夜纏い鴉ーよまといがらすー

褥木 縁

夜纏い鴉ーよまといがらすー

仁徳じんとくに見返りを求めてはいけないよ。いつかめぐって貴方を助けてくれるから。」






 幼い頃から何かにつけて母は私にこの言葉をかけてくれた。それがほぼ口癖の母は特別"出来る人"と呼ばれる人種では無かったものの口先だけではなく、率先して他者の困り事に肩を貸す姿は他から見ても"人が良い"と言われるような人間だった。


 その母の背中と言葉を見て・聞いて育った私もおかげで周りから育ちが良い、優しい子と呼ばれる事も多くなった。


 母がかけられてきた言葉を私も浴びていると思うと母に近づいたような気がして嬉しくなったのを覚えている。人望が厚く、あらゆる人達が母のもとを訪れ他愛のない話をして帰っていく。


 傍らに居るとやはり話の内容は入ってくるもので、その話の中で何気なく出た"纏屋書店"の名前が頭の中に残り、気になって母に聞いてみた事があった。


 あさひには少し早いんじゃないかなぁ。と優しくさとしながら、頭を撫で言葉を濁す母。


 その頃小学校高学年だった私は気になり身の丈にも合わないその古書店の話を、母にしつこく尋ね聞いた。


 すると根負けしたと言わんばかりの困り顔を貼り付け、お友達から聞いたお話なんだけどね、とゆっくりと話してくれた。


「その本屋さんはね、お化けとかこわーい本しか置いてないんだって、お友達はね、巡り着いたんじゃないんだって"呼ばれた"って言うんだよ。」

 

 お母さんもよくわかってないんだけどこわいよね、子供の頃は気にも留められなかったが、今思うとそう話す母は何か隠してるように冷や汗を流し、幼子の私の手を握るその両手は少し小刻みに震えていた気がする。


 その書店の蔵書は皆、纏わり憑くような恐怖を感じさせる言葉で紡がれている、とオカルトと山が好きなアウトドア人間の知人との出会いで後々知ることになる。


 その本屋さんのお話が幼い頃から忘れる事もなく頭に残り、好奇心も背中を押して不気味な本とか妖怪の本を中心に本の世界に没入していき、見事な本の虫が出来上がって、のちに知識欲も加わり勤勉に行き着いた。


 それが功を奏したのか年頃にもなるとそれなりに良い大学にも通えたと思う。


 周りからは「とんびが鷹を産んだ」とか言われたりしたが、其れもふまえて嬉しそうな笑顔を周囲に返す母の姿がとても嬉しかった。

 それから随分と時は経ったが、その古書店の事は母の一言と共に頭にまだ残っていた。


 「引っ張られないように気をつけなさい。」


 そして私はある日の休日、出逢い、行き着いた…。


 買う事もできず、貸す事もない、恐ろしい程美しく、まるで動く人形のような蠱惑的こわくてきな店主が切り盛りをする。


 不思議・不気味・奇々怪怪とした古書店…。

 【纏屋書店】に……。



 ◯

 ある日の昼、大学の夏休みも半分程終わったぐらいの今日、特にやる事もなくて散歩がてら新しい本屋さんでも見つけてやろうと思い、いつもとは違う道を歩いてた。

 

 あんまり見なれない初めての道をゆったり周りを見渡しながら歩いていると、右側の建物との間に、ちょっと暗くて細い路地が見えた。

 その細い道の入り口に白い板が立っていて、その中にちょっと古い達筆で書店の名前が書かれていた。


 【纏屋書店】。


 私はその名前を知っていた。

 母が交通事故に遭い、そのまま行方を眩ませる前に話していた書店名だったはずだ。

 その看板から続いている細い道を覗く。まるでその路地だけ、夜になってる様なすごく薄暗くて、気になってちらちらと見てしまう。


 その通路の少し先に提燈ちょうちんが掛けられていて紅い光がくらい道の中でその場所だけを照らしていた。

 なぜかその光は安心を誘い安堵の気持ちが込み上げてきて、遅々としながらも足は確実に書店に向かい足を伸ばす。

 その提燈の灯りとは打って変わり、暗い路地はやはり恐怖を纏っていて、少し肌寒い。

 

「くるんじゃなかったなぁ…」

 

 そう呟く割にはゆっくり、ゆっくり歩いていく。

 

 そして私はその紅い光の前に立つ。

 その前には硝子が嵌った古い障子の様な扉が2つある。右上から古びた掛け軸が下がっていて達筆な文字で。

【夜、纏い泣く頃】。

 と少し読みにくく歯切れの悪い言葉が書いてあった。

 

「よるまとい?なくころ?」

 どうゆう意味なんだろう?そう呟く。

 

 でもここが多分路地まえに置かれてた看板の纏屋書店ってところっぽいから少し気になって入ってみることにした。


「まぁ、間違っちゃったら、謝って出ればいいしね!」


 自分を鼓舞こぶする様に独り言を放って中に入った。



 ◯

 いつもその擦り硝子の戸が写し出すのは、薄暗い現世うつつよの光景が多い、纏屋書店の扉を人の影が、揺れ動く。


 その影腕かげうでが扉に触れる。


 ガガガガガッ


 嵌っている硝子がいつもと変わった異音を放ちながら、外界と闇世を繋げた。


 そして今日、滅多に世人よびとが訪れないこの纏屋書店に一人の人物が姿を見せた。


 その子は、質素と清楚を入り混ぜた艶のある黒い長髪に丸メガネと言った佇まいの、女性と少女の境を思わせる身姿の人間だった。


 丸メガネの少女が、軽い中にも芯のあるような声で、お店を伺い覗くように声を落とす。


「あの…すみませーん…誰か、いませんかー?纏屋書店って所探してここにきたんですけど…。」


 の声に返ってくるのは静寂だけ。


「あの…誰か……。」

 

