第6話


 当別町の春日町にある築70年の木造古民家の、南向きの庭から青い煙が立ち昇っていた。家の周りの落葉樹はあらかた葉を落とし、穏やかな風に、まるまった葉が時折からからと転がる。

 砂川福子は、竹箒で庭の隅から落葉を掃き集めて、焚火にくべていた。掃いた先から、木に残った葉が一枚一枚と舞い落ちてくる。それを億劫がらずに、1回り掃き終わったらまた、隅に戻り箒を運ぶ。

 座り仕事でくたびれた足腰を、屋外で動かすのが気持ち良いのか、竹箒を両手で持って伸びをしている。今手掛けているのは、客が若い時に着た紬の袷の八掛を、年齢相応の地味な色合いに変える仕事だった。札幌のMデパートの呉服売り場から依頼されたものだ。

 圭二郎とフミの花村夫妻が福子を引き取ってから、今年で15年になる。福子が和裁を習い始めたのは、13年前、18歳の時だ。今では、師匠から紹介されたMデパートの専属縫子のようなもので、知り合いに頼まれれば空いた時間でなんでも縫うが、デパートの仕事がメインで、一心に完成まで集中する。仕事が丁寧で、約束通りに仕上げるので重宝がられていた。寝食を忘れて没頭するので、周りの者が気を利かしてやらなければ、時には膝が固まり立ち上がれないほどになる。

 朝食の用意を除けば、早朝から縫い仕事に掛かりっきりだったのを、昼食前、圭二郎が気を利かし、福子に庭を綺麗にしてくれと声を掛けたのだった。


 少し開けた窓から、煙の臭いがフミの寝室に入ってきた。

「福子さん焚火をしているのね。焼き芋をしているのかしら」

 フミのベッドのそばに肘掛け椅子を置き、本を読んでいた圭二郎が顔を上げる。フミの声が小さいので、話が始まると、椅子をベッドのそばに引き寄せた。顔を寄せ合い内緒話をしているような塩梅になる。

「昼に、君に食べさせると、張り切ってサツマイモを放り込んでいたよ」

「今頃になると、福子さんの焼き芋が食べられる。福子さんが焚火を好きだなんて、ここに越してくるまで知らなかったわね」

「社宅じゃ、落ち葉焚きは出来なかったからな」

 圭二郎は立ち上がり、窓から外を眺めた。寝室の出窓は家の東側に面しており、イチイやシャクナゲの隙間から当別川沿いの土手が見渡せる。辺りは一面枯れ色に染まっている。春日町は住宅街だが、花村家は角地に建っており、土手まで畑が広がっているのが見渡せた。景色に奥行きがあり、広々とした空間に民家は見えない。川までは500mほどで、畑や川岸は圭二郎が子供の頃の遊び場だった。


 圭二郎達が、ここ当別へ越してきたのは、花村家の家督を継いだ兄修一郎が、4年前に事故で亡くなったからだ。

 花村家は、当別を開拓した岩出山伊達家の普請を担当した家来で、開拓時代からの農地を維持していた。修一郎は三代目だったが、夫婦には子がなく、兄嫁の清子が圭二郎に後継を委託した。

折しも、圭二郎は55歳、定年退職の年齢ではあった。役職についていたので海北信金であと10年は働けたのだが、実家の仕事が嫌いではなかった。

 跡を継いだ兄を見ていて、人に使われて頭を下げる仕事に比べて、自然相手の根競べ、知恵競べと汗まみれの労働の自由さを、かねがね羨ましいと思うことが多かったのもあり、圭二郎は農園を継ぐことになった。

 昭和56年に札幌から春日町へ越してきた。フミの実家は東町にあったので、あわただしい数年だったが、話はとんとん拍子に進んだ。祖父が建てた頑丈な家を修一郎が住みやすい温かな家に改築していたのも幸いだった。

 当別町との関わりといえば、長男の秀二は大学卒業後、本人の強い希望で当別町の役場に勤めており、既に家庭を持って自立し根付いている。独身時代は修一郎夫婦の世話になっていたのも縁だった。


