丸手の手記

仲瀬 充

丸手の手記

ここはどこだ、僕はどこへ行けばいい? もう日も暮れるというのに。

散歩の途中でそんな思いにたたずむ時がある。

それは僕にとって至福のひと時だ。

孤独と不安が真逆に作用して何とも言えない解放感をもたらしてくれる。

けれどもそんな感覚には滅多に浸れない。

なにしろ僕は町内のことならたいてい知っているのだ。

たとえばこの家。

季節に追い立てられるように庭の花を植え替える。

今は彼岸花がうそうそと秋風に揺らいで僕を黄泉よみに招いている。

次はこの家。

ブロック塀の上で猫がいつも両目をびかんびかんと光らせている。

次の家は……、主人に散歩に連れ出されたばかりの犬が電柱に片足をあげた。

唐突に父のことを思い出した。

父が徘徊していたのも犬のオシッコと同じで、生きているエリアのマーキングだったのではないか。


そう言う僕も若年性認知症かもしれない。

散歩していると生きている確かさが希薄になることがある。

この町が見知らぬ土地に変貌するのはそんな時だ。

ふうっと心も体もどこにあるのやら分からなくなる。

砂時計の砂粒のように森羅万象しんらばんしょうがさらさらと崩壊すればいいのに。

おっと、けんのん、けんのん!

