閑話 リディアーヌの呪い

 すでに日は上り、ヴェリンガー侯爵家の屋敷の中は使用人たちが動き出している。

 そんな中、重いカーテンが閉められたままの一室。


「きゃぁぁっ!」


 甲高い叫び声とともに、飛び起きたのはリディアーヌ・ヴェリンガー。21才。ヴェリンガー侯爵家の三女で、レオール・オーグレンの元婚約者だ。

 大きく目を見開き、びっしょりと冷や汗をかいている彼女の顔は、いつもの傲慢さのかけらもない。


『お嬢様!? どうされましたか!』


 寝室の外のドアから声をかけてきたのは、護衛のフェデル。


「な、なんでもないわ」

『しかし』

「なんでもないと言ってるでしょっ」

『はっ……』


 リディアーヌの怒声に、フェデルは返事のみ返しただけだった。


 ――なんなの、なんなの、なんなの!


 乱れた赤銅色の長い髪をかきあげ、スカイブルーの瞳に怒りを込めてベッド脇に置いてある黒い香炉を睨みつける。


「使えないじゃないっ!」


 香炉を手に取り、床へと投げつける。白い灰が床に散らばり、灰が舞い上がる。

 すでに灰になっている香は、次女で隣国に嫁いでいる姉の伝手を使って、ようやく手に入れた『呪いの香』。寝る前にお香を焚くことで、相手に呪詛の念を飛ばすことができるという。

 貴重な魔草を使っているとかで、なかなか手に入らないものだった。

 かなり強力な呪詛をかけることができると聞いていたのに、なぜか子供相手に解呪されてしまった。

 呪詛の相手は、元婚約者のレオール・オーグレン。自分と婚約をし直すことを断り、別の格下の令嬢と婚約したのだ。


 ――このわたくしが、再度、婚約してやるというのに!


 幼い頃は、あんなに仲が良かったのに、婚約がなくなった今ではリディアーヌの顔を見ても無表情で声もかけずに去っていく。


 ――確かに、一度は私の『気の迷い』で婚約を解消したけれど、あの態度は何よ。

 ――そもそも、なぜ、あんなお子様な女が、新たな婚約者なの!


 リディアーヌは王立イェレミース大学院に進学するくらいの学力はあるが、自分がした愚かな行為も、自分自身が『気の迷い』の相手から捨てられたことも、すっかり忘れてしまっているらしい。

 自分に都合の悪いことは、すぐに消えてしまう、便利な脳のようだ。

 

 ――私の方が何倍も美しいし、優秀だわ。


 今の婚約者のアレシア嬢に対して、どれだけ自分のほうが優れていて美しいか、しか考えがないのだ。

 

 ――あんな女に盗られるくらいなら。


 盗られたわけではない。

 むしろ、リディアーヌのほうが捨てたのに、この思考である。

 呪いを確実にするために、わざわざリディアーヌ専属の影を使って、ロケットペンダントを奪い取らせた。呪い除けの札をしまうのは、ロケットペンダントが定番となっているからだ。

 その思惑は正しく、ペンダントを外したとたん、生霊となったリディアーヌの目に、呪詛の相手であるレオールの姿が目に映った。

 すぐさまレオールの腕へと手を伸ばせば、面白いほど呪詛の靄が絡みついていく姿を見た時には、嗤いが止まらなかった。

 その後、寝室で横たわるレオールを見下ろし、苦しんでいるレオールの姿を見ている間は、いい気味だと思っていたのだから、始末に負えない。

 あの場に、複数の人間がいたのはわかったけれど、誰がいたのかまではわからなかったし、誰も呪いを解くことはできない様子に、優越感すら感じていたリディアーヌ。

 そんな中に現れたのが10歳前後の子供たち。

 彼らが生霊のリディアーヌに気付いていたのはわかったけれど、他の者たちは気付いていなかった。だからこのまま、レオールは苦しみ続けるだろう、と思っていた。

 それなのに、途中から二人の子供が楽し気に邪魔をしてきたのだ。

 子供の姿を思い出して、怒りで顔が赤くなる。


 ――だいたい、あの子供はどこの家の者なのよ。


 オーグレン辺境伯家には幼い子供はいなかったはず。そもそも、あのような解呪の方法があったなんてことも知らなかった。

 その時のことを思い出し、ギリリと歯を食いしばる。

 怒りの矛先をどこに向けるべきか考え、ハッと思い出す。


 ――そういえば、あの女のところにも仕掛けておいたのだったわ。


 ベッドからおり、すぐさま伝達の魔道具を使い、一通の手紙を送る。

 もう一人のリディアーヌ専属の影に、アレシア嬢にはりつかせていたのだ。


 ――魔物に襲われてしまえばいいのだわ。


 ニヤリと嗤う顔には、卑しさしか浮かばない。

 気持ちも落ち着いたリディアーヌはすぐにメイドを呼びつけると、お気に入りのサマードレスに着替え、遅い朝食をとりに食堂へと向かう。

 長いテーブルにつくのは、リディアーヌ一人。

 父と兄はすでに仕事で王城へ向かい、母は友人との避暑の旅行に出かけていた。姉二人はすでに他家に嫁いでいて、今は末の妹であるリディアーヌしか、この家にはいない。


「お嬢様、本日のご予定は」


 食事を終えたところで、執事の老人から尋ねられ、少し考えたリディアーヌ。


「今日は部屋でゆっくりします。特に約束はないから、お客様は来ないはずよ。用がなければ声をかけないでくれるかしら」

「畏まりました」


 リディアーヌは自分の部屋へと戻りながら思い出す。

 

 ――そういえば、あのお香は、もう一組残っていたのだったわ。


 ウフフと笑うリディアーヌの右腕には、うっすらと黒い靄がかかっている。

 リディアーヌが使った『呪いの香』は、今まで呪いが解かれたことはなかった。確実に呪うことで、その道の者には有名な物だったのだ。

 当然、解呪によって何が起こるかを知る者はいない。


 黒い靄に気付く者は誰もいない。

 ……気付くとしたら、エマとショーだけかもしれない。

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