第5話


「  拝啓 お父さん、お母さんへ

  

 砂川福子さんについての僕の考えを書きます。


 正直な気持ち、いきなり他人を家に引き取りたいというお父さんたちの提案に腹が立ちました。

どんなわけがあるにしても、記憶喪失で、言葉が話せなくて、身内がどこにいるのかもわからないまま、家に引き取るなんて無謀だと思いました。

 記憶が戻って、帰るところが見つかるという保証はありません。帰るところがなければ家にずっといるということです。

大人になったらどうするのか。手に職をつけられるのか。

一生、生活保護で暮らすのか。

 そもそもお母さんが言う薬の件ですが、病院が言うように、興奮して人に乱暴を働きケガをさせたという事実は、薬が必要ということではないですか。

薬を止めたのはいいけれど、興奮しやすくなるということはないのでしょうか。

 もう一つ、女子というのも困ります。僕も秀二も同世代の女子と一つの家で暮らすという経験はなかった。

 いま僕は薫おばさんの家で、麗子さんと一緒に暮らしていますが、女子というのは僕の想像を超える世界に住んでいると実感しています。身内との暮らしでもこうなら、他人の女子とどう接したらいいのか。

 もしも、何かあったらどうするのだろう。


 お父さん、お母さん。これが僕の本心です。


 居心地のいい我が花村家に、他人を入れたくない。四人で暮らしてきた花村家が、搔き乱されるのが嫌です。いつもお父さんやお母さんには、僕や秀二の方だけを向いていて欲しい。帰省した時全力で面倒見て欲しい。だから、嫌なのだ。


 つまり、僕は子供で、僕のことしか考えていませんでした。

お姉ちゃんができると喜ぶ秀二もしかりです。

心配なことは山ほどありますが、お父さんとお母さんを百パーセント信頼します。


 救助した女の子が、より良き人生を築けるようにと願い、できることなら、間近で幸せにしてやりたいという気持ちを尊重します。


 僕は、お父さんとお母さん二人が力を合わせれば、どんな障害も困難も克服できる、砂川福子さんを幸せに資することができると思います。

 育てられた僕が保証します。二人にはその力があります。

お母さんの温かさで、砂川福子さんが言葉を取り戻すことができたように、二人の愛情で福子さんはいろんなものを取り戻し、僕たちが育つように育っていくと信じています。

 新しい花村家になるのでしょう。


 お父さんお母さん、いつもありがとう。

                9月22日 月曜日

                       敬具 」

                                               

 賢一は札幌へ戻ってすぐ書いたのだろう。賛成の手紙を受け取った夜、フミは圭二郎と居間のソファで並んで話し合っていた。

「賢一の言うことにも一理あると思う。私が心配すべきは子供たちや福子さんが大人になりつつある今だわ。賢一は何かあったらどうするんだろうって書いているけどそれはあれよね。男と女の。そこまで考えていなかった。なんだか自信が無くなってくる」

 フミの頭に、突然、高等女学校専攻科へ通っていた17歳の自分が浮かび上がった。今でも鮮明に記憶していることがある。圭二郎との馴れ初めだ。当別神社の大木の木陰の涼しさも、ミンミンゼミの姦しい鳴き声も、土砂降りの雨の日の床下のことも、つい最近の

ことのように記憶していた。

 圭二郎は便箋を手に考え込んでいた。

「俺の考えは何も変わらないよ。自分の子供を信用している。ばかなことをするようには育てていない」

「でも、出来心ってあるじゃない。信用しているということとそれは別物かもしれない」

 賢一の手紙には魔法の力があった。賛成していると書いていながら、反対意見を言われたような気がしてくる。フミはだんだん、気持ちが落ち着かなくなってきた。年頃の子を抱えているのに、他人の女の子を家に入れるということは、親としてどうなのか。考えが甘かったのではないか。動揺が膨れ上がりフミは、圭二郎はどうして平気なのだろうと返って猜疑してしまう。