 フミのベッドは、電動リクライニングベッドで、背もたれや膝の

下が上がるようになっていた。今は30度くらいの高さに上がって

おり、窓からの景色を眺められる。

「葉が散ると、広々として、なんだか淋しいくらい」

 フミが髪をかき上げる時、パジャマの袖がめくれて痩せた腕があらわになった。

「向きを変えようか」

 圭二郎が傍に戻ると、フミは首を振る。

「自分でできるわよ」

 コントローラーで頭を下げて、ゆっくりと横向きになった。長い間背が上がっていると腰や尻が痛くなるのだ。

「福子さんが、和裁で独り立ちできてよかったわ。豊沼の斎野先生のお陰ね。あなた会ったことないでしょう。斎野先生に」

「会ってないよ。あの頃は自分のことで忙しかったからな」

「そうね、いろいろあったわね」

 フミは福子を引き取った後の、様々な出来事を思い出すのが日課になっていた。ベッドから見渡せる範囲の景色の中や、家の物音、匂いに季節を感じ、福子や子供たちの存在の大きさを感じ、自分の病の進行を感じっ取っていた。


 砂川の社員住宅で、福子と同居するようになって間もなく、フミは福子が、読み書きが苦手なのを知った。事故の影響なのかもしれないと、どうすればできるようになるかを探った。自分で手に取ったものは読み取り理解している様子だが、声に出して読めと言われると読むことができない。雑誌を読んで声を上げて笑っていても、何が書いてあるの? と尋ねられると答えられない。

 自分の名前を書くのができない。フミは膝を交えて書き取りを教えた。せめて自分の名前や住所が書けないと困るだろうと思ったのだ。フミの言うとおりに書かせようとすると、強く緊張して手や顔に汗が滲む。笑っているような泣きそうな表情で俯いたきりになり、先へ進まなくなった。しかし、フミがほかのことに気を取られて何も言わずにいると、福子自らフミの手本を指でなぞって転記できる。

 福子を引き取った頃、圭二郎と相談して、和裁か洋裁を習わせようと考えていたが、読み書きに支障があると可能だろうかと不安が募った。

 読み書きの練習とほぼ同時に、フミは福子に家事全般を仕込み始

めた。台所仕事は、記憶をなくす前に経験していたのだろうか、少し説明するだけで、こなせるようになっていった。それなりに手先が器用なところがあり、仕事は遅いが丁寧だ。

 フミが得意な洋裁を教えると、見様見真似の段階までは何とかなった。ミシンも踏めるようになり、簡単なエプロンだのハンカチだのは製作できるようになった。

 採寸、型紙おこし、デザインとなるとフミ自身も独学だし、教えること自体が難しかった。圭二郎と話してやはり、専門家から学んだ方が福子には良いだろうと結論した。


 福子が花村家へ引き取られた年の暮れ、賢一は自宅へ帰ってきた。冬休み中滞在するかと思っていたが、正月明け三日には札幌へ戻った。受験勉強に身を入れると説明していた。が、その後の休暇にもほとんど帰宅せず、口に出して言ったことはないが、福子がいるせいかもしれないとフミは思っている。

 一方で秀二は、兄のように札幌への進学を望まなかった。親の側にいたいという気持ちが強いのか、友人たちが皆地元の高校へ行くからかははっきりといわない。賢一ほど欲がなく成績もそれほど振るわないのもある。それで、滝川の進学校を受験した。

 合格して砂川から通っていたが、そんな矢先の昭和46年秋、圭二郎の栄転が決まった。滝川、砂川を拠点に空知地方の顧客を開拓し、新規支店の立ち上げに10数年携わってきた圭二郎が、海北信金の滝川支店、支店長になったのだ。

 滝川に越した家は、それまでの社宅とは打って変わって、立派な家だった。部屋数が多く、圭二郎の書斎は勿論のこと、秀二と福子に1部屋ずつが当たった。賢一が帰ってきたときにも使えるように開けておく部屋の他、客間や応接室があった。