 再度声を上げる其の時、真ん中の廊下を挟んで入り口から見て右にある本棚の上部一段目の奥、畳間と天間の近くから、静寂を切り裂くような明るい子供の声で返事が返ってきた。


「やぁやぁ、御客人おきゃくじん!いつぶりだっけ?此処に世人がやってくるのって!」


 まさに天真爛漫という言葉を体現、いやどちらかというと声現せいげん?させたかのような、少女の可愛いらしさと江戸っ子のような厳つさを上手く合わせたような声高な声だった。


 そう話す声の出所に目を向け、"誰かがいる"という安堵と"誰なのだろう"という不安が入り混じる心と頭を諭しながら声主こわぬしを探す。


 聞こえてきた部屋の奥の方を挙動を荒くしながら覗くように目を這わせているとまたもや聞こえてくる。


「このさびれた"書肆しょし"に立ち寄るのは、暝殘めいざんのじじぃぐらいだとおもってたんだけどさ!」


 そう言われて首を傾げる。


「うんうん!何処ぞにある首振り人形のように頭を動かすね、お姉ちゃんは!良い!良いよ!私は好きだ!眼鏡のお姉ちゃん!」


 部屋奥から聞こえては来るが身姿どころか影すらも揺蕩たゆたっていない。

 するとその声の、一体何処をしきりに見回しているんだい?

 私は此処だ!下だよ!と言う声が聞こえ、足元に目を移す。


 すると其処にはまだ小学1〜2年生ほどの女の子が向き合い立ってこちらを見上げていた。


 小柄な女の子。

 1mにも満たない身長の華奢な体、髪の毛は全体的に短く前髪は真ん中より少し右寄りから掻き分けられ、おでこが見える様に流れている。


 横の髪は耳にかかる程度切り揃えられ、内側に巻かれた髪に畝るうねる様に、外に跳ねた髪が混ざっている。

 後ろからは結んでいるであろう一束の髪の毛が腰辺りまで伸びて毛先を遊ばせていた。


 髪色は鮮やかな朱とは言えず、どちらかというと朱殷しゅあんに近しい、まるで乾いた血のような朱に染められた芭蕉布ばしょうふを彷彿とさせる。


 掻き分けた朱殷の髪の奥に見える両目は鮮やかな朱を魅せていた。

 続く口元は三日月みたく開き上から八重歯が2つ顔を出す。


 赤い眼と八重歯も相まって"愛嬌"という言葉を顔に貼り付けたような笑顔だったが、その実、髪色と目の奥から覗く黒も手伝って、纏う雰囲気は"暗澹あんたん"といった様だった。


 それを見るなり驚きに腰を引かれ後退りをしながらも、引き攣った声で"ひゃっ"と変な声を捻り出した。

 

 僅かに眼鏡が微動する。


 その反応が楽しかったのか、無邪気な可愛げのある笑顔で笑う。

 その屈託くったくのない笑顔を浮かべながら、さらに話しかけてくる。


「かわいい声を上げるね!お姉ちゃん!驚かせてしまったぜ!ごめんね!」


 その言葉を紡ぐ口は確かに開き動いているが、声の出所は先の本棚から聞こえてくる。

 まるで高度な腹話術に触れた様な感覚に襲われていた。


 この目の前の朱殷の女の子の出現ですらも驚きを隠せずにまたたいでいるにも関わらず、また次の困惑が後ろから足をさする。


 ピトッ。


 冷たく柔らかい、細い腕2つが左足に絡みつく。

 そして顔が太腿辺りに近づいて髪を、脚と頬で挟み込んだ。


「ッッッ」


 あまりに突然で唐突で卒爾そつじな接触に咽喉が声を引き止めて胸の中に押し込め、心臓だけが加速する。


 透き通る湖の様な、か細くも綺麗な声が朱殷の少女の声の方向と対する方向から聞こえてくる。これまた腹話術に似た錯覚をおこす声の飛び方をし、耳を包む。


「僕…お姉さん…好き。」


 その言葉と感触の接近で、目線を下に向けると,そこには朱殷の少女ととても似た容姿の青髪の華奢な男の子が脚に寄り添っていた。


 青髪と言っても真っ青じゃない。瑠璃るりが少し混ざる深い紫みむらさきみの強い青、綺麗な瑠璃紺るりこん色の髪の毛が鼻筋の上辺りまで伸びていて。その隙間から優しい鮮やかな蒼い眼が上目で覗いている。


 左右の髪は内巻きに耳の下から頬にくる様に巻かれている。

 後ろ髪はやはり朱殷の少女に似て一束の縛られた髪の毛が腰のあたりまで伸びてひっそりと顔を覗かせていた。


 朱殷の少女が瑠璃紺の少年?少女?に話しかける。

 

