を描くのをやめたんだ。

 わたしは『片手間に話していい人』じゃなくなった。体ごとこちらを向いて、きちんと話すべき人になったんだ。


 スメラギは「会えて嬉しい」とわたしに言った。わたしが『真剣に話を聞いてくれる人』だと、彼が思っていたのは一体いつからなんだろう?


「遺跡を修復し、旧文明を救済する───」

「!」


 ドキッとした。

 今スメラギが言い当てたことは、まさに、わたしが英知と約束したわたしの出発点。


「この世界は旧文明の存在する世界と曖昧になり、いずれひとつになる。その時、この新文明の世界に生きる多くの人類はどうなる?」

「…………消えちゃうの?」

「『消える』なんて、そんな生易しいものかどうかも分からない。確実に言えることは、『旧文明の存在する世界には余分な人類が存在しない』ということだけ」

「スメラギが遺跡を管理しているのは、そのことに気付いたから。この世界に生きてる色んな人が、消えて無くなるかもしれない……だから遺跡を買い取って、仲間を使って見回りをしてるのか。あれが完全に修復を終えてしまわないように。完全に修復させるかもしれない『芥川龍之介』たち『文豪』を探しているのも、彼らに強すぎる力を使わせないため……」


 椅子から立ち上がったスメラギは、彼の体の動きに沿って胸の前へ垂れた長い髪を、頭を振って無理矢理背中へと追いやった。蛍光灯の強い光が、スメラギの青い髪に、くっきりとした天使の輪を与える。


「スメラギは、どうして人類の……新文明の世界を救済しようと?」

「この世界に救われて欲しい人がいる」

「……!」




 ─── 「えーちゃんは、どうして遺跡を修復したいの?」

 ───「僕は別にこの世界に思い入れがある訳じゃない。ただ『旧文明』を救いたいだけだ。あっちの方が便利なものがたくさんあるから」




「あ……の、スメラギ」

「なんだ」

「わたしが、もし───わたしが冒険者になったのは、遺跡を修復して旧文明の世界を救うためだ、って、言ったらどうする?」


 冷や汗が伝う。

 スメラギが片眉を上げたその表情が、白い光の下でありありと浮かび上がる。

 ややあってスメラギは答えた。けれどわたしが勝手に覚えた緊張に比べれば、その答えはあまり大したことの無いものだった。


「別に、どうもしない。オレはお前に冒険者を辞めろとは言わないし、お前をここで殺してしまおうだとか、そんな物騒なことも考えない。ただ、オレの行く先にお前があって、お前の行く先をオレが阻むことがある───と、そう思うだけだ」

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