 ほかにもフミと福子が仕事部屋としてミシンやアイロンを出しっぱなしにしておける部屋を確保できた。

 引っ越しが決まると、フミと福子は、半月の間、砂川の家と新居の掃除と引っ越し準備に掛かりっきりになった。


「支店長ともなるとこんな広い家に住めるのね。福子さんがいてよかったわ。一人じゃ掃除が大変」

 引っ越した直後の夕餉の後のことだ。秀二と福子は居間のソファでテレビを観ていた。家事に関しては、福子にはもう指図はいらなくなっていた。気働きが効き、フミが望むことは何でもできるようになっていた。小柄ながら体力もあり、今回の引っ越しはフミには

一番楽だった。秀二はすでに一人前で、荷も運ぶ。部屋の片付けもする。

「フミさんも魔女だったらよかったのに」

 テレビから顔を離さず、福子は応える。毎日見ている『奥様は魔女』というアメリカのコメディが大のお気に入りだった。18歳になっていたが、魔女の奥様の真似をして秀二とふざけあう姿は、幼げで、年を感じさせない。秀二も似たようなもので、声変わりしている声でひきつるように笑っている。

「秀二。通学が便利になった分、勉強に集中できるようになってよかったわね」

 フミの皮肉にも、秀二は無頓着だ。

「お任せください」と言いつつ、テレビを見ながら主人公のサマンサのように鼻を動かす練習をしている。引っ越し疲れで叱る気になれず、二人のそばで、テレビを見ながら転寝をしてしまった。


 引っ越しを終えて、新年度から福子に習い物をさせようと、フミは福子と滝川市内の洋裁や和裁を教えている教室を訪ね歩いた。個人がやっている教室もあれば、専門学院みたいなところもあった。が、教室の様子を見がてら、二人で教室の内容を調べに行き、福子の特徴を説明すると、最初の2,3軒は断られてしまった。他を当たってください、とか、他に向くことがあるのでは、などと体よくあしらわれて引き下がらざるを得なかった。いわば門前払いだった。

 次から、福子を連れて行かなかった。目前で断られるのが可哀そうだったし、特徴について食い下がりたかったからだ。本人の前では言いにくいことが多い。

 個人で教えている小さな教室を何軒か廻ったが、良い返事は一つも貰えなかった。いたずらに時間が過ぎ、フミは焦り始めた。

他に何か、習えるものがあるだろうかと、新聞の広告を見たり、友人に訊ねたりした。一生食べていくためには手に職が必要なのだ。

 福子は、これがしたい、とフミにねだったりはしない。本人にしたいことが何かあるのか尋ねても、首を横に振るだけで遠慮しているのか、欲がないのか、自信がないのか、その辺が不明だった。

 残雪がある時期に始まった教室探しは、引っ越しが終わり、滝川市内をあきらめ、砂川、新十津川、と範囲が広がって行った。


 6月半ば、フミは中央バスで砂川へ向かっていた。車窓から三か月ぶりの砂川の街を眺め、豊沼で降りた。

2日前、丸加商店の加藤から、電話があったからだ。

「柿崎さんから、花村さんが福子さんのために、裁縫の先生を探し

ていると聞きました」

「そうなの。いろいろ事情があってなかなか見つからなくて」

「事情は聞きました。着物を縫う和裁でもいいのですか」

 加藤は福子の読み書きの問題を承知したうえで電話をよこした。

砂川で暮らしている頃、加藤は何度か花村家を訪れて、福子や秀二と会っている。福子にとって加藤は、柿崎や圭二郎と同じく掛け替えのない恩人だ。福子は口に出しては言わないが、加藤や柿崎が来宅すると一生懸命に接待する。その様子は生真面目で几帳面で痛々しいくらいで年齢より幼く映った。