あざねはすぐに人間にくっつきたがる!まるで濡れ落ち葉だ。」


 それを聞いた瑠璃紺の中性的な少年がより強く旭の脚を握り、擦り寄った。



 目の前に立つ朱く明るい笑顔と、蒼の優しく添い寄る童子達に、可愛さと困惑が入り混じった様子の顔色を

浮かべていると本棚の廊下の奥から灯が漏れ始める。


 目線を奥に向けた先には帳場ちょうばを照らす一本の蝋燭ろうそくの火。

 一尺程の蝋燭立てに乗り、上から帳場を揺れる炎で照らし出す。


 灯りの漏れ方から見て畳間は、他にも

部屋の四ツ端に、帳場で燃えている蝋燭と同じ物があるのだろう、端から灯りが漏れていた。


 奥の帳場をじっと見ていると、朱殷の少女が声を出す。


「気になるかい?うちらの主人だぜ!丁度よかった。」


 そう言うと旭の右手を握り、身体を帳場の方に

向けて指を指す。


 ずっとそこにあったのか、いつ出たのかわからない黒いもやが帳場で揺れる。その黒い煙の様な影から無数の黒鳳蝶くろあげはがひらひらと飛び回る。

 その蝶に目を取られていると、いつの間にか帳場に座る人影があった。



 中奥に一本立っている蝋燭の灯が中央にいる人物を照らし出す。


 其処には端正な顔立ちの、人形を具現化した様な人が片膝を曲げて,腰を据えていた。


 所々跳ねた後ろ髪とかき分けた前髪は狼を思わせる。

 襟足が鎖骨あたりまで伸び、横髪は耳がかろうじて見え、右の耳朶みみたぶからは細長い銀塊ぎんかいのピアスが顔を覗かせている。


 青みが少し混ざる透明感のある白い肌。

 それに乗っかる薄い唇、と日本人とは思えないほど高い鼻の上に、長いまつ毛が乗っている吊り気味ながらも二重瞼の大きい目からは、金剛石にも似た大きな瞳が光を受け白銀に輝いている。


 続く撫で肩に掛かるのは、先程まで舞う様に飛んでいた黒鳳蝶が何匹も描き彫られている、レース質の黒いカーディガン。


 その内側は鎖骨が見えるほど緩めた、白いワイシャツを着ていて、下は黒今細身のパンツを履いている。

 そのか細い腕を覆う、袖口の広いカーディガンから覗く手に握られているのは銀と黒を基調とした煙管。

 朱殷の少女に"主人"と呼ばれたその人が目線を帳場の上に広げてある巻物を見ながら、旭に言葉を向けてくる。


「おや、君をまだ出した覚えはないのだけれど黒闢こくびゃくを"解いた"時に覗き出たのかな?」


 そういうと目線を磨り硝子の戸へ移す。すると淡とした表情に冷徹れいてつな笑みが宿る。


「あぁ、来訪者だったとは。すまないね。雰囲気が似ていたものでね…。今のは忘れておくれ」


 白銀の瞳が旭を見つめて微笑む。


「い、いえ勝手に入ってしまってすみません。あの…此処…外に纏屋書店って書いてあって、聞いたことがあったお店だったのでつい…。そ、そしたらこの子達が…」


 旭の言葉を聞いて主人と呼ばれている狼の様な格好の良い女性が答える。


「前から知ってくれているとは、嬉しい限りだよ。私はこの書店の店主をしている詠狡疑と言うものだ。」


 「其処にいる2人は私の僚属りょうぞくの子でね。偉く翻弄ほんろうされていたようだね。珍しいお客に燥いだはしゃいだのだろう、許してやってくれ。」


 ん?と首を傾げる旭。瑠璃紺の少年の頭を撫でながら周りの本棚に綺麗に敷き詰めてある巻物に目を向けて回る。


 そんな旭を見て店主が続ける。


「並んでいる物語達が気になる様だね。まぁ逆も然りなのだけれど。」


 旭が焦りと申し訳なさが混じり合った声で答える。

 