「あなただって、高等科の夏休みに帰省した時、私と」

 圭二郎は、ゆっくりと丁寧に手紙を畳んで封筒に入れテーブルに置いた。腕を組んで、ほどいてまた組む。おもむろに体を廻しフミの方を向いた時、動作に反して圭二郎が苛立っているのが、顔つきに出ていた。

「フミ、だからどうだというのだ。福子を引き取ることと俺たちのことが何か関係あるのか。福子はそんな女じゃないだろう」

 フミの話を早口で強く遮った。

「そんな女じゃないってどういう意味? 私がそんな女だったというの? そんな女ってどんな女よ」

 フミは思わず知らず声が高くなる。


 25年前、専攻科2年の夏休みに、高等女学校の卒業担任の飯塚先生と中学校の山本先生の結婚祝いを兼ねた、2校の同級会があった。各人が飲み物や菓子を持ち寄り、幹事が参加者たちの小遣いを集めて買った小さな置時計を手に、女学校からは5人、男女別学だった中学校からは男子7人がめいめいの担任の新居に集まった。

 2人が住む教員住宅は中学校の運動場に面し、平屋の二軒長屋で風通しの良い家だった。玄関は開け放しにしてあり、風がレースの暖簾を揺らしていた。下駄箱には鬼灯の花籠が飾られ、昼には奥さんになった飯塚先生が、ちらし寿司を作ってくれた。

 その日、圭二郎とは中学の卒業以来久しぶりに再会した。小学校は同じで、地元なので長期休みなどに顔を合わせることはあった。12人のうち札幌へ進学したのは圭二郎だけで、専攻科へはフミともう一人、残りは農家の跡取りと郵便局、バス会社、国鉄などへ勤めていた。

 地元に残った学友は普段から親しくしていて、圭二郎は少し孤立気味だった。担任が気を使って札幌のことを話題にすると、一頻りやり取りはあるが、間もなく地元の者同士の話に先細りになってしまう。17歳前後の若い男女が久しぶりに出会ったことで、話は弾んだり、滞ったりを繰り返していた。地元に残らず、札幌市や、道外へ就職した同級生もたくさんいて、消息が知れるにつれて、昔の儘に戻って行く。

 かつての圭二郎は細身の長身だったが、日に焼けてたくましい青年になっていた。フミは初めて男性として意識した。中学時代は他の男子とは違い、異性を感じさせない中性的な穏やかさが好ましいと思っていた。

 圭二郎は、廻りと話をせず静かに箸を動かしている。フミはちらし寿司を頬張り、向かい合って座った仲の良い女友達とお喋りをしながら、目立たないように右横にいる圭二郎を見ているつもりだった。こんなにも濃い眉だったか、切れ長の目が涼し気だったかと。

「僕の顔に何かついている?」

 圭二郎が小さい声でフミに尋ねた。フミは顔を真っ赤にしてしどろもどろに言い訳にもならないことを口走った。

「ついていない、ついていない。首がなんか調子悪いから、こっち向かなくちゃ、って……」

 圭二郎はフミの慌てぶりを見て目で笑った。廻りは奥さんが運んできた西瓜に気を取られていたのでこのやり取りに気づいたものはいなかった。

 担任宅を出て、地元の男子は集まってそのままどこかへ流れた。フミは女友達に誘われたが、用があって一人帰路に着いた。当別神社を通り抜け、自宅がある東町へ向かうのが一番の近道だった。

 雲一つない晴天で気温は高く、境内に入る頃はセーラー服の胸もとに汗が流れた。神社の本殿を取り囲む木陰は別世界のように涼やかだ。ミンミンゼミの合唱が降り注ぐ。道々、圭二郎のことばかり考えていた。立ち止まって汗を拭いていても、フミに微笑みかけた優しい目を繰り返し思い浮かべた。あの時慌てた自分はどう映っただろう。思い浮かべただけで頬が熱くなる。