「もちろん。着物でも、洋服でも教えてくれるなら」

「母の同級生のお母さんで、豊沼で和裁を教えている人がいます。斎野タミという人です。福子さんのことを話したら会ってみても良いということでした」

「福子について、あの、少しは知っていますか」

「僕が知っている程度のことは母から話していると思います」

「ありがとうございます。早速会いに行きます」

 加藤は、フミに、斎野タミの家の住所と電話番号を教えた。


 訪問の約束を電話で取りつけて、加藤に教えられたとおりに駅から少し戻り、豊沼神社の前を折れ奈江豊平川にかかる橋を渡った。橋が終わってすぐのところの右の家、と聞いていたが、表札を掲げていない。悩んだが、玄関先に立って声をかけた。遠くで声が聞こえて暫く待つと、がらりと引き戸が開き女が顔を出した。

「こちらは斎野さんでしょうか」

「ああ、花村さんね。待っていたわ。いらっしゃい」

 痩せぎすできりっとした顔立ちの、70歳ぐらいの小柄な老女だった。どうぞと言われて玄関に上がると、男物の長靴が置いてある。一人暮らしと聞いていたが、来客だろうかと、上がり框でためらって「お客様でしたら出直してきますが」と言った。

「うちの用心棒よ。その長靴。女の一人暮らしって物騒だからさ。さあ、あがって」

 居間に入るとソファセットやサイドボードがあって、洋風な設えだった。サイドボードの上の大きなフランス人形は、真っ白なウェディングドレスを着ていてフミの目を惹いた。

「洗濯物も、一緒にいるわけではないけど息子の下着を一緒に干すのよ。それに、酒の空き瓶を外に置いたり、ね。近所の人も、一人暮らしだとは思っていないかも」

 フミは、「お世話になります」と持参した菓子を渡した。斎野は両手で受け取って頭を下げ、隣室との境の襖を開け、仏壇に供えた。鐘を鳴らしてすぐ戻ってくる。

「うちの人甘いもの好きでね、喜んでいるよ。私は辛口だから盆にしか、甘いものは供えないからね」

 そういって笑って茶を淹れてくれた。気さくでさばさばした印象は好感が持てる。

 フミは福子のことを包み隠さず説明した。なかなか教えてくれる人が見つからなくて困っていると正直に伝えた。斎野は口を挟まず最後まで聞き取って言った。

「昔の女は、見様見真似、手真似で覚えて一人前になったものさ。女に学問なんて縁のない時代もあったろう。和裁は奥が深いから簡単とは言わないが、まっすぐな気持ちと根性さえあれば常識的なことは出来るようになると思うよ。今までの話では、その福子さんは大丈夫そうだ。預かってもいいよ」

 一つ返事で引き受けてもらえて、拍子抜けするほどだ。何か但し書きでも付くのではないか、とどぎまぎしながら待った。

「最初は週3回来てもらおうかな。どの程度の覚え具合か見定めたいからね。その後は本人の根気と、進み具合で決めるとしよう。ある程度のことができるようになれば、家で稽古を積めるから間合いも開くさ」

 月謝は、回数に関係なく初心者はなにがしと言い渡された。早速翌週の月、水、金、午前10時から昼までとなった。

 帰りの道すがらフミは、斎野の威勢に押されて何か説明が足りなかったのではないかと考えたが、先生見つかってよかったという気持ちの方が強く、滝川に着く頃は気持ちが浮き立っていた。道端の西洋タンポポまで輝いて見えた。


 福子が家の中に入ってきた物音がする。圭二郎が時計を見上げるのに釣られてフミも見上げる。11時半になっていた。

「それで斎野先生ってね、とっても厳しかったのよ。いい方なんだけど態度が容赦ないの」

 福子が、豊沼の教室へ通うようになった頃のことを思い浮かべて、懐かしさが先立つ。

「最初のひと月はなんてことなかったんだけれど、ふた月目から、お稽古が週2回に減って、福子さんが時々部屋で泣くようになったのに気が付いたの。私には何も言わないのよ。教室を休むともいわないし。たまに夜、隣の福子さんのお部屋から啜り泣きが聞こえてきたの」