「はい…巻物なんてあんまり見たことがなかったので…。珍しいですよね、巻物しか置いてないなんて…。お洒落というか不思議というか。」


 そう呟く旭の指が本棚をゆっくりとなぞる。

 それを聞くと、"そうだね"と返し、店主が続ける。


「此処は物語を紡ぐお店だ。売ったり、追体験をさせてやれるわけじゃないが、紡がれるのを待っている"物語"達の住まう場所なんだ。」


 一通り説明を聞いた後、旭は店主の眼と視線が繋がる。


 その眼は、少し青みが混ざる白銀の金剛石のような瞳が光を弾き綺麗に輝いていた。

 まさに見るものを魅了・魅惑・魔魅まみを含み惑わすような惹かれる瞳だった。

 するとゆっくりと口角が上がり問う様に話す。


「此処にきたのも何かの縁だ。本が好きなら尚の事ゆっくり見ていくといい。君に"紡いで欲しい子"もいる様だから。」


 そう紡ぎ出す店主の表情は薄氷のように冷たく、だが微笑むように優しい顔していた。

 その言葉はスッと不思議な程自然に旭の頭と心に沈んで溶けた。


 腑に落ちような、まるで何か突っ掛かりが解けた様な表情を浮かべ旭は自分を挟む本棚を右上から眼と手でなぞり見ていった。


 全てそそられると言えば唆られる。いやそそのかそうと不思議な雰囲気を纏う蔵書、巻物…。違うその言い方は些か失礼だ。

 物語達は其々あったが、旭を呼んだ物語は其処にはない様だった。


 さっきまで眼に宿っていた翹望ぎょうぼうの光は、期待の笑顔と共に少しずつ削れけずれ消えていく。

 その時朱殷の少女…いみなが本棚を見る旭の下から首を出す。


「姉ちゃん!右になければ左をご覧よ!本棚は1つじゃないんだぜ!?」


 そううながされ、旭の胸と背中の位置が入れ替わる。すると視線を投げた棚の二段目のちょうど真ん中辺り。

 1つの巻物が薄暗いこの古書店の中でもはっきりとわかる程に紫色のほの暗い光を纏い放っていた。


「む、むらさき…?」


 そう呟く旭を見て、字と諱が嬉しそうに、そして不敵に笑顔を浮かべる。


 すると店主が、前後の本に囲まれ不思議な顔を浮かべる少女を見て、小さな声で呟く。


「やはり君か、その子を呼んだのは。まだ草稿そうこうの半ばだと言うのに…。」


 え…。

 と旭が聞き返す声を聞くと、魅惑的な笑みを浮かべ語り返す。


「見つかった様だね。見えたのだろう?"色"が、手に取って読んであげてくれ。君以外の視線は、気に召さないみたいだからね。」


 そう微笑む店主から紫に仄光ほのびかる巻物に眼を移す。


 ゆっくりと巻物を解き、流れる様に語られる文泉ぶんせんに身を投げ水紋の様に広がる言葉達に、ゆっくり浸る様に紡ぎ始める。


 もう旭には周りの声は聞こえていない…。

 だが最後にたった一言、店主の声色に染められた言霊が旭の耳に入り込む…。



「君ゆえの物語…楽しみだね。"倅様せがれさま"…。」


















 ◯

 夜鴉鳴く頃 消人由無し。

(よがらすなくころ、しょうじんよしなし)


 この言葉と共に"六花ろっかしもの声"と呼ばれる時期に差し掛かる此処、北海道の空には御召鼠おめしねず色の雲帯うんたいが広い冬の地にまるで絨毯の様に敷かれていた。


 その空を埋め尽くす鼠の群衆を見上げながら煙管と、口からでた紫煙を纏わせ佇む不思議な人物が1人。


 狼を思わせる毛先が銀に染まった黒髪と、銀に光を放つ金剛石にも似た眼、薄い唇と高い鼻、青みが混ざる白い肌はこの周りを囲む銀世界に、1つの絵画のように綺麗に馴染んでいる。


 白の襟付き、ボタン留めシャツの上から黒鳳蝶が全体に彫られた手広の黒カーディガンを羽織り、黒のスキニーを履いている。


 その人の右肩には紫に光る眼を持つ鴉が一羽。


 飛ぶ前の準備と言わんばかりに翼をくちばしで軽く突き、少し広げて見せる。

 

 

 凡そ1メートルは下らない程の全長の、大鴉というより此処まで大きくなると最早怪鳥という言葉がしっくりくる。


 その黒鳳蝶を纏う女性は肩に乗る、大きな鴉に少し首を引き、顔を向ける。


 「さぁ、行ってくると良い…。これからは"君の時間"だ。」


 その言葉を聞いた鴉が紫の眼で、御召鼠の空を熟視する。その奇奇怪怪とした身姿から覗く眼には妖惑・思惑が宿り、その隙間から少しばかりの溺惑できわくが漏れ出ているように影を覗かせる。


 そして空へ勢いよく飛び立ち、紫眼の夜鴉は天蓋を覆うネズミの腹の様な雲に溶けて行った。




 ◯

 場面は変わりとある海沿いの街にある屋台へ移る。

 現代では数を減らし見る事も少なくなった屋台居酒屋。

 少し小汚いその出立ちは、此処"古平ふるびら"の町の古き良き、その中に物悲しさも混ざる風情に一役買っていた。


 黄昏の夕日と宵の闇が入り混じり、そして入れ替わる不気味な時刻。


 夕日が小波を立てる海に映り、2つの太陽は陰と陽、暁光ぎょうこう曙光しょこうの様に、対にしてつがいのような光景が広がっていた。


 時が経つにつれ光を失う夕日の明かりを背負うように屋台居酒屋の提灯が光を放つ。


 その屋台で熱燗を煽る1人の女性…。

 この寒空の下では熱燗が程良く喉と胸を温め、心と頭も仕事の荷を下す。

 齢25程の屋台に最も似付かわず、近寄らずの年齢層の女性だった。


 その屋台には大将とその女性客の2人きり。

 なんてこともない噂話を酒のアテにしていた。


 大将が女性に話しかける。


「にしてもよく来たね。若い子が1人で…。その格好を見るに、仕事終わりってわけじゃないだろうに」


 青のスキニーに首と顎を隠すほどの首周りが高く囲んでいる黒いパーカーを身につけた女性が返す。


「はい。この時間の此処の景色が好きでゆっくり見ていて…」


 今日も来たら貴方のこのお店がやっていたのでと呟きながら落ちていく夕日と上がる夜月よづきを眺めて熱燗を煽る。

 大将が海の風景に目線を投げながら女性に1つの話題を投げかける。


「なぁ、嬢ちゃん…。この黄昏時からいぬの刻なんて呼ばれる時刻までに起きてる最近の怪事件は知ってるかい?」


「ん?はい、あの夕方から夜にかけて人が行方不明になっているって言うあの…」


 最近よく聞くよなぁと呟き大将は続ける。


「あぁ、これから訪れる時間…21時頃はな、よく

  "童消え入る、戌四ツ刻。

(わらべきえいる、いぬよつどき)

 なんて呼ばれる事もあるんだがね。」


 人は怖いもの見たさで恐怖を覗く、というが大将も類に漏れず、この話を嬉々として語り続ける。


「この時刻がまた、厄介みたいだ。一度は聞いたことあるだろう?

