私の婚活物語
Tomoko
え?弟が結婚? 【1】
腕時計を見ると、5時40分だった。
電車の窓から見える景色が、ほんのりと薄明るい。
いつもだったら、窓の外はすでに真っ暗だ。当たり前のように残業をした後、電車のつり革につかまって怠い体を支えながら帰途につく。
でも、今日は用事があって定時の5時に退社してきた。
――今まで、定時に帰ったことなんてあったっけ?
なかったよなあ。
そう思った途端、今日の帰りぎわの会話が頭の中をぐるぐると回りだした。
「あれ、もう帰るの?」
「はい。お疲れさまでした」
「早くないか?」
「用事があるので。もう、五時まわりましたし」
直属の上司である井上課長の嫌味に礼儀正しく応じながら、帰り支度をする。
チッという舌打ちが聞こえそうなほど顔をしかめて私を一瞥すると、井上課長は自分の書類に目を落とした。
そんな様子を横目で見ながら鞄を手に席を立つ。すかさず、目の前に座っている先輩が声を掛けてきた。
磯部さんという四十過ぎの既婚女性だ。小学生のお子さんが一人いるが、フルタイムで働いている。
「なに?どうしたの?」
「ちょっと、用事が」
だいたい、用事がなければ定時に帰れないってどうなの?
「用事って?」
「まあ、あの。ちょっと」
「え?なに?良い話?」
「いや……」
「やだ、隠さなくても」
「違いますって」
ほうほうの体で逃げるように部署を抜け出した。
エレベーターホールでエレベーターを待っていると、今度は同期の杏奈に見つかってしまった。
「美帆、もう帰るの?」
そう言いながら、軽く毛先をカールした長い髪を揺らせて駆け寄ってくる。
「うん」
「どうしたの?デート?」
「違うって」
「だって、オシャレしちゃってるし」
「してないよ」
「ええー?あやしいなあ」
「そんなことないって。それより、杏奈もなんか可愛い恰好してない?」
グイグイくる杏奈に辟易して、お返しとばかりに話を振った。
「……え、いや。まあ。今日は金曜だしね」
はにかんだように笑う。なんだ、自分が聞いてほしかったんだ。
「はいはい。杏奈こそデートなんでしょ」
「まあ……ね。でも、もう少し仕事終わらせてからね」
「大変ね」
「でも、彼も残業してるから」
「ああ、そう」
杏奈の彼はIT企業を経営しているらしい。犬好きの集まるチャットアプリで知り合ったという。
なんか、幸せオーラっていうの?恥ずかしいけど嬉しいみたいなピンクのベールを纏ってる感じがにじみ出てる。
お互い三十歳。結構いい歳だが、ここ何年も浮いた話の無い私には、かなりきつい。
ピンポーン。
軽い音を立てて、やっと目の前のエレベーターの扉が開いた。
「じゃあね。お先に」
私はそそくさとエレベーターに乗り込むと急いで「閉」を押した。
連打した。
いいよね。リア充は。
悲しいんだか、悔しいんだか。ちょっと涙出そうだわ。
ふいっと顔を上に向けて、こらえる。もしかして、エレベーター内の防犯カメラに私の顔が映ってるんじゃない?っと思って、慌てて顔を伏せた。
私の用事はなんてことはない、家族で会食。
なんと、弟が結婚したいという彼女を連れてやってくるのだ。
弟の健司は就職して一年もすると家を出た。会社の近くで一人暮らしをしている。
私はというと、ずっと実家暮らし。
まあ、家に帰ると食事ができてるし、洗濯もしてもらえる。
少しの生活費は家に入れているが、給料はほぼ自分の為に使えるという生活。
なんだかんだ言って、居心地がいいから、ついそのまま居座っている。
健司ももう28歳か。いや、でも、結婚、早すぎない?
そんなことないか。まあ、晩婚の昨今だけど、早く結婚する人はするし。
良い人がいれば、結婚するわな、そりゃあ。
――あああ。先越されちゃったか。
考えたくないけど、どうしてもその言葉が頭に浮かぶ。
私だって、結婚したくないわけじゃない。そうじゃないんだけど。
できない、わけじゃないのよ。
けっして、できないってわけじゃあ……。
そんなことを考えているうちに、家についてしまった。
健司とその彼女がやって来るのは、7時だって言ってたから。
あと、30分位か。
家にはいつものように明かりがともっていて。
ただ、なんとなくバタバタと慌ただしい雰囲気が漂っていた。
「ただいま」
玄関ドアを開けて、声を掛ける。
「ああ、美帆。おかえり」
エプロン姿の母が何かを盛りつけた皿を持ちながら、キッチンから顔を出した。すぐに、そのままキッチンに戻って行く。
自分の部屋に行く前にリビングを覘くと、父親がソファに座ってこころもち前かがみになっていた。もともと、気の弱いところのある父は、かなり緊張しているのだろう。そんな気分を紛らわすかのように視線を目の前にあるテレビに向けては失敗していた。
リビングから続くキッチンでは、母がパタパタと動いている。
母の得意料理の唐揚げだろうか。良い匂いが漂っていた。
「ほら、美帆。早く着替えてきて手伝ってよ」
ワクワクが抑えきれない母の声が聞こえてきた。
「はーい」
そう返事して、二階の自分の部屋へ向かった。
「ほら、お父さんも。そこ片付けて」
母のいつもよりワンオクターブ高い声が父にも向けられていた。
お母さん。嬉しいのかな。うーん。でも、息子が結婚するって寂しくないのかな。
そんなことを考えながら、いつもよりは小ぎれいな普段着に着替える。
さっき、帰りがけにお気に入りのお店で簡単な食材を買ってきた。その食材の入ったビニール袋を手に下に降りる。
キッチンで、トマトとモッツアレラチーズをスライスする。交互に並べて塩と胡椒とオリーブオイルかけて、最後にバジルを散らせば出来上がり。
「あら、なにそれ?」
「カプレーゼ」
「へえ、オシャレなの知っているわねえ。いろどりも綺麗だし」
「まあね」
いや、まあ。今の時代は知らない若い人はいないと思うけど。
手伝ったとはいえないほどの簡単な一品をテーブルに運ぶ。
すでに、テーブルにはこれでもかとたくさんの料理が並んでいた。
唐揚げを筆頭に、ポテトサラダ、鮭とほうれん草のグラタン、おさしみ、大根とイカの煮物。などなど。
どんだけ張り切ってんだか。
「さあ、こんなもんかしらね」
そう言って母が腰に腕を当てて、満足げに頷いた。
あ、これは。戦闘モードだ。
そうか。母は弟の彼女を手ぐすね引いて待っている状態。品定めしてやろうってことね。
じゃあ、私も参戦するわ。どんな彼女なのか、じっくり観察させてもらおうじゃないの。
私は仁王立ちしている母の横に、同じように腕を腰に当てて並んで立つ。
それを見た父がビクッと大げさに肩を震わせた。
その時、ガチャっと玄関のドアの開く音がした。
~ to be continued ~
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