 最初に異変に気づいたのは秀二だった。フミに「左手の甲が痣になっている」と言ってきた。二人でテレビを見ている時、頻りに擦っているのでどうしたのかと思ってこっそり見ると、青痣になっている。

「姉ちゃん、手をどうしたの?」

「何でもないの、お掃除している時ぶつけたのよ」

 そうかと思ってそれきり忘れたが、またしばらくすると違うとこ

ろに痣ができている。場所も角度も違っているが、前回と同じ、硬くて細いもので叩いたような跡だった。またぶつけたのかと思いからかうと、福子は何も言わずに部屋へ引っ込んでしまった。それで、フミに相談した。

「おかあさん知っていた?」

「気づかなかったわ」

「見えないように隠しているんだ」

 秀二なりに、それとなく様子を見ていたのだ。


「それ以来気を付けていると、ほんとに手の甲に叩かれたような痣があって。何度も重なるから福子さんに直接質したの」

 フミは自分の手の甲をさすりながら話していた。血管が浮き出て、肌の色は少し黒ずんで見える。眼差しは当別川の土手に向いており、目に青空が映っていた。

「福子さんは私の剣幕に驚いたのだと思う。正直に話してくれたわ。『フミさんが教えたことが足手まといになっているから忘れなさい』それから『一人前になりたかったら、初心者でも3度目はないのよ2度で覚えなさい』と言われ『2回目までは叱られるだけだけど3度間違ったら、竹の定規で叩かれる』って」

 フミの黄色みがかった目に涙が滲む。

「素人の私が教えたことが原因で、叩かれているなんて、理不尽でしょう。3度縫い直しをすると布が傷むということかしら。打つ理由はわからない。で、私はどうしたらよかった?」

 フミは痩せた右腕で腹をさする。妊婦のようにぷっくり下腹がでていた。圭二郎は、初めて聞く話に頷くばかりで何も言えない。

自分が滝川の支店長になりたての頃は、ほとんど家を顧みていなかった。フミと福子が上手くやっているようなのを、安んじていただけで、会議や出張、本部との折衷、擦り合わせで日々を費やしていた。夜の会食もほとんどが接待で、気が抜けなかった。消防団を退団して、柿崎と飲む機会が減ったのが一番残念なことだった。

「福子さんはどうしたいのって訊いた。私は斎野先生に直談判して暴力を止めさせたかったのよ。でも、福子さん、自分から言い出さなかったから、どう考えているのかなと思って」


「福子さんはね『斎野先生には何も言わないで、私、頑張るから。』って。ね、あの子にはこんなに根性があるのかって、その時初めて知ったの。今では笑い話のようだけど、あの時は深刻だったのよ。でも騒がなくてよかった。福子さんも本気で頑張ったし、斎野先生が、素質を見抜いて仕込んで一人前にしてくれた。『プロは基本が一番大事』というのが口癖だったんですって。手の甲も、次の年に

は痣が出なくなった」

 フミが体の位置を直してゆっくりと仰向けになると眼の中の青空が消えた。圭二郎は傍の椅子に腰かけて、フミの話に耳を傾けている。農園の仕事がない時の最近の時間の過ごし方だ。

自宅から2㎞ばかり西へ行った材木川の近くに持っている農園は、収穫が一段落して、今はクリスマス用の花卉が温室の中で育っている。父の代から作業を手伝う呉という老夫婦が、材木川傍に住んでおり温室の温度管理などをしてくれている。

「近頃気になるのは、福子さんが何となく悲しそうな表情をすることなの。あなた気が付いていた?」

「悲しそうなって、いつから?」

「当別へ来た頃かしら。時々、感傷的というか悲嘆にくれてというか、うまく言えないけど、あの内気の底に何かうら悲しさの澱ようなものが溜まっているのではないかって思っているの」