 "草木も眠る丑三ツ刻"

 あの忌々しい時間とまでいかないがね…。」


 そう語る大将に耳を傾けていると、右の方から大きな鴉の鳴き声が響き渡る…。


 その鳴き声は、しゃがれていてまるで死のふしに立たされた女性の叫喚きょうかんにも似た声だった。


 その鳴き声はまるで真横で鳴いているように聞こえ、心臓が早鐘を打つ。

 即座に右の道路に目を向けると、海と山を隔てるように続く道路のそばに建てられた電柱におおよそ三歳児程の大きさをした大鴉がこちらを見ながら鳴いていた。


 その大鴉…………。

 大きさもそうだが異様な箇所は他にあった。

 その眼だ……。その眼は紫に染まっている。

 それが夕日の朱を取り込み朱殷しゅあんに変わって、辺りを見渡していた。


 はやる鼓動を落ち着け周囲を見ると、夕暮れのあかねが夜から漏れた濡羽ぬれば色に塗り込められていた。


 その薄暗い情景に混ざり、右の方から道を歩いてこちらに来る人影が一人。

 見姿は一言にまとめると美青年といった風貌だったが、その立ち姿には何処か違和感が混ざる。


 まずはその服装。その格好は大正時代を思わせる学生服を身につけ、左手には学生帽のひさし握られている。

 そして腰までたれた黒マントを首から掛け、それがひらりひらりと風を掴む。


 前髪は右目の上辺りから分かれ左に流れていて、横髪は耳に掛かる程度。

 頭の上からは跳ねる癖っ毛が2つほど遊んでいる。


 その白くサラリとした髪がなぞる顔は、まさに眉目秀麗と言った所だろう。


 小さく細い鼻に、少し薄広い口。そして白い肌はまるで能面の様に不気味なほど綺麗に見える。


 その整った顔の部位と白い髪に挟まれ見えるのが違和感の要因、いや原因なのだろうその眼だった。


 左眼はまるで何度も繰り返し染められた黒みがかった深い紫、それだけでも極稀ごくまれな眼の色なのだが。


 異様なのはその右眼……。


 白目に挟まれた瞳孔は濃い紫の縁に覆われ、その中に黄色に光る。

 まるで猫の目のように縦細い線の入った水晶体が瞳孔の中からこちらを見ていた。


 それと目が合うと背筋をなぞられた時のような悪寒が走る。


 その黄色く光る猫のような目をした青年は屋台に向かって歩いてくる。

 そしてお酒を飲んでいる女性の隣に腰掛けた。

 数秒の沈黙が周囲を取り囲む。大将がそれを切り裂くように声をかける。


 「いらっしゃい。まずは飲み物、どれにいたしましょう?」

 と、その少年に声をかける。


 まずはお水をもらえますか?と返した後、女性の方に話しかける。

「こんばんわ、隣失礼致しますね。」

 丁寧に断りを入れるその声は、芯がある中にも包み込むような耳触りの良い、声高な優しい声だった。

「あ、はいどうぞ。」

 近くで見ると、先程まで感じていた不気味な雰囲気は整った容姿の影に紛れた。

 電柱に留まる鴉が気になり目を向ける女性に青年が寄り添うように声を掛ける。

「気になりますよね、あの鴉。矢鱈と大きい。先程の鳴き声もまるで断末魔のようですよね。」

 青年が鴉から女性に向き直す。

「そ、そうですよね。始めてみましたあんなに大きい鴉。私もびっくりして。特に、そうあの鳴き声。鴉じゃないみたい……。」

 それを聞いた青年は嬉しそうに顔を歪ませ。

 貴方は勘が鋭いようですね、と話す。

 その後話題は例の怪事件の話に移り、その訝禍山いぶかざんと名乗った青年が語る。


「知ってますか?最近札幌市に始まり、隣町を含む周辺地域で起こっている、人が消える怪事件。」

 

「はい、知っていますよ。1ヶ月で3人の方が犠牲になってるみたいですね。共通点もない人たちが。怖いですよね…。そう、本当に怖い……。」


 まさに神隠しと言った所だろうな、と少ししゃがれた声の大将が話に入る。

 

 神隠し……そう言われるのには前兆と言うべき2つの理由があった。

 1つは、厚い黒雲が太陽の光さえも遮り、深海のような限りなく黒に近い紺が空を覆う。

 そしてもう1つは失踪者が出る町を徘徊し飛び回る、紫の眼をした不吉で不快で不詳ふしょうな大鴉……。

 この不気味で気味の悪い2つの前兆が1つの噂となって広がっていた。


 ――夜纏い鴉が鳴く頃に――。


 その文言を口にした訝禍山は先程鳴いていた鴉を一瞥いちべつし、女性を見直す。

 

「行方不明、いや此処では神隠しといったほうが合っているようですね。

 その被害者の関係者達は総じて同じ事を言うようですよ。消える直前、不気味な大きい鴉が、死ぬ間際の女性の悲痛な叫びのような鳴き声を……」

 

 出していた。そう語る青年は不気味の一言だった。

 思わず怖気づいて、女性は身を少し引く。すると青年は徐ろに立ち上がり、屋台の暖簾のれんに手をかける、そして。


「先程から居るあの鴉……眼が紫ではありませんでしたか?」

 

 では、失礼しますね。そう言うと夕日も沈み、完全に夜が訪れた古平の町に姿を消した。

 流石に不気味な雰囲気はお酒の力を持ってしても振り払えるものでもなく、屋台は店終い。

 女性も帰路についた。時刻は21時、戌の刻と呼ばれる時間になっていた……。



 ◯とあるアパートの一部屋。ベットから女性が起き上がる。

 

