ハスキー・ボイスとビーフ・ジャーキー
彼女は列車を降りると、ギターケースを担ぎ大地に唾を吐いた。
空には雲ひとつなく、よく晴れていた。晴天を北風が吹き抜ける。
駅前のロータリーには、列車を降りた乗客を求めるメータータクシーや旧カンボジア式のトゥクトゥクが複数みられた。しかし、仕事への熱意はないらしく、大半の運転手は煙草を燻らせるか荷台で顔に雑誌を載せながら居眠りをしていた。利用者の少ないこの駅では客を取り合うのも馬鹿らしいというような具合だ。
「噛み煙草が似合う女は珍しいな」と運転手の一人が言った。
「義足の運転手も珍しい」と彼女は答えた。
義足の男は笑いながら電子煙草をふかした。「どこまで行く? サービスするよ」男は傍のタクシーを指差した。
「大丈夫。歩くから」
「歩く?」男は咳き込んだ。「歩いていける範囲には何もないけど」
「美しい雪景色がある」彼女はもう一度唾を吐いた。「歩いていける範囲っていうのがあるとするなら、それを決めるのは自分だけ。他人にどうして決められて?」
義足の男はため息まじりに最後の煙を吐き出した。彼は吸い殻を缶コーヒーの中に捨てると、それっきり声をかけてはこなかった。面倒臭い女だと思ったに違いない。
男のタクシーに乗りたくなかったのは、彼が義足だからというわけではなかった。理由をつけるとするなら、男が吸っていた煙草だ。電子煙草、偽物の煙。偽物を好む男の車に乗りたくはなかった。
彼とのやりとりを見ていたせいか、そのほかの運転手は誰一人、彼女に声をかけはしなかった。
彼女は男物のカッターハットを被り直すと、雪山へ向かって歩き出した。
クラマは休みなく山道を歩き続けた。どれだけ歩いても同じような雪景色が続いていた。地図があるわけではなかったが、自分が進むべき道はわかっていた。
動物の鳴き声が聞こえる。
オオカミだろうか? いや、それはない。かつてこの地域に多く生息していたオオカミたちは姿を消した。昔、人間たちが毛皮や快楽を求めて身勝手な狩りを行ったのが大きな原因だ。
クラマは唾を吐いた。
それでも、と彼女は考える。本当に絶滅してしまったのだろうか? 人間たちの調査にどれほどの信憑性があるのだろう。頭のいい野生動物がそうやすやすと自分たちの住処を、存在している証しを教えてくれるだろうか。動物は皆、進化していく。この世界で生きていくために、身を隠す能力が高まったということはないだろうか。本当は人間たちが彼らの存在に気付けないだけなのかもしれない。
存在がないというのはどういう感覚なのだろう。誰からも干渉されず、誰にも干渉しない。透明な存在。それは心地いいものなのだろうか。それを自由と呼ぶのだろうか。
子供の頃、そういった本を読んだことがある。孤独な旅人の話だ。旅人は人里を離れ、静かな山奥へと旅に出る。人間社会というちっぽけな世界からの別離。旅人はやがて本当の自由を見つける。そんなような物語だ。
クラマは唾を吐いた。
文学は好きではなかった。それが文学と呼べるのか否かは別にして、本そのものが嫌いだった。人間たちの言葉に一体どれほどの意味がある? 言葉を扱うことにどれほどの価値がある? その思い上がりが人間を罪深き存在へとしたのではないか?