 部屋がノックされて、福子が顔を出した。外の空気に当たったせいか、頬が艶々していた。

「お昼ができました。お2人分、ここへ持ってきていいですか?」

 圭二郎とフミが2人同時に頷いた。揃えの動作がおかしいのか福子は照れたように肩をすくめて引っ込んだ。

「福子さんには聞こえなかったわよね。小声で話していたから。ところでね、あなたに話しておきたいことがあるの。お昼ご飯の後に、聞いてもらえる?」

「なんだい。あらたまって言うなよ。緊張するじゃないか」

「今までの話の続きよ」

 福子がワゴンに2人分の膳を乗せて運んできた。フミには粥とみそ汁。焼き芋の崩したものと卵焼き。ほうれん草の胡麻和え。圭二郎には、サツマイモが半本とご飯、後はフミと同じだ。

 圭二郎は、ベッドの背もたれを上げて、膝下も少し上げた。フミの背中に薄い枕を差し込み、福子の膝の上にベッド用のテーブルを置く。

「福子さんありがとう。さっき焼いたお芋なのね。嬉しいわ」

 フミは、「頂きます」と手を合わせ、箸を持つが滑り落としてしまう。圭二郎が拾い渡す。福子は部屋を出た。箸の先にサツマイモを付けて、口に運び「美味しい」という。

「焚火の味がする」

 粥は五分粥だ。ゆっくりだがスプーンを口に運ぶ。圭二郎はフミを見ながら食事をとる。圭二郎が食べるからフミも口に箸を運ぶ、といった具合だが、なかなか量は減らない。それでも、圭二郎が食べ終わるまで、動作は続き、一緒にご馳走様と手を合わせた。

 食が細いので、週3回、かかりつけ病院の看護婦が点滴をしに来

ている。フミはすい臓癌だった。


 7月末の秋野菜栽培のための農作業が始まった頃から、フミは背

中の痛みを訴え始めた。腰でも悪くしたのかと整形外科を受診したが、骨にも筋にも異常がないと痛み止めと湿布を処方された。湿布で気がまぎれることもあったが、材木川の作業小屋で動けなくなっ

た。

 圭二郎は、少し離れた畑にトラクターを入れて堆肥や肥料を漉き込んでいた。小屋の前にフミの赤いシビックが停まっていた。こしらえた弁当を届けがてら、家で使う野菜を収穫して帰ろうと、大きな籠を持って来ていた。その籠を抱きしめるように作業小屋の中で蹲っていた。呉が、昼休みの準備に小屋に入って発見した。

 呉はフミを助け起こそうとしたが、腹痛が強いのか体を丸めたままで脂汗をかいて唸っている。家へ走り妻に救急車を呼ばせて、畑へ走った。小柄で身軽とはいえ70過ぎの身体は悲鳴を上げ、ゼイゼイ言いながらしゃがみ込み、フミの様子を伝えた。身体がついていけず圭二郎が小屋へ急ぐ後ろから「救急車を呼んだ」と叫ぶしかなかった。

「フミ、どうした。腰でもやられたか」

 痛そうに腰をさすり唸るばかりのフミを、駆け付けた圭二郎が傍に跪いた。真っ青な顔で、体を丸めて痛みに耐えて応える。

「どうなっているのかわからないけど、骨ではないみたい」

 救急車は、当番病院の末広町の診療所へ入った。30分しないうちに圭二郎は診察室へ呼び入れられ、医師からここでは見切れないので札幌市立病院へ行くように勧められた。同じ救急車に乗って、そのまま札幌へ向かう。応急処置をされたフミは、痛みが引いたのか白い顔をして目を閉じている。


 札幌市立病院の救急内科で慢性膵炎と診断されて即入院となったが、精密検査をした結果末期のすい臓癌と分かった。圭二郎は医師から余命三か月と告知された。

 賢一も賢一の妻も、生まれたばかりの孫の女の子も見舞いにやってきた。札幌の銀行に勤めている秀二は、毎日仕事帰りにやってきた。福子は、フミの身の回りの世話と圭二郎の世話を一心にしていた。圭二郎は堪えた顔つきでフミのそばを離れない。彼らの深刻な顔を見て、フミは、悪い病気だと悟ったが口には出さなかった。

