第8話 帰宅

 アシュリーは重い瞼をうっすら開けた。ゆっくりと合う焦点に瞳は見慣れた天井を映した。


 あれ、寝てた……?


 ゆっくりと体を起こす。ぱさり、と額から布が落ちた。ぼうっとする頭が徐々にハッキリしてきた。と、記憶が蘇る。


「そうだ、私」


 ぎゅっと両腕で自分を抱いた。あの時そうしていたように。まだ微かに身が震えている気がする。だが実のところ、目を開けても、顔を上げてもいなかったから、実際アレが自分をどうしようとしていたのかは分からなかった。しかし目を閉じていても溢れ出る何かに纏わりつかれ、生きた心地がしなかった。それは確か。


 おかみさんが来てくれてすぐ後、アレが誰かに斃されたのが背中に受けた歓声で分かった。もう大丈夫だと言い聞かせてくれたおかみさんの声が耳を通り過ぎた。いつもの自分はどこへ行ったか、意識朦朧で足元はふらつき、全身が小刻みに揺れて思うように動けなかった。


 到底、自分だけでは帰りつけなかった。広場にいた沢山の人の波に逆らい、おかみさんが付き添って家まで送ってくれなければ、今でもあそこで呆けていただろう。感謝してもしきれない。


 初めての出来事にアシュリーは戸惑い、その恐怖を和らげるように、深く深く息を吐きだした。


 どのくらい眠っていたのだろうか。


「お姉ちゃん?」


 顔を上げるとくるくる巻き毛の可愛い少年が、銀色の小さなたらいを抱えて空いたドアの前に立っていた。たらいには水がたっぷり入っているようで、慌てて寄ってくるのにたぷんたぷんと跳ねまくる。


「やっと目が覚めたんだね!」


 たん、とベッド横の小さなテーブルにたらいを置き、すぐさま駆け寄る。まだ小さい彼はベッドに座るアシュリーと同じくらいの目線だった。


「リオ」


「びっくりしたんだよ、僕、本当にびっくりして」


 言いながらむぎゅっと抱き付いて、リオは顔を擦り付ける。いつものことで、アシュリーは抱きつくリオの背中を優しく撫でた。


「ごめんね、でもお姉ちゃんもびっくり」


「はぁ?! なにそれ。リュシェルさんが連れて帰ってきてくれたんだよ。こんなに遅くなったのって、いつもより長く話し込んだからなんでしょ。もっと早く帰ってればこんな目に合わなかったのに……。絶対お姉ちゃんがおねだりしたんだ」


 弟の図星な台詞に、アシュリーはうっと詰まった。相変わらず察しがいい。年も背丈も姉の半分くらいなのに、中身は倍以上かもしれないと何度思わされたことか。アシュリーの自慢の弟だ。


「……なんでにやついてんの」


「にやついてないよ。リオは賢いなって思っただけで……」


 はっと口を押さえる。


「は? なんで今そんなどうでもいいことを。ねぇ、どうしてこんなことになっているのか忘れちゃった? ……分かった。もうこんなことにならないように、おじさんに言ってお使いは別の人にお願いしてもらうね」


 ぷくっと膨れたほっぺが愛らしさに拍車をかける。が、出た言葉は聞き捨てならない。


「ちょっ、やめてやめて、ごめんね。でもほらどこも怪我してないし、見て、リオ、ね。大丈夫だったんだから。お姉ちゃんは何ともないよ、ね」


 身振り手振りで健康をアピールしていて、はたと気付く。逃げて転んだ怪我もなにも、本当になんともないのだ。これは送ってくれたおかみさんが手当てをしてくれたんだろう。


 なら、おじさんにことの顛末を話しているよね……。 


 ふらふらと足元覚束なく帰ってきたのだ。当然に家族にその理由を教えないわけにはいかないだろう。楽しい話に浮かれて遅くなった挙句、命の危機あんなことに出会ってしまったとおじさんが知ったら、冗談ではなく次はないかもしれない。ごくっとアシュリーの喉が上下に動く。


 困る。非常に。娯楽はそれしかないのだ。どうしても、取り上げられたくない。何としても味方が欲しいアシュリーは必死に弟に弁解した。もう絶対に遅くならない。なりそうな時は一人ではなく誰かと一緒に行くようにするなどと、ああでもない、こうでもないと並べ立て、小一時間掛かって何とか反対しないと言わせることに成功した。(大変渋々に)


「そうだリオ、今何時?」


 色々とほっとしたのか、少し表情も緩んだアシュリーが尋ねた。


「え? そうだね、四時過ぎになるかな」


 きょとんとして答えたリオの言葉に、アシュリーの顔色がさっと変わる。


「なんでここにいるの、ほら早く自分のベッドに戻って!」


 パジャマ姿だったリオを慌てて急かした。



 アシュリーが目を覚ましたのは、戻ってから半日足らず、朝日が昇るにはあと少しというところだった。夕飯時にも目覚めず、深く眠った。彼女が眠るその間に広場での件は街中の人々の口にのぼっていった。無理もない。ここは魔物を寄せつけないはずの塀に囲まれた街なのだ。実際数十年も襲われたことはなく、街に四つあるゲート付近に魔物が近づいたなどと報告があがることすらもなかった。今やこの街でゲートは魔物ではなく人間に対してのみその存在意義を発揮していたのだ。


 だからといって守備がおざなりだったわけではない。国王は他国と組んだ対魔物連盟で、この国では簡単には見なくなった魔物が他国ではまだまだ人々を襲い被害を与えているという情報を得ており、種類や討伐法などそれらを基に、選抜した優秀な部隊に定期的に戦闘訓練を行わせていた。国境近くのこの街、コルテナに常駐する守護隊はそのうちのひとつであり、国王から勅命を受けた特別な部隊だった。

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