「清水フミ。顔が赤いぞ」

 圭二郎がいつの間にかすぐそばに立っていた。

「花村さん。どこから出てきたの」

 フミの顔はますます赤くなる。

「出てきたって、僕の家は春日町だから君の後ろをずっとついてきた」

「ついてきていたの? 山本先生のお家から?」

「方角が同じだからしようがない。大橋を渡っている時から後ろにいた。振り向いたら声を掛けようと思っていたけど、君はひたすら真っ直ぐ前を向いて歩いていた。感心したよ」

 途中変なこと、例えば欠伸とかくしゃみとか、独りごととかしなかったろうかと思い返してみたが、ずっと圭二郎のことを考えていたのだから、見られて困るようなことはしていない筈だった。フミは安心して気が楽になり溜息をついた。圭二郎がそれを聞き取ってまた目で笑った。

「ここは涼しいから休んでいかないか」

「いいけど。でも少ししかいられない。今日はお母さんがいないから晩御飯を作らなければならないの」

 母親は、実家の両親が高齢で週の半分は手伝いに行っていた。圭二郎は腕時計に眼をやった。

「今4時だ」

 フミは圭二郎の誘いに舞い上がっていたが、父や祖父、妹の薫の4人分の夕食をパパっと作れるわけではない。

「30分位なら何とかなると思う」

 圭二郎は「良かった」と言い、本殿横の、丸太を半割りにしたベンチへ誘った。2列に並んだ雨ざらしのベンチは、色あせて割れ目が入っている。足元の土に直に置かれた穴のあいた空き缶の底には、たばこの吸い殻がいくつか入っていた。

 話はもっぱらフミの今後のことで、今の状況では、卒業しても就職はせずに、家事手伝いをすることになると話した。圭二郎は帝国大学への進学を考えているという。

 この日から夏休みが終わる8月末まで、2人は神社で何回か会った。最後の日はあいにくの曇天で、厚い雲から煙のような霧が降り注ぐ。相合傘でいつもの丸太の上で話をしていると、雷が鳴り始め、辺りの古木が急に冷えた風にうねり、雨が降ってきた。二人は傘を畳んで本殿の高い床の下へ避難した。すでに半濡れで、地面に跳ね上がる水から非難するために、床下の奥へと入り込んだ。

 二人並んで地面に座り、夥しい雨脚を眺めた。止むのを待つ間、雨の音を聴き、水溜りの撥ねを見詰め、薄暗い中互いの温度を感じていた。

「フミ、僕と付き合って欲しい」

 フミはまっすぐ圭二郎の目を見詰め、この夏の間、待っていた言葉へ深くゆっくり頷いた。会う回数が重なるほどに息が合い、互いの気質の近さを実感していた。中学時代には想像もしなかった互いの将来を考えるようになった。

 二人は接吻した。圭二郎はフミを両腕で抱き、フミは圭二郎の背に手を回した。圭二郎の唇はフミの唇から静かに離れ、また唇に戻ることを繰り返した。

「ここで誓う。君を幸せにする」

 少しすると、圭二郎は無理やり体を離して荒い息を吐きフミの肩を抱いた。二人は乱れた息が整うまでじっと雨を見ていた。


 熱情的な最初の出来事が今の2人の始まりだった。フミにとってそれは甘いだけの思い出だったが、圭二郎の言葉は、そういう女だからこうなったということを言っているのか。真摯に神様の下で誓ったのに。

「言い方が悪かった。福子は病気の女の子だ。療養も兼ねて引き取るんだと言いたかった」

 納得しないまま二人は話を止めた。声が大きくなってきたためか秀二が降りてきたのだ。居間の扉越しに声を掛けてきた。

「お母さん。どうかしたの」

「何でもないのよ。ちょっと勇み足」

 そのまま洗面所へ歯を磨きに行った秀二を意識して、フミは深呼吸をして小声で言う。

「私に責任は取れない。福子さんには何の罪もないけれど、息子達を年がら年中見張っていることも出来ないし、そんな事、したくもない」

「怒らないでくれ。謝っただろう。福子が薬漬けになったのを見て、二人で話し合って決めたことだよ。さっきも言ったけれど、俺の考えは変わらない。福子と子供たちの年齢は先刻承知だ。福子に良い環境を与えたいだけだ」