「うーん…変な夢見ちゃったな……」

 

 昨日飲んだ屋台があった場所からすぐ近くの山道。横には琴平神社へと続く道が口を開いている。

 その道に沿って赤い鳥居を抜け歩いていくと枝分かれした一本の獣道が見えてくる。

 自然と体が引っ張られるように獣道に吸い込まれていく。

 聞こえていた波の音はもう聞こえない。

 開けた林の中に2メートル程の木像が立っていて、それと彼女が向き合っている夢だ。

 

 ぼーっとする頭とは真逆で体はテキパキ動き、出かける準備を整える。

 扉を開けて出て見る外は昼を少し過ぎた頃だったがやはり厚い雲に覆われ灰色が世界を染める。

 なんと無しに向かうのは昨日呑んだ屋台居酒屋の周辺。

 夢で見た山道だ。確信は無いがきっと夢で立っていた雑木林も、あの木像も近くにある。そんな気がしてならない。


 日が傾き始めた頃彼女の姿は夢で見た琴平神社の山道の上に影を落としていた。

 体は神社の方に向いている。投げる目線の先には赤い鳥居と神社に続く道。

 反対からは波の音が少しばかり聞こえた。まるで神社へ背中を押すように……。


 高々とした木の群れ中に続く枝分かれした獣道が招くように繋がっている。

 誘われるように進んでいく。光が木々に遮られて、尚の事薄暗くなってくる。

 暫く歩くと色も塗られていない簡素で質素な3メートル程の鳥居がありそこをくぐると、周りを木々に囲まれた円形の開けた土地に出た。

 

「ここは、夢で見た…。それにあの木像見たことあるわ。猿田彦の大神象に似ている。昔から祭りの時に見てたから間違いないわ。

 にしてもなんでこんな所に。社もないし雨ざらしなんて…。」


 そう、彼女は知っていた。別名太陽神としての一面も魅せる土地神。猿田彦大神さるたひこのおおかみ

 

 彼女の言う通りここ古平町には昔から罪やけがれを忌み火で焼き祓う祭りが年に1回あるのだ。

 

 ――天狗の火渡り――。


 天狗の面を付け、猿田彦大神にふんした人間が、噴き上がる大焚き火の上を何回も行き来し罪や不浄を祓う、火渡りの神事が。


 目の前に立つ木像は、言い伝わる等身大の猿田彦大神の全身像だった。

 腰に貝の緒と引敷ひっしき坐具ざぐ。 足に脚絆けゃはんを着けた山伏やまぶしのような格好に錫杖しゃくじょうを持ち立っている。

 背中から天狗のような鴉の羽根が大きく生えていた。


 顔は大きく、伸びた鼻に裂けた口から除く2つの歯。

 そこから本物のように生えている顎髭。

 目は……見えなかった。

 その猿田彦の木像は黒い布で目隠しをされていた。


 「っひ・・・」


 彼女に恐怖と恐懼きょうくが混ざる悲鳴を上げさせたのはそれだけではなかった。


 その猿田彦像の後ろと左右には小柄な鴉の死骸が血溜まりを作り、血沼ちぬまに濡れている。

 死に伏している鴉に挟まれる像の目の前には多分、大人のものであろう肘から千切られた右腕があった。

 所々血肉が飛び出し、裂け割れた骨を覗かせながら置かれている。


 そしてその腕の隣には不気味な神隠しの噂とともに広まっていった鴉……。

 あの紫の目をした不吉で不幸、不祥で不浄な鴉が降り立ち彼女の方を見つめていた。

 羽根をたたんでいるにも関わらず、4~5歳の幼児程の大きさをしている。


 悲惨で苦惨くさんで無惨な惨状の舞台に立つ大鴉の嘴には、赤黒い粘りのある糸が引いている。


 眼の前に広がる惨劇と鴉の紫眼に睨まれ、体は震え、冷や汗が流れ、足から力が抜けていく。

 そう、恐怖と狂気が彼女の体を蝕みむしばみ犯す。


 すると鴉は大きく黒い翼を広げ、宙に舞い上がり姿を消した。

 飛び去る鴉の姿を眼でなぞり、森の木々へ消えて行くのを見ていたその時、後ろから最近聞き覚えた声高で耳当たりの良い細い声が彼女を呼ぶ。


「こんばんわ。やはり貴方が呼ばれたみたいですね。嬉しい限りだ。」


 優しく柔らかい声でも、此処の不気味かつ薄気味悪いこの場で声をかけられたらそれはもう意識を持っていかれるほど驚くものだ。

 まさに、心臓が飛び出そうになる程。


 早鐘を打つ心臓と固く閉じられた口から漏れる息を整えながら咄嗟に後ろを振り向く。

 そこに居たのは、昨日の訝禍山と名乗った青年だった。

 貴方は、誰で一体何者なんですか。そう返すと不敵で不穏な笑みを浮かべ答える。

 

「昨日お会いした訝禍山というものです。」

 

 昨日にも増して不気味で不可解な雰囲気が青年を纏う。



「貴方は言葉を信じやすいようだ。そして信心深い。だからこそ此処に来ることができた。他の3人のように。」


「貴方は、今しがた神隠しにあった。そして今から神隠しに成る。いや、一部に…と言った方が正しいですね。」

 

 そう話すと同時、周囲を取り囲む森の木々が風も吹いていないのにも関らずガサガサと揺れだした。だんだんと大きく揺れて枝が、葉がしなり、こすれ合う音が大きくなっていく。

