あがきを疾み(あがきをはやみ)
理猿
第1話 Out of the "BLUE"
私は自分の名前が好きだ。
名前と同じこの広い青空をぼーっと眺めているのもまた好きだ。飛行機雲が一筋走っているのも悪くない。
年も暮れるというのに、最近この土手で空を眺めている時間が増えた。冷たい風が吹き、青臭いにおいが鼻腔をくすぐる。
「また考え事? 青。風邪引くわよ、こんなとこで」
「思春期の女子はこの世界で一番悩み多き生き物だからね」
頭上からこちらを覗き込んできた同級生の
「まあ、そろそろ受験だしねえ」
「残念、私は推薦で決まってる」
すかさず美南に横っ腹を小突かれた。
「――じゃあなに悩んでるの? 私にしてみれば羨ましいくらい。スポーツで高校の推薦取れて、勉強も、……まあ、そこそこできて」
「勉強のことは思ってないでしょ」
そう言って二人で笑った。
「――夢がないなと思って。陸上もこれからずっとやるわけでもないし」
「贅沢なこと言っちゃって。こっちは毎日勉強勉強でうんざりしてるのに」
「この世で一番わがままな生き物だからね。思春期の女子は」
「あんたと一緒にしないで。
……まったく、難しいことばっか考えて。お笑い番組とかでも見たら? 少しは気が紛れるんじゃない?」
「うーん……、考えとく」
結局、私は美南が帰ったあとも日が暮れるまでそこにいた。
「ただいま」
真っ暗なリビングから声は帰ってこない。手探りでリビングの明かりを点ける。
「ただいま、お父さん」
棚に置いてある写真立ての父に話しかける。物心ついてからというもの、毎日帰った時のルーティンだ。
テーブルの上には母が書いたメモがあった。
今日は遅くなるから、と冷蔵庫に夕ご飯が作ってあるらしい。冷蔵庫を開けると、大ぶりのハンバーグが入っていた。
私も少しは見た目というものに気を使い出したので少し量を抑えて欲しいのだが、父は食が細く病気がちだったからと、私にはよく食べるように母は言って聞かない。
ずっしりと重い皿を電子レンジに入れて温めのボタンを押す。
「お笑い番組ねえ……」
美南の言葉を思い出し、テーブルに無造作に置かれていたリモコンを手に取りテレビを点けた。
「テレビなんて最近見てないなあ」
番組を少し見てはザッピングしていく。時間が悪いのかお笑い番組らしきものはやっていない。
「美南におすすめの番組聞いとくんだったかな」
ある番組がテレビに映った時、チャンネルを変える手が止まった。
ドキュメンタリー番組だ。
「……お父さん……?」
テレビ画面の中に間違いなく父がいた。写真で何度も見ているのだ、間違うはずがない。
屋外、なにか横縞のユニフォームのようなものを着てインタビューに答えている。
「……どういうこと?」
『――それでは最後に、生まれたばかりのお子さんになにか一言頂いてもいいですか?』
インタビューに促され、画面の中の男性は照れくさそうに鼻をかいた。
『おーい! 青! 見てるかー!
父さん勝ったぞ! 次も絶対勝つからなー!』
父が言葉を発した後、ナレーションと共に映像がスタジオに切り替わる。左上のテロップには「落馬事故から15年、夭折した天才騎手・
『今週末に迫った有馬記念、全馬全騎手怪我なく終えて欲しいですね』
神妙な面持ちで壮年のアナウンサーが話を締めた。
次の番組に変わる。マイクを挟んで鮮やかなスーツを着たコンビ芸人が漫才を披露し始めた。
「……どうして」
なぜ父がテレビに映っている。父は普通のサラリーマンだと聞いていた。なぜ母も祖父母もこのことを黙っていたのだ。
それに、……騎手……?