 圭二郎の思いは微動だにしない。ソファから物憂げに立ち上がり秀二に声を掛け、寝室へ上がってしまった。

「もしなにかあったらどうするのだろう」

 この一言は、すでに賢一の意識の中に、若い女性への不安や渇望が綯い交ぜになって存在する証拠だろう。そんな重荷を自分は抱えてやっていけるのか。

 残されたフミの体の芯には、神社で雨宿りしている時に圭二郎に口づけされた時の身体の火照りが蘇ったままだった。福子や子供達の年齢を心配しているはずが、自身の心と体に影響を与えていた。冷静に考えなければならない。

 フミは裏口から外へ出た。裏の小さな家庭菜園の近辺からコオロギの合唱が聞こえる。ここに越してきて毎年秋になると、判で押したように奏で始める単楽器合奏。多分ファミリーなのだろう。薄曇りで月明かりはないが、虫の音に次第に心が穏やかになって行く。

 居間に戻ると、誰もいない虚ろな静けさがある。些細な行き違いから生じた心懸かりが、そこら中に沈殿していて重苦しい。自分の意志の弱さを嗤う。

 フミは冷蔵庫からビールの中瓶を出し、蓋を開けた。グラスは持たず、圭二郎と話をしていた居間のソファにどんと座ってビールをラッパ飲みした。目を閉じていると頭の中にアルコールが回る感触がある。酔うまでいかないうちに気持ちが落ち着いてくる。酒好きは父の影響だ。娘しかいない清水家で、母の長い不在の夜、父はフミと晩酌した。

 アルコールの中ではビールが好きだった。日本酒は甘いと感じ、ウイスキーは辛くて濃いと避けた。飲み方は父に鍛えられて乱れるまで酔ったことはない。酒の効用も父に教えられた。女は家庭にいるもの、酒は控えるものと決まっている時代なのに、だ。

 本当は息子がいればこうして酌み交わしたかったに違いない、といつも相伴して話を聴いていた。その父は、良い相手となっただろう義理の息子の、顔も見ずに亡くなってしまった。

 ビールの量が減るに従い心持が軽くなり、自分がどうかしていたのだ、と思い始めた。

「『うちはどういうわけかサッポロです』、乾杯」とビールの瓶を振り上げる。「僕らどういうわけかキリンです」という俳優のCMを見るたびに秀二が「うちはどういうわけか……」とふざけるので今では乾杯の度に使っている。心が解きほぐされた証拠だ。

「そうよ。私の温かい心が福子さんの声を引き出したのよ」

 ビールの喉越しの冷たさがフミの自信のなさをそぎ落とす。

「もしなにかあったら? そんなことしたらぶっ飛ばすわよ」

 残りの一滴まで飲み込んで、ビール瓶を床に置いた。父に感謝だ。酒の効用は心の抑制が取れ緊張をほぐすことだ。人間関係を滑らかするための妙薬だ、と教えてくれた。若さの危うさを、経験者として肝に据えた。


 翌日朝、圭二郎はフミが「大丈夫よ」と落ち着いた顔でほほ笑むのを見て安心したようだ。今日、柿崎へ福子の後見人になることを伝え、手続きを進めてもらうことにしたという。酒の力を借りて軌道修正したフミは、後見人と決まることで自分の覚悟が定まるのを待つ。

 迷いがなくなるとフミの行動は早かった。秀二に手伝わせて、空いていた玄関わきの四畳半の和室を福子の部屋に改造した。子どもたちが小さいころ使っていた玩具や絵本、衣服が仕舞われた茶箱などで埋まっていた。