ここは父が入院している町はずれの病院だ。

もう長いこと父の顔を見ていない。

入院の手配は全部妻に任せた。

妻の話によれば父は認知症に加えて咽頭ガンで声も出せなくなっているという。

そろそろ引き返そう、ずいぶん遠くまで来てしまった。


死んだように眠るより眠るように死んでいきたい。

そう願っても太陽は毎日のんのんと昇ってくる。

寝ぼけまなこで上体を起こすと乱れた毛布は顔また顔のオンパレードだ。

このしわは人の憂い顔、こっちの皺は怪獣の咆哮……

洗面所にって顔を洗った後でカミソリを手にした。

髭を剃る手を首筋にぴたりと当てて鏡の中の自分と対峙たいじする。

T字型カミソリに妖刀村正むらまさの役は務まりそうにない。

それに今日は病院に運ばれるわけにはいかない。

これから自分で僕は病院に出向くのだ。

着替えて玄関を出ようとすると妻と幼い娘が見送りに出てきた。


苦学して医者になったのが父の自慢だった。

医学部に入れず美大に進んだ僕を父はさげすみ人間扱いしなかった。

それならばと家出すると父でなく母が気を病んで亡くなった。

すると裕福な家の出だった母の財産が半分僕に転がり込んだ。

僕のせいで死んだも同然の母の遺産で毎晩毎晩飲み歩いた。

まるで漫画だ、人生は喜劇にも似た悲劇だ。


場末のバーで妻を見かけたのは僕がゆっくり壊れかけていた頃だった。

彼女はカウンターの端っこで目を閉じてタバコをくゆらせていた。

そのけだるそうな横顔はほどよく退廃的だった。

僕は彼女との結婚を打算した。

僕の飽和状態の毒が浸透圧によって彼女に流れ込むことをもくろんだのだ。

ところが僕の精神の細胞膜ときたら機能不全に陥っていた。

彼女の毒まで取り込んでオーバーフローした結果、彼女は貞淑ていしゅくな妻になり僕はムンクの絵になった。

耳を塞いで外界を遮断しても自分の叫びが脳内に反響する。

そんな僕が妻には何をしでかすか分からない危険な廃人に見えたのだろう。

とうとう昨夜妻に泣かれた。

「お願いだから一度てもらって」


「行ってくる」

「行ってらっしゃい」

娘と一緒に玄関に出てきた妻は申しわけなさそうに僕を見送った。

精神病院までの道すがら仰ぐ秋空は涼やかに青かった。

丸手まるて隆一りゅういちさん、診察室へどうぞ」

看護師に導かれた僕を医師はやる気満々で迎えた。

でろりんとした目の奥の光が異常に異常で白衣を着ていなければ診察される側だ。

「いろんな考えが浮かんで考えがまとまらないことはありませんか」

「誰かにまたは何かに急かされているような焦りを覚えませんか」

「周りの人たちが自分の悪口を言っているように感じることは?」

「不安にかられて死んでしまいたいと思ったりは?」

次から次へと見事に僕の精神状態を言い当てていくが全て「いいえ」とはねのける。

およそ20分後、病名を付けることを諦めた医者は口をへの字に曲げた。

「丸手さん、どうもあなたは自分をよく見せようとする傾向が強いようですね」

その捨てぜりふもまた僕の本質を突いていた。


病院からの帰り道、小学校の頃のクラスメートを思い出した。

会社の社長の息子だったが腹膜炎とかで長期入院をしていた。

学校のプリントがある程度たまると病院まで届けに行った。

担任の先生に頼まれたから引き受けたまでだが彼はたいそう喜んだ。

帰ろうとすると高級なメロンを1個くれて「また来てね」と言った。

その後もプリントを届けに行くたびに僕はメロンをもらった。

見舞い客もお金持ちばかりなのだろうか、よくあんなにメロンがあったものだ。


「特に異状はないってさ」

「そう」

帰宅して診察結果を告げても妻は安心したふうはなかった。

リビングに行くと娘がクレヨンで絵を描いている。

「違う、違う! 昼間の太陽が赤いわけないじゃないか」

めったに売れなくても僕は一応プロの絵描きだ。

白く塗り残せ、周囲が太陽を輝かせるのだ。

そう教える前に娘はへそを曲げて「いいもん!」と手のクレヨンを放り投げた。

僕も虫の居所が悪くなった。

こうなればもう酒を飲むしかない。


妻は夕飯の後、食器洗いを済ますと娘と二人で水槽のメダカに餌をやり始めた。

僕は泣きたくなった。

これが生活なのだ、生きるということなのだ。

ご飯を作って食べて後片付けをしてメダカの世話をする。

そんなささやかなことを積み重ねて人は生きていくのだ。

時間は一方向に少しずつしか流れない。

僕だけその時間の流れから脇道へそれたり駆け足をしたりしている。

飲むべし飲むべし、僕は酒をあおり続けた。


目を覚ますと部屋に熟柿じゅくしの匂いが充満している。

深酒をした翌朝はいつもこうだ、アセトアルデヒドのやつめ。

窓の外は雨の音、家の中は洗濯機の回る音。

洗濯が終わると妻は掃除にかかるだろう。

その前に散歩に出なければ。

掃除機の音を聞くと気が狂いそうになる。


雨の日の散歩はいい、神経にさわらない。

彼岸花は雨にしおたれ、猫は家の中、犬も犬小屋の中だ。

歩いているうち傘をさしているのにズボンの裾が濡れてきた。

子供みたいにかんの虫がおこりそうになる。

ドッペルゲンガーでも探して気を紛らわすとしよう。

雨の日には傘で顔が隠れるから油断して歩いているかもしれない。

双子の兄弟が羨ましい。

自分とそっくりの人間が動いているのを見るのはどんな気分なのだろう。

言い伝えではドッペルゲンガーに会った人は死んでしまうらしい。

僕に言わせればそれは望むところだ。

おおっと、けんのん、けんのん!

もう少し行くと父が入っている病院だ。

近頃散歩の足がこちらに向くのはひょっとすると虫の知らせか?