玄関のチャイムが鳴る。
親機の画面には母が映っていた。いつもならすぐに玄関を開けに行くが脚が思うように動かない。
「あれ? 青ー? いないのー?」
温めが終わり、電子レンジが鳴った。テレビを消し、親機の通話ボタンを押す。
「……ごめん、トイレ入ってた。いま開けるね」
玄関へと向かい鍵を開ける。
「ごめんごめん、今日思ったより仕事早く終わっちゃった」
「そう、よかった。じゃあ、お母さんの分も温めとくね」
私の言葉に「ありがとう」と返す母の調子は当然ながら普段と何ら変わらない。きっとなにか理由があるはずだ。
いま母に父のことを聞くのは早計である。
まずは自分で確かめないと。
ニ○✕✕年十二月二十六日。
私は競馬場に来ていた。
調べたところによると、先般テレビで言っていた「有馬記念」なるものは、ここ千葉県船橋市にある中山競馬場というところで開催されるらしい。
それが始まる発走時刻というのが十五時四十分。あと一時間ほどだ。
もう一度建物を見上げる。
「……大きいな」
競馬場というものは生まれて始めて見たが、それは想像していたより遥かに大きく、なにより信じられないほど多くの人で賑わっていた。
「これ、みんな競馬を見に来たの?」
思わず独り言が溢れる。
私自身、競馬をまったく知らないわけではないが、所詮馬を使った賭け事だろうという認識しかない。それなのに老若男女が大勢ここに集まっているのは不思議な感じだった。
しかし、どうしたものか。意を決してここまで来たはいいものの、なにか考えがあるわけでもない。
足を止めると背後から誰かに押された。
「す、すいません……」
咄嗟に謝罪の言葉が出る。
しかし、それもつかの間。次から次へと人がやって来てあっという間に人波に呑み込まれてしまう。そうして流されるまま進んでいくとあるところで止まった。
「なんなのもう、最悪」
人の隙間から馬が輪を成して歩いているのが見える。たしか「パドック」というやつだ。レースの前の馬が歩いている場所だと、調べていたときになにかに書いてあった。
その馬の輪の中で一際目を引く馬がいた。他馬と比べても圧倒的に筋骨隆々であり存在感がある。
人々の視線もその馬に注がれていた。
そしてもう一頭、気になる馬がいた。全身が真っ黒な馬だ。体格が他と比較して一回りほど小さい。
本当に同じレースを走る馬なのか疑いたくなるほど心許なく見えた。
その時である。
間断なく流れていた馬の輪が突如として乱れた。件の小柄な黒い馬が急に止まったのだ。
何事か覗こうと背伸びすると、その止まった馬と目があった。馬と目が会うなんて人生で初めてのことだ。なんとも澄んだきれいな目をしている。
その背に乗る若い男が馬に向かって話しかけた。
「どうした、ノック。気になる娘でもいたのか?」
馬はそれに応えるように短く鳴いた。
「はは、そうか。そりゃ今日は張り切らないとな」
馬の首筋を撫でながら騎手は実に愉快そうに笑う。
馬を引くスーツ姿の男性が一度手綱を引くと、馬はそれに従って再びぐるぐると回る馬の輪に加わった。
「なにあれ……?」
「嬢ちゃん、ノッキンオンハートに惚れられちまったな」
隣に立つ酒臭いおじさんに不意に声をかけられる。周りの大人たちがそれを聞いて小さく笑った。
「? ノッキンオン、ハート……?」
「おいおい、知らないのか? あの馬の名前だよ。
可哀想に、どうやら馬の片想いみたいだな」
その一言に周りはどっと笑った。
なにも面白くない!
どうにも居心地が悪くなり私はその場を後にした。
パドックを離れ、観客席の方へと進む。辺りは人で溢れ返り、歩くのも一苦労だ。
「おーい、そこのお嬢さん。ここ空いとるよ」
どうしたものかと逡巡していると不意に声をかけられた。声の主は小綺麗な服に身を包んだ老齢の男性だ。通路に留まるのもあれなので、その言葉に甘えて老人の隣の席に座った。
「あ、ありがとうございます」
「競馬場は初めてかい?」
老人の声は穏やかで少しも嫌な感じはない。
「はい。賭け事は母が嫌いで。それに私、まだ中学生だし」
老人は右手で顎を撫でる。
「そうか……。
賭け事。それはたしかにそうかもしれん。
だが、そんなことでこの大きい大きい競馬場が人がひしめき合うほどにいっぱいになったりはしない」
「じゃあなんでこんなに人が?」
「彼らに夢を見ているからだよ」
老人の視線の先では、一頭、また一頭と馬が芝に駆け出していた。そのたびにスタンドでは歓声が上がる。
「夢、ですか?」
「そう、夢だ。すぐにわかる」
老人はニヤリと笑った。
「――で、どうしてここに来たんだい? お嬢さん。
反抗期かい?」
「……それは……」
なぜここに来たのか。
なぜかと問われれば、テレビで言っていた「有馬記念」という言葉から漠然と今日ここに来た。冷静に考えれば父のことがなにかわかる可能性は低いだろう。
だが理屈ではない。私は今日ここに来なくてはいけない気がした。否、父が今日という日にここに呼んだと言ってもいいかもしれない。
いわば一種の賭けだ。
「……私も賭けに来たんです。ここに。
お金は賭けないけど」
「ほう……たしかに賭け事なら競馬場はうってつけじゃな」
老人は軽やかに笑い、それ以上こちらを詮索することはなかった。
冷たい空気を切り裂くようにファンファーレが鳴り響く。それに呼応するように人々の声が地鳴りとなりスタンドを揺らした。
「な、なに?」
「――さて、始まるぞ」
大歓声の中で老人の決して大きくはない声がはっきりと耳に届いた。
『快晴の中山競馬場。
昨夜ちらついた初雪の影響もなく、馬場は良。十六頭の猛者が集った年末を締めくくるグランプリ、有馬記念。
ここまで無敗の三冠馬イスカンダルがまたも栄光を手にするのか、それとも歴戦の他馬がそれに待ったをかけるのか!