クラマはオオカミのように吠えた。
彼女のしわがれた遠吠えは渓谷を飛んでいく。木々がざわめいた気がした。リスたちはオオカミが来たと思っただろうか。
山道を進みながら、本の中の旅人のことを思った。
彼は、最後にどうなった? 自由を見つけた後、彼はどう生涯を終えた? 確か、彼はクマに襲われて死んだ。バッド・エンドのように書かれていたのを覚えている。それが本当にバッド・エンドなのか、彼女には疑問だった。生き物は誰でも、いつかは死ぬ。ヒトに殺されるよりはよっぽどマシな死に方ではないか。
クラマは山道を歩いていく。すれ違う車やヒトも動物も、何もいなかった。クラマは旅人になったような気分だった。
雪が降ってきた。優しい粉雪だ。いつの間にかあたりは暗くなり、道の先も見えなくなっていた。もう夜になったのか、それとも雲が太陽を隠しているだけなのか、クラマには判断できなかった。
道の先にぼやけた光が見えた。雪の向こうに見える灯りはオオカミの瞳のようだ。
「誰かおるんか?」男の声が聞こえた。年老いた声だった。
クラマはその声の方に歩いた。
「誰かおるんか?」一拍あって、また男の声が聞こえた。
ジャコッ。聞き慣れた音がした。
「待って!」クラマは叫ぶように言った。
「一人か?」
「ええ」クラマは答えながら唾を吐いた。
「女一人、こないなとこで何しとん?」老人の声に牙が生えた。
「道に迷ったの」クラマは両手をあげながら声のする方へゆっくりと歩いた。「だから、そのライフル下ろしてくれない?」
二人は識別できる距離にいた。
ボレロハットを深く被った老人は、古めかしいライフルでクラマを狙っていた。クマのように伸びた髭は白いものが混じっているというより、白い毛の中に黒い毛が混じっているというように見えた。毛皮のコートは手作りだろうか。きっとクマの毛皮だ。
「どこへ行くつもりや?」老人はライフルを構えたままで言った。
クラマは両手をあげたまま羽織っている羊毛コートを指差した。
老人は小さく頷く。
クラマはコートから紙切れを取り出した。
「その石の上に置いて大股で三歩下がれ」
クラマは言われた通りにした。
老人は用心深く近寄り、紙切れを取るとシャツのポケットから老眼鏡を取り出してメモに目を通した。クラマへの警戒は解いていなかったが、向けられたライフルの照準は彼女から少し外れていた。彼女はそれに気づいていたが、何もしなかった。
「ここは」老人はメモをクラマに向けてひらひらとさせた。「こっからえらい遠い。歩いて向かう距離とちゃう。それに今夜は吹雪になるで」
「車がないの」クラマは唾を吐いた。「それに免許証も。車を運転するのにも許可がいるでしょう? だから私は自分の足で歩くしかない」
老人は突然笑い声をあげた。「汚い山小屋でええんなら泊まっていき。年老いたジジイと同じ屋根の下におんのが嫌でないんなら」
「ありがとう」クラマは両手を下げて老人の方へ歩み寄った。
「何をしにあのまちへ?」老人はビーフジャーキーを噛み切った。
「ヒトに会いに」クラマはシチューの肉を咀嚼しながら答えた。
イノシシの肉が喉を通っていく。時代遅れのシチューは時代遅れの彼女の舌によく合っていた。
「これは手作り?」彼女は木でできた歪な形の皿を掲げた。
「シチューのことならわしの手作りや。皿のことを言うてんのやったら、それは死んだ家内の手作りや。普通は逆だと思うやろう? 女がシチューを作って、男が木を彫る。確かに、わしが作った器もある。綺麗にできたかどうかは問題やない。うまく説明できひんが、わしは家内の作った方が気にいっとんのや。家内は特別、手先が器用ってわけやなかった。その皿見たらわかるやろ? 歪な形しとる。それでも、味がある。家内の魂が籠っとる。そんな気がする。そういう感覚わかるか?」
「ええ。わかる気がする」とクラマは言った。本心だった。
優しい沈黙が小屋に漂う。
「山小屋に一人で寂しくない?」
「一人とちゃう」老人は暖炉の前で寝転ぶ老犬に視線を向けた。「老いた相棒がいる」
老いたロットワイラーは寝転んだまま尻尾を振った。
クラマはロットワイラー犬の姿を見たのはその時が初めてだった。自然と優しい笑みが溢れた。