はたして家に戻ると妻が目を泣き腫らして待っていた。

「病院から電話があったの。すぐ出ましょう、お義父とうさん、あなたが来るまで頑張ってるんだと思う」

妻は車に僕と娘を乗せて病院に急いだ。

妻と娘は時々見舞っているようだが僕は学生時代に家を飛び出して以来だ。

「お義父とうさん!」妻がしゃがんで呼びかけると父は目を開けた。

僕がそばに立っているのを見つけた父は目をつり上げて歯を食いしばった。

人の大きな喜怒哀楽の寸前はみな同じ表情だ。

この後、父は大口をあけて怒鳴るのかそれとも哄笑こうしょうするのか。

どちらでもなかった。

妻から聞いていたのに父は声が出せない体だということも僕は忘れていた。

目をつり上げて僕を凝視し歯を食いしばったまま父は拍手を始めた。

力の入らない両手をゆっくり打ち合わせ続ける父の目から涙があふれ出して枕を濡らした。

僕は父を見下ろしながら高村光太郎だったかの詩を思い出していた。

……そんなにもあなたはレモンを待っていた かなしく白くあかるい死の床で……


四十九日を過ぎてお寺で父の納骨を済ませた日、僕は妻と娘を先に帰すことにした。

「ちょっと街をぶらついてくる。晩飯はいらない」

娘が一緒に行きたがって駄々をこねた。

妻は後追いしようとする娘の前に回り、娘の両肩に手を置いてしゃがんだ。

「おりこうにして待ってればパパがお土産を買ってきてくれるわよ」

そう言って娘よりも寂しげな顔で僕を見送った。


街なかに入る頃には冬隣りの夕空が夜のとばりを下ろし始めた。

ふと思いついてビジネス街の大きなビルに入りカウンターの受付嬢の前に立った。

「社長に会いたいんだけど」

「失礼ですがお約束はございますでしょうか?」

口先は丁寧だが目つきは外の夕空のように冷ややかで虫が好かない。

アポイントなどあるものか、メロンくんも偉くなったもんだ。

「丸手が来ていると伝えてみて」

受付嬢はのろりと内線電話を手にしたが受話器を置くと勢いよく椅子から立ち上がった。

「失礼いたしました。社長室までご案内いたします」

なんという虫のいい手のひら返しだ。

「いや、もういい。ちょっと寄っただけだから」

僕がきびすを返しかけると受付嬢はカウンターごしに僕の腕をつかんだ。

「困ります、困ります!」

そしてもう片方の手で再び社長室に電話した。

メロンくんがエレベーターで降りて来るまで受付嬢は僕をロビーに拉致らちして見張った。


「いやあ久しぶりだなあ、丸手くん。もう仕事は終わったからその辺で一杯やろう」

連れて行かれたのは「その辺」ではなかった。

御用達ごようたしらしい会社のタクシーで向かった先は市の中心部の歓楽街にある会員制バーだった。

「よく来てくれたね。小学校を出て以来かな、懐かしいよ」

「君はあの頃ずいぶん長く入院してたけど大丈夫だったのかい?」

「なに盲腸炎をちょっとこじらせただけさ。ただ退屈でね、君が来てくれるのが待ち遠しかった」

メロンくんは次から次に入院中の思い出を語った。

母親に頼んで僕への土産のメロンを切らさないようにしていたことも。

小一時間話を交わした後で僕は「それじゃそろそろ」と腰をあげた。

「そうか、名残り惜しいなあ」

バーを出るとメロンくんは来た時と同じ会社のタクシーを呼んでくれた。

僕は礼を言って乗り込み運転手に自宅の住所を告げた。

ドアが閉まる前にメロンくんは僕の手に押しつけるようにして1万円札を握らせた。

タクシー代のつもりなのだろう。

「近くに来たらまたぜひ寄ってくれ、待ってるよ」


タクシーが走り出すと僕はシートに背を持たせかけた。

メロンくんは不思議な人間だ。

昔も今も僕がそんなに魅力的な人間のはずはない。

彼は他に友だちがいないのだろうか、それとも博愛主義者なのか。

「待ってるよ」と言った言葉に嘘はないだろう。

けれど本当に僕は待たれているのだろうか。

亡くなる間際の父もそうだ。

あの拍手は僕の来訪を喜んだあかしだと妻は言ったが。


タクシーは父が息を引き取った病院の近くを通り過ぎた。

僕はまだ1万円札を握っていることに気づいた。

「大人になってもメロンをくれるなんて」

そう呟いて苦笑しながらポケットにしまうと運転手がルームミラーで僕を見た。

「は? メロンをくれる? なんの話でしょうか?」

独り言を聞きとがめられて僕はちょっとどぎまぎした。

「なんでもないです、お土産の話です。気にしないでください」

「そうですか。お土産にメロンは最高ですね」


運転手の言葉で娘が駄々をこねていたことを思い出した。

娘はメロンが大好物だ、それも贅沢なことにマスクメロンが。

タクシーは我が家の町内に入っていてもう少し行けば果物屋がある。

「運転手さん、土産のメロンを買いたいんであそこの果物屋で一旦停めてください」

運転手は車を停めると帽子のひさしに手をかけて頭を下げた。

「ありがとうございます、恐縮です」

なにを言っているのだろう? 意味が分からなかったが店の中に入ってから笑いがこみあげてきた。

店員の手前、笑いをこらえるのにひどく苦労した。

まるで漫画だ、人生は悲劇に似た喜劇なのかもしれない。


「いらっしゃいませ」

「マスクメロンを二つ」

「ご贈答用でしょうか?」

「うん、別々に包装して」

「かしこまりました」

「あ、もう一つ追加してもらおうかな」

妻はメロンよりも僕が何事もなく帰るのを待っているのだろうけれど。

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丸手の手記 仲瀬 充 @imutake73

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