満員の大観衆、テレビ、ラジオの前の想いを背負い――。
――今、スタートしました!』
白いスーツの男性の合図でゲートが音を立てて開く。そこから決壊した水のように一斉に馬が飛び出した。
はじめは横並びだった馬群から一頭が大きく前に抜けだし、徐々に縦長になっていく。
「あの先頭の馬を追わないと置いていかれちゃうんじゃないの?」
「そんな単純なら苦労しないよ」
『先頭で逃げるのは三番アジアンランデブー、大きく離れて十四番パラフレーズ、そこから少し離れて十一番、無敗の三冠馬イスカンダルが続きます。続いて――』
イスカンダルと呼ばれたのはさっき見た一際目立っていた馬だ。実況アナウンサーが次々に走る馬を前から順に述べていく。
馬群を見る。馬の腹部にあるゼッケンには馬の名前と番号が書いてあったはずだがここからではまったく識別できない。
あの小さい馬は大丈夫だろうか。
『――一年振りの復帰戦となる六番ノッキンオンハートは後方から二番手。初コンビとなった鞍上の岸はどんな騎乗を見せてくれるでしょうか』
「あんなに後ろか……」
すでに先頭とだいぶ離れてしまっている。
「ノッキンオンハートかい? お嬢さん、なかなか馬を見る目がある」
「でも先頭からあんなに離されてますよ」
私の落胆の言葉に老人はからから笑った。
「若いのは気が早いからいかん。まだまだこれからこれから」
「でもゴールってあれじゃ……」
コースに設置された派手に飾り付けれたゴールと思われる建造物を指差す。しかし、馬たちはそれを横目にして一瞬で通り過ぎた。
その隊列のまま何事もなかったようにレースは淀みなく進む。
「あれ?」
「“有馬記念”は二千五百メートルを走る国内三番目に長いG1レース。中山競馬場は一周およそ千五百メートルだから、あのゴール板からさらにぐるっと一周回って来てやっとゴールだよ」
「二千五百メートル! そんなに走るの?」
「ああ。それも三分も立たずに終わってしまう」
「……すごい」
馬群は楕円形のコースの向こう側に小さくなっている。さっきの言葉からいけば残りはもう千メートルもない。
「! ……上がってきてる?」
視線の先、黒い小さな点が馬群の後ろから徐々に前に向かって順位を上げていく。気付けば三番手に位置するイスカンダルのすぐ後ろまでつけていた。
「あれは――」
「ああ、――ノッキンオンハートだ」
『――さあレースも大詰め! 先頭アジアンランデブーは行き脚が鈍くなりここで失速! 先頭はパラフレーズ――いや、それを横目にイスカンダルが抜け出しました! 先頭イスカンダルです!
直線に入り残り三百メートル! イスカンダル、一馬身、……二馬身、どんどん差を広げていき――。
! おっと、ここで捲って上がってきていたノッキンオンハートが追い縋る! 怪我明けでもその末脚は健在!
ぐんぐんとその速度を上げます!