老人は笑いながらラビットフット・クラシックの丸い缶を手元に引き寄せた。「そないな顔で笑うんやな」
クラマは頬が赫らむのを感じた。
「女性は笑顔が一番や」老人は缶から煙草を一本取り、吸い始めた。
「聞いてもいい?」
老人は長い白髪を後ろに撫で付け、彼女の続きを待った。
「イノシシを殺すのってどんな気分?」
老人はしばらく天井に昇っていく紫煙を眺めた。「畑を荒らすイノシシに困っとる連中は多くてな。しゃあないねん。イノシシは生きるために畑の作物を食らうが、畑仕事をしとる連中だって生きていかにゃならん。もちろん、このわしも。生き物は誰だってそうや。生き物を食って生きとる。それが仕事や。わしの場合、これが生きていくための仕事なんや。イノシシだけとちゃう。人里に降りてきたクマや野うさぎだって殺す。誰かがやろんとあかん、食うための仕事や。何も好きでやっとるわけとちゃう。誰かがやらにゃあかんことなんや」
「そうね」クラマはビールを飲んだ。「ごめんなさい。何も非難したくて聞いたわけじゃないの。動物を殺すっていう行為がどうしても私にできないことだから。それがどういう感覚なのか少し気になっただけ。気を悪くしないで」クラマの視線はラビットフットの缶で止まった。「吸っても?」
老人は微笑んで煙草をすすめた。
紫煙が霧のように漂う。
紙巻き煙草を吸ったのはいつ以来だろうか。クラマは昔を思い出すかのように天井を見つめた。
まるで大麻でも吸ってるような顔や、と老人は言った。
「ハスキー・ボイス、あのまちで演奏するんか?」老人は煙草を指で挟み、ビーフジャーキーをかじった。
煙草を吸うクラマの手が止まった。
「バンドとちゃうんか?」老人は壁に立てかけられたギターケースを指差した。
「ええ、まあ。そう言われればそうね。ねえ、ハスキー・ボイスってのは私のこと?」
「他に誰がおる?」老人は笑った。「コートの下にはポンチョとウールのシャツ。時代遅れがすぎるで。カウガールと呼ばせてもらおか?」
「ハスキー・ボイスの方がマシよ、ジャーキー」
「ジャーキー?」
クラマは老人の持つビーフジャーキーを指差した。
「ハスキー・ボイスとビーフ・ジャーキー。まるで売れないバンドやな」老人は笑い、咳き込んだ。咳き込みながらも大声で笑っていた。
「ジャーキー、まちまでの詳しい地図をもらえると助かるんだけど」
「歩いていくつもりなんか?」
クラマは首を振った。
「雪山を甘くみん方がええ。あっこへ行くんならわしが送ったろう」
「いいの?」
「ああ、まちに行く用事もあんねや」
「助かるわ。ありがとう」クラマは目を擦った。目が充血しているのがわかった。いや、充血していない時の方が少ないのかもしれない。
「今夜はもう寝えや」ジャーキーが言った。「寝室のベッドをつこたらええ。わしはソファで寝る」
「ありがとう」クラマは食器を流しに運ぶと、寝室へ案内してもらった。
壁には額縁に入った大きな絵が一枚かけられていた。どこかの風景画だった。クラマはそこに行ったことがなければ、そこがどこかもわからなかったが、自然と懐かしさを感じた。仲の良い夫婦が暮らしていた部屋の空気が、そう感じさせるのかもしれない。
古めかしい時代遅れの他人の小屋だが、清潔に欠いたところや不快感はなかった。久しぶりに祖父の家を訪れたような穏やかな安心感を錯覚しているのかもしれない。
アンティークのベッドはクイーンサイズだった。妻が死ぬ前から長く使っていたものなのだろう。懐かしさと愛おしさの匂いがした。クラマにもその感覚は理解できた。
クラマはベッドの上に倒れこんだ。今まで身を潜めていた睡魔が襲ってくる。長く睡眠を取っていなかった気がする。時の概念から逸脱した日々を送っていたから。
ポンチョとウールのシャツを脱ぎ、ジーンズと下着も脱ぎ、彼女は素っ裸でベッドの中に潜り込んだ。オオカミを抱いているような心地いい安心感があった。
クラマは羞恥など微塵も感じていなかった。今日こそはぐっすりと眠りたい。
目を閉じるとすぐに眠りに落ちた。星が見えるような眠りだった。
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