テンカラ釣行記〜生命(いのち)のうねり〜
香山黎
第1話
その日の釣行はだいぶ中途半端な時間に始まった。午前八時半から始めた放流作業が終わってからなので仕方ない。
先行者はいない、いても時合をとうに過ぎているので、すでに一通り竿を入れてから時間が経っているだろう。
私は車を停めて、防水衣服、
竿は延べ竿。
釣法はテンカラ。疑似餌、毛鉤を用いる日本の伝統的な釣法である。
漁場は未見の渓流ではない。自宅から車で一時間程度の馴染みの近場、ホームリバーとも言うべき川である。
山岳渓流のような荒々しさはなく、低標高でところどころに民家や田畑がある。中山間部の里川、小渓流であるが、所々に深い翡翠色の淵や軽自動車ほどの大岩があり、日常の延長にある非日常と評するべき風景だ。
駐車スペースからは少し林道を歩くとすぐに入渓口がある。明確な道はない。うっすらと踏み跡がある程度。
ひょろ高い杉林の中を斜面に従って降ると川の音が大きくなって、水面近くに到達した。
早速、私は円形の仕掛け巻きから
準備が整ったところで、すうっと深呼吸をして山河の空気を吸う。いよいよ釣行開始である。
調子は悪くなかった。
谷あいの川であり、日の出の陽光も入りにくい。そのため空気も冷涼、水温もそう高くない。
既に時計の針は正午に近づいていたが、竿を振り始めてすぐに反応があった。
サイズは小さいが、背は褐色、腹側は白色。胴体側面には黒い縞模様、パーマークが並びその上に小さな朱点がいくつかある。
アマゴだ。
天魚、雨子、アメ、アメノウオ。主に中部地方〜西日本の太平洋側に生息する陸封型の鱒類、ヤマメの亜種。
流滴型のしなやかな魚体を観察した後、私はゆるい流れの中に魚を戻した。
小型であるし、そもそもここは
その後も同サイズのアマゴを釣り上げ、更に上流を目指す。渓流釣りというのは基本的には上流へ「釣り上がる」ものだ。
しばらくポイントを探りながら遡上を続けると、少し大きな落ち込みがある場所に到達した。
三つの小さな流れが落ち込みから瀬、また落ち込みまで、渓流用語でいういわゆる段を繰り返し、私の眼前に最も大きな落差のある落ち込みを形成している。
その落ち込みから流れが発生し、やがて歩く程度の速度に変わる。大小の泡がゆっくりと浮かぶ。
好ポイントだ。魚の存在は視認できないが、ここは鱒類が水中から流下物を狙っている場所なのである。
一投目こそが勝負であり、予備動作の少ないテンカラの優位性が試される舞台だ。
私は竿を構え、勢いよく垂直に立てる。その動きが伝わり跳ね上げたラインが空中、斜め後方へ飛ぶ。伸び切ったところで前振りで前方へ送り込まれ、力は末端の毛鉤まで伝わり、落ちる。
――ポトリ。
ごく自然に、しかしアピール性の高い落下。
流心脇をゆっくりと沈みながら、水面直下を流れていく。
少し流下速度が遅い、もしかしたら気取られるかもしれない――。テンカラの毛鉤はシンプルな羽虫や水生昆虫の
しかし予想外――。
白銀色の片鱗が、水中から斜め四十五度、弾丸のように浮上しギラリ!と光を放つ。
来た――!だが精神の高揚を直ぐ肉体に伝えてはならない。アワセ、魚の口に鉤をかける動作は
水面近くまで出た魚体が再び水中へ潜る。
道糸が張る、そう思われた瞬間。
そこだ。
竿の穂先は再び天に垂直に立っていた。
ガツン、という衝撃が柔らかなテンカラ専用竿に伝わり、私は思わず口角を上げた。
ここまでくれば、ほとんど勝負がついている。
魚がもがく水音。
水中に足を入れていなかったので、少し地面に魚をつけてしまったが、ランディングネットに無事魚を入れることができた。
その姿に私は少し戸惑った。
背はくすんだターコイズブルー。
翡翠の淵の色を魚体に溶かし込んだような。
体長は二十センチ程度だが体高はある。パーマーク、体側にある縦の縞模様は緑がかっており、側線部分にはほのかな桜色がさす。
放流魚?それにしては動きは野生種じみた動きをしていた。
では天然魚か?その確証は持てない。
全く同一の体色、模様の魚はいない。が、極めて特徴のある、ただ美しく欠損のない胸鰭と尾鰭を持つ個体。
――いずれにせよ、完璧なタイミングだったな。
私は手を水の中に入れて冷やしたあと、ネットの中の魚を浅瀬にゆっくり戻した。
魚は瞬きよりも速く、川の流れの中に消えていった。
私は釣果と、釣り上げるまでの瞬間を脳内でフラッシュバックさせながら、少しの間、筆舌に尽くしがたい満足感を味わう。
そんな言葉が頭に浮かぶ。
魚のか、己の生命のことか。
両方か、それらの交わりあった刹那か。
五月晴れ、にしては強い陽光が小さな谷の空気を夏に近づけていた。
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