第32話 月光と荊棘①
「……どこ、行っちゃったんだろう」
銀髪の少女の後姿を見かけ広間から追いかけてきた私は、すぐに伯爵夫人の広大な屋敷の中で迷子になってしまった。たくし上げていたとはいえ、丈の長いスカートで足はもつれるわ重くて動きにくいわですっかり遅れをとってしまったらしい。
廊下が分岐するたびにあちこちを見渡してみるけれど、誰の姿も見つからない。うろうろとしているうちに、広間からはすっかり離れいつの間にか庭園が見えるところまでやってきてしまった。
ただし庭園といってもランプが連なり幻想的な雰囲気で客を迎え入れてくれたあの庭園ではない。灯りは月の光とわずかな数のランプだけ。それでも花の数や景色が見事だと分かる、静かな庭だった。表門から本館に続く庭園と異なり、ここはどうやら屋敷の裏に当たるところなのだろう。
随分と屋敷の奥まで来てしまった。伯爵夫人に叱られてしまうかもしれない。
さすがに客である私がこんなところにいてはマズい、と引き返そうとした時だった。
庭園の真ん中あたりに設えられた東屋で、何か影が動いたように見えた。
「……こんなところに、人が……?」
いたとしてもマルガリータである可能性はどうだろう。屋敷の庭師かもしれない。もし庭師なら、このあたりで少女を見なかったか聞いてみようか。私は広間に靴を置き去りにしてきたことも忘れ、庭園内へ足を踏み入れた。
しかしさすが伯爵夫人の庭だ。どんな靴であっても躓かないように磨かれているだろうと分かる通路である。石畳の端で足裏を切らねばいいがと思ったのは杞憂だったかもしれない。
そっと歩こうとせずとも恐る恐る足を踏み出すせいか、自然とゆっくりな歩き方になってしまう。そして、結果として裸足のおかげで足音もなく東屋に近づくことができた。が、果たしてそれが良かったのか、悪かったのか。
近づいた東屋の中に、一組の男女が座っているのが目に入ったのだ。相手はこちらに気が付いておらず、小声でこそこそと何か話しながら時折小さく笑い声を漏らしている。その距離の近さに、二人の関係の親密さが窺われた。ひょっとしたら庭師が、主人の夜会の隙に逢引でもしているのかもしれない。
しまった。やっぱり音を立てて存在を明らかにしながら近づくべきだった。これは期せずして、覗き行為になるのではないだろうか。
かといって今更声をかけるわけにもいかない。そうこうしているうちに人影がゆっくり近づいていくではないか。
だめ、このまま覗き見をするのは失礼だ。その位の分別はある。知らないふりをしていったんこの場から離れよう。――と、一歩体を引きかける。
「君の髪は今夜の月のように美しいね。蝶を追いかけてきたところで、君のように可憐なひとに出会えるなんて思わなかったよ……」
「……お戯れは……」
「ああ、恥ずかしがることはない。さあ……」
「お止めください……わたくし、まだ……」
「そんな力で僕を止められるとでも?」
記憶の底で嫌になるほど聞き覚えのある、鼻にかかったような甘い声に私の足は止まった。
歯の浮くような髪を褒める台詞さえ、私室で、ベッドで、何度となく耳元で繰り返された言葉にそっくりそのままだ。そしてそれは、今生では決して聞いてはいけない言葉で、彼が発してはいけない言葉だった。
さらに耳をそばだてようとしたところで、大きい影――おそらく男性側が小さい影に覆いかぶさろうするではないか。
公爵家の庭で朗らかに笑うアメリアの顔が浮かぶ。ぷつん、と何かが吹っ切れた。
「……お止めください、アルベルト王子……!」
思わず立ち上がって名を呼ぶと、東屋の二人がぎくりと体を震わせて止まった。月の灯りが東屋の屋根で遮られていて表情は分からないけれど、きっとさぞかし驚いているに違いない。
しかしそんなことは気にしていられない。私はずかずかと東屋の中に乗り込んだ。そしてそこでまた息をのむ。
王子に抱きすくめられていた小さな方の影が、腕の中から目を丸くしてこちらを見上げていたのだ。そしてその顔の主は――。
「マルガリータ!?」
想定していなかったわけではない。今この屋敷にマルガリータらしき少女がいると信じて追いかけてきたが、まさかこんな形で出会うとは思ってもいなかった。
「お放しください!」
無我夢中で少女に巻き付いた王子の腕を振りほどくと、私は彼女の前に立ちはだかった。月の灯りを彼女の髪が反射したのか、目の端をきらりとしたものが掠める。後ろ手にした片腕で彼女の背を抱きとめると、かすかに震えが伝わってきた。
かわいそうに、怖かったろうに。前世でこの先どんなことをしていたとしても、今の彼女はまだ十一か十二の少女なのだ。守らなければ、と背に回した腕に力を籠める。
しかしいきなり現れた私に一瞬狼狽えた王子は、すぐに平静を取り戻したらしい。ゆらりと立ち上がり、私に一歩近づいた。
「ああ、なんだ、君か。どこに隠れていたんだい?」
顔にかかった金色の前髪を手櫛でかき上げ、憎々し気に王子は私を見降ろした。薄暗がりでも分かる。あの時、処刑を告げるときと同じように冷たい、いやな目つきだ。
正直、あの時の事を思い出すと身が竦む。けれどそんなことは言っていられない。ぐっと腹に力を入れる。
「なんだではありません。これは一体どういうことです? 王子、あなたにはアメリア様という婚約者がいるではないですか」
「それは君にどんな関係が? 僕が誰と一夜を楽しもうと、公爵と婚約をした君にとってはどうでもいいことだろう? それとも、改めて君が僕の申し出を受けてくれるとでも?」
「どうでもよくはありませんし、貴方のお申し出については既にお断りしているはずです」
「じゃあ君は部外者だ。公爵に免じて今の無礼は見逃してあげるから、とっとと立ち去るといい」
心底嫌そうに、そして羽虫でも払うように王子は手を振った。
「私はアメリア様の家庭教師です。彼女が不幸せになるなんてこと、見過ごすわけにはいかない!」
「たかが家庭教師が分を弁えたまえ」
たかが、と言われて更に頭に血が上る。そりゃ家庭教師なんて身内でもなければ使用人のうちに括られる身分かもしれない。けれど、アメリアは可愛い教え子だ。彼女を妹のように思い幸せになってもらいたいという気持ちを持ってはいけないわけがない。
「教師だからこそあの方が不幸になるのは見過ごせません」
「……全く、おせっかいな女だな。だとしても、これはそこの彼女も同意の上の行いだ。君ごときが口を挟むな」
「おせっかいで結構です。ついでに言わせていただければ、少々大人っぽく見えますがこちらの彼女もお歳はアメリア様と大して変わらない子どもです。聖女としての能力も高く、優秀な候補生になるべき子です。それが、殿下のような身分の高い大人の男性に迫られて、嫌だとはっきり言えるわけがないではないですか」
「子ども……? せい……じょ?」
わずかに王子が怯んだ。その隙に私は小刻みに震えるマルガリータの腕をとって、屋敷の方へと逃げ込んだ。
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