 「え、なんで急に・・・こ、怖い!怖い!」


 狼狽ろうばいする女性を横目に訝禍山がクスリと笑う。揺れ動く木々に恐怖を感じて目を閉じ、耳を塞ぐ。

 遠くに鳴っている森の揺れる音に混じり別の異音が聞こえてくる。

 

 ケタケタケタケタケタ

 

 その音は耳からと言うより、頭の中に直接打ち鳴らされているように聞こえる。

 恐怖心がさらに増したが、それよりも音の出所が気になり好奇心に負けて目を開け周りを見渡す。

 

 いつのまにか揺れていた木々は落ち着つき、擦れる音は小さくなっていたが、それが尚の事あの異音をはっきりとさせた。ついに彼女の目線はその異音の原因である異形を捉えた。


 恐怖で足先から下半身、上半身にかけて動けなくなりとうとう顔まで引き攣るつる筋肉が言うことを効かなくなっていた。痙攣にも似た震えを起こす咽喉から捻り出したような僅かな悲鳴が漏れる。


「ヒッ……た、助け……」


 そこには、神隠しにあったであろう3人の姿があったが、凡そ人と呼べる形はしていない。

 体の所々がついばまれ、その傷口からは血が流れ落ちている。

 抉られている箇所はうみが混じる黄色い瘡蓋かさぶたに塞がれ血は止まっているが、肌は赤黒く鬱血していた。

 それに加えうじが肌を食い破り這い出て、地にぼとり、ぼとりと落ちている。


 もう生きているとは思えないが囲むように三方向から出てきた人だったのであろう”それら”は、立って体をビクビクと小刻みに揺らしている。

 

 その死体の異常、いや異様さはそれだけではない。立ち方もおかしい。見えない糸に操られている人形のように力なく垂れ下がっていた。


 その死体は総じて手足の指が根本から食いちぎられて甲までしかなかった。そして背中からは鴉の翼が左右から生えている。その翼には食いちぎられたであろう指が節々に混ざり朱殷の液体に塗れていた。

 顔には天狗の御面が被されて首は据わってないかのようにゆらゆらと、だらんだらんと顔が普通じゃない方向に向いている。


「い、嫌だ。き、気持ちが悪い。わ、私が何をしたっていうの!」


 狂気狂乱、そして錯乱手前の彼女の悲痛な叫びを聞き、その天狗のような死体達は肩を揺らしまるで新しい仲間を見つけて笑うように震えだす。

 頭の中で響いている異音は尚一層大きく鳴る。


 ケタケタケタケタケタ……ケタケタケタケタケタ。


 怯えきって両手で頭を抱えうずくまった姿の彼女を見て、訝禍山が狂った笑みを浮かべ雄弁ゆうべんに語る。


「目隠し、猿田彦、鴉、天狗、此処に伝わる伝承もそうですが、いくら猿田彦の神が太陽神の1柱として信仰されていたとしても、人間が貴方を含め4人も神隠しに合うほどの力はなかった……。

 では何故此処まで大きい力になったんでしょう?

 そう、貴方も昨日、興味を惹かれていた噂ですよ。人間の言葉・言霊で、紡がれることで力を得た。」

 

 そう語る訝禍山は両手を広げ何かに魅せられている様に恍惚こうこつな表情を浮かべていた。


「あぁ、もうすぐ、貴方も神隠しの一部に成る…。」


 その言葉を吐いた瞬刻、蹲った彼女の体は高く宙に浮いて磔にされたキリストの様な体制になっていた。

 その十字架に引っ張られた体がよほどきついのか、苦し紛れの呻き声が漏れる。


 宙に浮いて最初に異変が起きたのは左腕だった。肘関節を中心に左右に捻られ、腕の肉が、筋が砕けた骨に裂かれブチブチと音を立てて血を撒き散らし捻じ切られた。

 彼女はあまりの苦痛に叫ぶ。それは絶叫であり号叫であり哀叫あいきょうだった。

 まさに叫喚にして喚叫かんきょうと言うべき惨状だ。


 その悲痛の叫びに重なるように別の泣き声、いや鳴き声が聞こえてくる。

 それは、幸か、不幸か先に飛び立った紫眼の鴉だった。

 鳴き声には怒気、威嚇、悲痛、蛮勇の感情が垣間見える。

 向けられる相手がどちらかまでは、鴉は語らない。


 その鳴き声の意味する、いや、意図する事はすぐに、わかりやすい様に目に見えて起こった。

 其の鳴き声に当てられたのか、周りの囲んでいた天狗面の死体人形達はそこには居なかった。

 彼女も縛っていた糸が切れた様に地に落ち、左腕の付け根を残った右手で抑え、摩りながら喘鳴混じりの悲鳴を漏らし泣いている。


 天に穿つ様に生える木枝に爪を立て、翼を折っていた紫眼の大鴉が彼女の顔の側に飛び降りた。そして残念そうな表情を浮かべる訝禍山を睨みつける。

 

「ほう、鴉…。貴方はもう"成った"モノの様だ。いずれは喰い・喰われると言うのに…そこまでして…。」

 

 一瞬鬼が宿ったかの様に口元が裂けた笑いを浮かべ踵を返し森の中へ姿を消す。


 いつの間に、木々の揺れは止まり静寂が辺りを包む。

 鴉は彼女の方に跳ねて、振り返りその大きい嘴を彼女の頬に当てる。

 まるで娘に頬擦りをする母親の様に…。


「やはり、守る事はできなかったようだね。退ける事はできたようだが…。」

 