勝者はこの二頭に絞られました!!』
ノッキンオンハートはイスカンダルを除く他馬とはまったく違う勢いで切り上がってくる。芝の上を飛ぶように駆ける様は、さながら羽が生えているようだ。
一方でイスカンダルの悠然と前脚を搔く姿は絶対的な王者の風格がある。
ゴールが近づいてくる。
二頭はほぼ並んで走っている。後ろの馬たちはもう置き去りだ。
スタンドの歓声が最高潮に達する。
『無敗の三冠馬イスカンダルか! ノッキンオンハートか! イスカンダルか! ノッキンオンハートか!
二頭横並び! 後続は完全に離れた!!
――ノッキンオンハート! ノッキンオンハート僅かに抜け出す!!」
その時、一瞬風が強く吹いた。
歓声が風に溶ける。
「今、ゴールイン!!
ノッキンオンハート、最後僅かに躱したか!!
一年振りの復帰戦、無敗の三冠馬に初めて土をつけました!!
こんなこと誰が予想したでしょうか! 人馬ともに初のG1タイトルを獲得!
鞍上、岸が右手を大きく天に突き上げます!!
ターフに舞い戻った不死鳥・ノッキンオンハート!! 大仕事をやってのけました……!!』
二頭がゴールした瞬間スタンド前方で紙吹雪が舞う。さながらノッキンオンハートへの祝福のようだ。(後に知ったのだがこの紙はハズレ馬券らしい)
鼓動が脈打つ音がやけに大きく頭に響く。寒空の下だというのに身体が熱い。
「……これが、“競馬”」
馬が走ってるだけなんてことは決してない。今、この瞬間、ここが世界で一番熱狂に包まれていた。
「す、すごかったですね! おじいさん!」
そう言って顔を向けると、さっきまで老人が座っていた席は空になっていた。
「……あれ? いない。 ……夢?」
もしかして競馬場の妖精だったりして。……まさかね。
「ただいま」
「おかえりなさーい」
リビングの奥で母の声が聞こえる。母はお気に入りの手芸の雑誌を読んで寛いでいた。
「どこ行ってたの? こんな時間まで」
本に目を落としながら、母はこちらに問う。
「……」
「……? どうかした?」
母が顔を上げこちらを見る。
「競馬場」
母が動きが一瞬、不自然に止まる。しかし、それを悟られないようにだろう、母はまたすぐに雑誌に目を落とした。
「中山競馬場に行ってきた。見てきたの、有馬記念。知ってる? お母さん。
凄いの、競馬って」
「……興味ないわ。それに、お母さんギャンブルは嫌いだって言ってるでしょ。まさかお金賭けたりしてないでしょうね」
母は雑誌越しにこちらを睨みつけた。
「なんで黙ってたの?」
母の言葉を無視して問いかける。
「……なんの話?」
「とぼけないで。お父さんのことよ」
かすかに息を呑む音が聞こえた。沈黙が流れる。
「……言ってる意味がよくわからないけど」
「お父さん、競馬の騎手だったんでしょ」
母の目をまっすぐ見つめる。母は肯定も否定もしない。
ならばこちらの話を続けるまでだ。
「私、騎手になり――」
「駄目よ!」
食い気味に私の言葉を遮る。
「なんで? 私がどんな夢を追いかけることになっても応援してくれるって言ってたじゃない」
「騎手だけは駄目! 絶対に!」
母は雑誌を乱雑に放り投げ立ち上がる。息を荒げ、眉間に皺を寄せて言葉を続けた。
「ふざけないで! なんであなたまで……!
私がこれまでどんな想いで……!
……競馬なんか! 競馬なんかなかったらよかっ――」
母ははっと気付いたようにそこで言葉を飲み込んだ。母は声の調子を戻す。
「……とにかく、絶対に駄目」
母が取り乱すのも尤もだ。
どんな理由であれ、騎手という仕事をするなかで父が亡くなったのは事実だ。そして、そのことを今日に至るまで私に伝えなかったのは、この道に進んで欲しくなかったということであるのは明白だろう。
「別にお父さんが騎手だったから騎手になりたいわけじゃない」
「……」
「はじめはたしかにお父さんのことを知りたいだけだった。
でも、今は違う。
私もあの場所で走ってみたい、だから騎手になりたい」
騎手になるための方便ではない。本心だった。
「お願いします」
多分生きてきて初めて母に頭を下げたと思う。
少し間を置いて頭上で母がなにか呟いたが、はっきりとは聞こえなかった。
それから二年後。
私は日本中央競馬会競馬学校の門を叩いた。
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