アパートで聞いた話/小川未明
ひとひら
第1話
そのおじさんは、優しい人でした。少年には、おじさんが、いつも何か考えているように見えました。少年は、おじさんの部屋へ行きました。
「なにか、お話をしてくださいませんか?」
「どんな話かね?」
「どんな話でもいいです」
少年が言うと、おじさんは、次のような話をしてくれました。
二、三日前の新聞のことだが、街の中央にビルディングを建設するということで、深く地を掘り下げていると、動物の骨が出てきそうだ。学者が調べたところ、およそ二万年も前の人間の骨で二十歳前後の女らしい。波に漂よい、岸に死体が辿り着いたことから、この街が海岸であったことが解かるそうだ。
私は、この記事を読んで考えさせられた。大和族より、もっと先に住んでいた民族であろう。そのような遠い昔から、悲しみや不幸といったものが人類には付きまとっていたのだから。いかなる災難か、あるいは、悩みからか、その女は死んだのだが、若い身でありながら人生の喜びも楽しみも十分に知らずして、だ。
幾十世紀かの間には、海が陸となったり、また、陸が海となったりして、驚くような事実があるに違いないが、それよりも、人間の生命の儚さというものを強く感じてしまったよ。いつの世も、一生を無事幸福に生きることは容易なことではないらしい。
下の部屋に住む娘さんをごらん。勤めに出る時には、お化粧をして、そのふうが立派なので人目には生き生き美しく映るので、さぞ、愉快な日々を送っているだろうと思うけれど、帰ってきて仕事をする時の姿を見ると、疲れ果てて顔色が青白いじゃないか。母親が病気で長く寝ていては、自分は気分が悪いからといって休むことさえできない。
人間は、儚い。 夕べも、この窓から空を眺めていると、数え切れないほどのたくさんの星だった。その星々が思い思いに美しく光っていた。なんとなく、見ていて羨ましい。おそらく、夜ごと永久に燦爛と輝くだろう。なのに、どうして人間は儚いんだろう。
私は思う。人間は、相手を尊ぶという美しい道があったことを忘れてしまったのだと。だから、破滅を急ぐような、自殺であったり、戦争であったりを起こしてしまう。自然界に法則があれば、人間界にも自ずと法則があるはずだ。どの星を見ても誇らしげに安らかく輝くのは、天体の法則を守っているからだ。もし、星が軌道を誤っていたならば、瞬時に砕け散っていたことだろう。
「おじさんは、星を見るのが好きですか?」
「私は、子供のころ、星を見るのが何より好きだった。神の画いた絵でも見ているかのようで、色々と空想に耽っていたものだ」
「どうも、ありがとうございました」
少年は、おじさんの部屋を出ました。次に、朗らかな青年に話を聞こうと、隣の部屋へ行きます。
「お兄さん、なにか話をしてください」
「どんな話しだい?」
「なにか、ためになるような」
「それなら、感心したことがあるよ。それを聞いてもらおうかな」
朗らかな青年は、話し始めました。
「このあいだ、賑やかな町の通りを歩いたんだ。狭い往来を自転車が走り、自動車が通り、ときどき道幅いっぱいのトラックが行く。そのうえ、人間でごった返していたよ。じっさい、どこもかしこも人間ばかりだった。両側の店では、互いに同じような品物を並べて競争を仕合っている。どこを見ても、ただ自分だけは生き抜かなければならないと必死になっているので、少しものんびりしたところがない。お互い気持ちを変えて出直しでもしなければ、人間は死ぬまで、この苦しみを続けなければならないだろうと恐ろしくなったよ」
「でも、お兄さんは、いつも愉快そうに見みえけどなあ」と、少年は言いました。なぜなら、頭は綺麗に分けているし、いつもピカピカな靴を履いているし、口笛などを吹いて歩くので、どこにも苦労は無さそうだったからでした。青年は「そんなふうに見えるんだ」と、笑って話を続けました。
「僕だって、たまにはダンスをやるし映画やスポーツを観に行ったりもする。なにしろ、息が詰まるような世の中だからね。それくらいはするよ。でも、そんなことをしたって、本当はなんにもならないんだ。ただ、憂鬱を感じるばかりさ。ところが、考えさせられることがあったよ。町を歩いていたときのことだった。とつぜん、拡声器から女の声がガナリはじめた。夏物の投げ売りや、駅前に喫茶店が開業したことなど、頭の上で煩く思えたよ。けれど、その中で何丁目の靴店では、皆様に良い品をお安く提供しますといったので、早速、その店へ行ってみることにした。必要に迫まられていたからね。すると、たしかに他の店よりも安かった。『時節がら、みなさまの身にもなってみまして、手前どもは食べていければいいという精神でご奉公をしています』と、主人は言っていたさ。なんだか、嘘のような気がしたけれど、いまどき、こんな考えを持つ者があろうかと無上に嬉しく思えたよ。そして、この世の中が急に明るくみえて希望が持てたんだ。だから、あの女が例え食うためにしろ身を機械にしてアナウンスをしていたことだって、良い仕事をしているように思えて僕は恥じ入ったさ」
「お兄さん。すると、自分のことばかり考えずに他人のことを思うなら、この世の中は明くなるんですね」と、少年は聞きました。
「ああ。でも、一人や二人ではダメだ。道を歩くもの、電車に乗るもの、めいめいが職場を持っている。そして、社会と関係のない仕事というものはないんだ。だから、みんながその気になればいいと思う」
「どうも、ありがとうございました」
少年は、二人の話を聞いて、アパートの人達を見直すことにしました。
アパートで聞いた話/小川未明 ひとひら @hitohila
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