「お母さん、これどうするの? 捨てちゃうの?」

 茶箱の箱を開けると、懐かしい匂いが立ち上る。ミルクのような茶葉のような、ふくよかな匂いだ。どの品にも思い出が詰まっている。いつか片付けようと思っていたが、手が付けられなかった。部屋を覗けば、座り込んで右の物を左へ動かしてまた元に戻すことを繰り返すだけになってしまう。

「傷んだ衣類は家の掃除に使えるし、玩具や絵本はお子さんがいる方に声掛けして持って行ってもらいましょう」

「玩具はいらないけど、絵本は処分したくないな」

 秀二は段ボール箱の一番上の本を何冊か手にしている。浦島太郎や桃太郎は、フミが毎夜のように2人の幼子に読み聞かせた絵本だった。表紙の淵は擦り切れて色褪せていたが、表紙を捲るとストーリーと自分の声が蘇った。

「そうね。居間の本棚に戻しましょうか」


 引き取ることを決めた9月末、あらかじめ計画していたように、夫婦で北川医師と面談した。退院までに、薬を切って欲しかったからだ。減らしていくのには時間がかかると言われた。

 それでも北川は、こまめに福子を診療して減薬に取り掛かった。花村と面談する都度、完全に断薬してからの退院を勧めていたが、ある程度目途が立った11月、残りは通院して減らしていくと決め、退院準備に入った。

 11月5日フミは福子を外出させて、初めて自宅へ連れてきた。住むことになる家と部屋を見せたかったからだ。この時は疲れないように子供たちには会わせず短時間で済ませた。福子は自室の勉強机に関心を示し、前に座って、手のひらで机の上を何度も撫でていた。

 2度目の外出は、退院が近づいているため、同居の練習を兼ねた顔合わせだ。賢一は15日、土曜日の夕方帰ってきた。翌日の午前中、フミは福子を連れてきた。居間のソファに4人で座って、福子と子供達の紹介をした。秀二は照れて、福子の顔をまともに見ないで頷いただけだ。賢一は「よろしく」と言ったきりで、後は黙って観察していた。様子を見ていたが、子供同士で会話をするきっかけがなく、居心地の悪さが居座ってしまった。

 あいにく圭二郎は職場の慰安旅行で、土曜日から奥尻島へ行っており留守だ。フミが福子を誘って立ち上がると、二人がほっとした顔で目を見交わしたのが見えた。

 台所へ連れて行って二人で昼ごはんの用意をすることにした。朝のうちに揚げの味付けや昆布と鰹節のだしは取ってある。献立は稲荷寿司とささみの澄まし汁だ。油揚げにすし飯を詰めるのをやって見せると、福子は器用に真似をし始める。初めてではないのが手先の動きから伺える。

 昼食は4人での最初の会食である。全員で食卓を囲んだ。静寂が重くて、すまし汁の出来具合を説明し始めたフミの声もすぐに小さくなった。音立ててはいけないように、秀二もすまし汁を静かにのんだ。食事が終わり、下膳して台所に戻った福子が大きく溜息をついた。フミは思わず笑ってしまった。子供達も溜息をついているかもしれない。

「フミさん、いつもこうではないのよ」

 自分が溜息をつきたいぐらいだったのだが、フミは福子に椀の洗い方を教え、片付けで気を紛らわせた。

 午後のお茶の時間、フミが居間のテーブルへ、ロシアケーキと焙じ茶を運んだところから様子が変わった。

「ロシアケーキ、大好き」と福子がテーブルについて少し大きな声を上げた。

「俺も」すかさず秀二が受けた。

「このナッツのが、美味い」と箱の中を指さしている。

「わたしもそれと、これが好き」

 福子が指さしたのはマカロンだ。ロシアケーキが好きだと知っていたので用意したのが良かったようだ。

「どこで食べたの?」

 フミはマカロンを皿にとってやりながら訊いた。

「病院で、退院した人に貰ったの。ケーキの名前は水色さんが教えてくれた」

 水色さんとはだれなのか、病院で水色の服を着ているのは看護助手だ。口がきけない間も、心の中にいろんなことを刻んでいたのだ。

 そこからは、自然に話が展開していった。秀二と福子が、甘い菓子の好きな物を並べ立て、和菓子派か、洋菓子派かと他愛のないことで話が続いていた。賢一はうっすら微笑み、福子を幼く感じたのか、言葉足りないところを補ってやっている。