 そう呟く声に彼女は力なく目を向ける。そこには黒鳳蝶の装飾が彫られたカーディガンを羽織り、銀煙管を片手で持った妖麗な美人が立っていた。

 疲弊しているからだろう、その美人の後ろに黒い靄が蠢く様に浮いている様に見えた。


 もう、声を出す気力も余裕もない。ただ地に身体を乗せて項垂れうなだれていた…。

 すると、ふふっと妖艶で蠱惑的な笑みを浮かべ、鴉に声をかける。

 

「さぁ、君の役目もこれで終わりだ。よくやったよ。」


 【こく びゃく かい じょう】。


 そう呟くと後ろの靄が、尚の事濃ゆくなる。

 蠢く闇に向かって鴉が飛び、黒に呑まれて消えてしまった。そしてその美女が彼女の方を向いて、薄い笑みを浮かべて語りかける。


 

「よく、頑張ったね。君は私の中で最良の扱いで生かそう…。まぁ、君が望むならの話、いや噺だがね。」

 語りかけると喉を鳴らしクックと口元を隠して笑う。



 

 ◯

 旭が夢中になって、その巻物を読み進めてどれだけ経ったのだろう。巻物の物語は、煙管を持った女性が鴉を闇に引き戻す所で終わっている。

 中途半端だ。あの腕を捩じ切られた女性はどうなったのか。あの訝禍山と呼ばれた男の子は誰なのか。

 どうも釈然としないし疑問が残る。もしかしてまだ未完なのだろうか。そう思いながら半分強制的に物語の世界から押し出された。


 少し残念そうにため息をつき周りを見渡す。そこは読み始める前にいた巻物に囲まれた文殿ぶんでん・纏屋書店ではなかった。

 周りは一面の黒。そう、漆黒だ。その黒の世界に白く蛍の様な淡く、小さな光が無数に飛び回っている。不思議と恐怖は無かった。旭が最初に口から出た感想は…。

 

「き、綺麗…」

 その細い声が漆をこぼしたような黒の世界に小さく薄く木霊した。 すると後ろから声が掛かる。

 

「これはまた意外な反応をしてくれるものだね。嬉しい限りだよ。大体の者、いやモノは恐れ、怖れ、そして畏れが先に来るというのに…。

 君は特殊、いや特別と言った方が正しいと見えるね。"呼んだ"物語との因果かな?」

 

 そう言われ振り返ると纏屋の店主が銀煙管を右手に持ち不敵で素敵な笑みを浮かべ、少し首を傾げこちらを見ている。両隣には青色と赤色の子供達が立っていた。

 

 そういみなあざねと呼ばれていた子供達だ。確か、青髪の子が字。赤髪の子が諱、と呼ばれていたはずだ。

 

「すまないね、驚かせてしまったね。その物語はまだ途中なのさ。だから色々不安定だ。そうとても…だがどうしてもその子は君に読んでもらいたかった様でね、だから止めなかったのさ。」


「何処ですか…。貴方の書店に居たはずなのに。暗くて、新月の夜みたい…」

 

「ほう、君は綺麗な喩えたとえをしてくれるね。感性はいつするものがあるようだ。」

 

 赤髪の諱が元気よく語る。

「君のね!お母さんが"呼んだ"んだぜ!やっと会えたね!ほら!すぐ後ろにいるぜ!感動の再開ってやつだ!」

 

 いや、そんな訳はない。なにせ旭の母はとある夜交通事故に遭い、そこから行方不明になっている。

 何故今、母の存在が出てきたのかと思案している旭の後ろから錆びたネジを閉めるような、不気味な不協和音が聞こえてくる。そして生暖かい風が背中を押す。

 

「ギギギギィ…」


 それを感じた旭は確信する。後ろにとてつもなく、そしてとんでもなく大きい動物がいる。多分異音と異臭はその動物の息遣いなのだろう。

 確かに身体が恐怖に染まるのを感じてはいたが、"お母さんがすぐ後ろにいる"その言葉が気になり後ろを振り向こうと体を反らす。

 

 その瞬間、旭の左右を挟んで迫る物があった。それは大きく開いた鴉の嘴だった。

 

「お母…さ…」

 

 そう口にする間も無く旭は鴉に喰われて死んだ。


 頭と太もも、そして足先を残し全て大鴉に噛み切られて血溜まりだけが足元に広がっていた。

 食った鴉の紫の眼からは大粒の涙が流れ落ちて、それは周囲の黒に溶けて消えていった。

 残った頭は両足の間に落ちて血に濡れている。それに向かって周囲を飛んでいる白い蛍の様な光が無数に集まり包み込んだ。

 

「これで寂しくはないはずだぜ!なぁ字!」

「うん、可愛い顔してた。ねぇ諱」


 そう掛け合う丹青たんせいの双子に挟まれ纏屋の店主は巻物を広げ、そっと手を離す。胸の前に巻物が浮いて揺れている。

 そこに暗闇から現れた硝子ペンで文字を書いていく。

 そのインクはこの空間から切り取られた様な光沢のある黒が混ざる紺だった。硝子ペンに彫られている月の模様がキラリと光る。

 一通り書き終えたのだろう。口角がゆっくり上がり "旭喰い鳥ひくいどりか…"と声を漏らした後、呟く。




 

 


「夜纏い鴉の"泣く"頃に…」。

 

 

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次章

https://kakuyomu.jp/works/16818093078327644761

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夜纏い鴉ーよまといがらすー 褥木 縁 @yosugatari

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