 ただ、家へ帰りたかった。当別の、のんびりした空気の中へ帰って、静かにゆっくりと考えたかった。58歳の自分達や、子供達、孫、福子のことを。

 フミの治療方針を話し合う上で圭二郎は、フミに告知せざるを得なかった。フミの癌は発見が遅かったため、予後が期待できないが、どうするのか。医師は今後起こり得ることを説明した。対症的にできることも、できないことも。

「抗がん剤を使わないと、少しはしゃんとしていられる。それなら私は、薬は使いません。元気と言ってもシビックを運転してカフェでお茶できるとは思っていないわ。でも、できることは最後まで自分でします。あなたに迷惑かけると思うけど、先に倒れた者勝ちよね」

 3人で治療方針を話し合っていた時、フミが宣告した。笑ってみせるフミを、医師がいなければ圭二郎は強く抱きしめたかった。

 フミの願い通り、9月には退院ができた。週1回、掛かりつけ医の往診と、2週に1回の札幌市立病院の受診が条件だった。

 

 午後、圭二郎は肘掛け椅子へ坐った。フミは食後の疲れかうとうとしている。

 医師が言った余命の三か月は過ぎている。食は細いが食べていた。点滴で何とか維持できているという状態だった。腹が膨らんでいるのはまた水が溜まってきているのだ。市立病院受診の度に水を抜くようになって、先月からは受診が週1回に増えていた。溜まるのがだんだん早くなっている。

 農作業が一段落したおかげで、フミのそばに日がな1日いられるのが嬉しかった。衰えていくフミを見るのはつらいが、フミの中には気丈な何かが宿っていて、傍にいてもこちらの気持ちが暗くなることは少なかった。暗いものを見せることは出来なかった。

「もう長くはないわ。わかるの。だから、私のお願いを聞いて欲しいの」

 掛物をそっと直した時、フミは目を開けいきなり話し始めた。圭二郎には、こんな時が来るのではないかと覚悟はあった。

「何でも聞くよ。言って御覧」

 午後になると、穏やかな小春日和が一転して風が出てきた。東の空に向かって雲が流れていく。白い雲がだんだん灰色になり、空を覆った。

「こんなに早く、重い病気になってごめんなさい。そしてありがとう」

 圭二郎は思わず息を止めた。

「まだ先があるの。ちゃんと呼吸をしてください」

「だが」思わず口答えのようになってしまった圭二郎の日に焼けた頬が赤らんだ。フミは笑顔を向ける。こんな時に笑えるのか、と思ったが黙って手を握った。

「福子さんを幸せにしてやって。あの子はもう31歳よ。私はとっても幸せでした。今度は福子さんを幸せにしてやって。あなたの責任よ。花村圭二郎、助けたあなたの責任よ。私は、福子さんにも、あなたにも、責任を果たしたわよね」

 何も言えずに傍にいる圭二郎に、フミは言葉を繋ぐ。圭二郎は、何度も首を横に振りながら、福子がいたずらに歳を重ねていくのを何かと気に病んでいたフミの言葉を反芻していた。

 結婚という、人の幸せの一つの形を福子にも提供したがっていた。福子が1人でも、食べていく手段は何とかなったと思しき頃から、フミは福子の結婚を考え、いろんな提案を圭二郎にしていたが、その相手には加藤勝もいた。加藤が望んだからだ。その話が立ち消えたのは、圭二郎が反対したからだった。酒屋に、読み書きそろばんができない娘を嫁がせることは出来ないという理由だった。

その理由が表に出ると、嫁ぎ先を見つけることができなくなった。当人が探し出すのがベストだったが、本人にはその気が全くなかった。

 秋深い11月末日、奇しくも福子が救いだされたその日、フミはこの世を去った。

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