 フミは3人の会話を聞くでもなく、傍に座ってほっと息を吐いた。圭二郎と福子との2回の面会の日を思い出していた。担当医師との最初の減薬の相談をした時と、後見人選定を終えて、正式に決定した時のことだ。2度目の時は柿崎も同室した。

 圭二郎が後見人になったことを説明し、退院して一緒に暮らしていこうと挨拶したが、福子からは質問も意見もなかった。何か望みはないか尋ねても首をかしげるばかりで、何かとフミの方を見ていた。自分の考えを言っていいかを迷っているのか、意見がないのかがわからなかった。しかし、花村家へ来ることを了承しているか、確認しないことには話は進まない。

「ずっと入院しているか、私と家へ来るか、はっきりしたお返事が欲しいの」

 フミの言葉に、まだ薬が残ってぼんやりした表情のまま、福子がやっとのことで口にした。

「ここから出たい。フミさんの家へ行きたい」

「私たち夫婦が、あなたのことを見守ることになるのは、わかった?」

「わかります」

 書類上の手続きが済んで、柿崎が席を離れた。三人になった時、福子が立ち上がって、深々と二人に向かって頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 同じように立ち上がって礼を受けた圭二郎の、ほっとした様子が見て取れて、フミはこれからの責任の重さを忘れ、二人のために喜んだ。


 退院当日、最初フミは福子の手を引いていた。振り返って砂川市立病院分院の建物を見上げる。

 やっと漕ぎつけた退院だ。福子も同じように振り返って自分が今出てきた建物を眺めた。11月末の玄関わきの花壇には、咲き残った黄色の菊が風に倒れて寒さに朽ちている。昨夜からのにわか雪と北風は治まり、薄雲りの晴れた日だが気温は低い。

 フミは風呂敷包みを一つ抱え、福子も一つ持っている。福子が気後れしないか心配で、玄関を出た時思わず手をつないだが、小さな子供ではないのだからと道順を説明しながら手を離した。

「そういえば、さっき病棟にお礼のお菓子を置いた時目を丸くしていたわね。何を思ったの?」

「ロシアケーキかなって」

「そうね、ロシアケーキが好きだったわね」

「大好きです」

 福子の吐息が白くけぶる。

「あれは文明堂のカステラだったのよ。またロシアケーキを食べましょうね」

 花村家へ引き取られると決まった頃から、再び簡単な会話ができるようになっていた。

 フミは、花村家の玄関前に着くと、福子に手を差し伸べた。

「ようこそ、花村家へいらっしゃいました。家族全員であなたを歓迎します」

 鍵を回し開け、扉を大きく引いた。

「お世話になります」

 小さな声で福子は言う。言葉が増えてきたのは薬の量が四半分になってからだ。眼差しに光が戻り、身の回りに気を使うようになったのは外出を重ねた頃で、二か月掛かって一歩一歩戻ってきた。興奮状態や乱暴とはおよそ縁がなく、内気な福子が戻ってきていた。

 家の中へ招き入れ、最初に福子の部屋へ案内した。2人で風呂敷包みを床に置いて窓辺に並んで立った。

 気温は低く、来る道々を照らしていた日差しが途切れ、にわか雪がまた振ってきた。花村家の庭は雪囲いが済んでいて、木陰には昨日の雪がうっすらと残っている。

 福子が救助されてから1年になる。フミは傍らの娘の肩を抱き、圭二郎の気持ちに思いを馳せ、収まるべきところに収まったと喜んだ。

 どんな素質を持っているのかは判らないが、これからこの子を仕込んで、一人前にしなければならない。女として幸せ多い人生が送れますように、順調に人生が送れますように。自分の役割の重さにたじろぎそうになるが、自らを鼓舞し祈った。

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