第89話 リットリア
「やっとクリアか。けっこう時間がかかったな……」
あの後、オレは広い草原のフィールドを歩き回り、ようやく第二十二階層に続く階段を発見した。
上を見上げれば、赤く燃える空と傾いた太陽が見える。風はあるし、大地と草の臭いを感じる。まるでのどかな草原に見えるが、ダンジョンの中なんだよなぁ。その証拠に、目の前の大地は丸く抉られ、下へと続く螺旋階段が見える。まるで非現実的な光景だ。さすがダンジョン。
「一つの階層をクリアするのに一日かかってしまったなぁ」
これからはクリア速度が鈍りそうだね。
そんなことをボヤキながら、オレは螺旋階段を降りていく。そして、もう見慣れた謎のモニュメントに手を置いて、ダンジョンの外に出た。
ダンジョンから出ると、王都の街並みも夕焼けに赤く染まっていた。なんとなくわかっていたけど、どうやらダンジョンの空は王都の空とリンクしていたらしい。これからダンジョンにも夜がやって来るのだろう。
周りを見渡せば、多くの冒険者たちがダンジョンから出てきて王都へと帰っていく。
そういえば、冒険者たちは朝にダンジョンに潜って、その日の夜に帰ってくることが多い。体力的な限界もあるだろうが、たぶん、夜のダンジョンが危険だから帰ってきているのだろう。
人間は夜目が利かないからね。夜の戦闘は圧倒的に不利なのだ。
オレは宿屋で冒険者装備から普段着に着替えると、歩いてリットリアに向かった。リットリアの前にはこんな時間でも馬車が並び、お仕着せを着た使用人たちが待機していた。今日の分の販売は終わっているはずなので、きっとこのままここで夜を明かすに違いない。かわいそうに。
主命に逆らえない者の哀愁を感じながら、オレはリットリアの店内に中に入る。店内はこんな時間だというのにバターの甘い香りが漂っていた。エミールが明日販売する分のカトルカールを仕込んでいるのだろう。
「エミール、今いいか?」
「ジルベール様ですか? 申し訳ありませんが少しだけお待ちください!」
「ああ。オレは気にしないから丁寧な仕事をしてくれ」
「はい!」
エミールはカトルカール作りに妥協しないからな。エミールが待てと言うのなら、それが必要なのだろう。オレはおとなしくエミールの登場を待つことにした。
「お待たせして申し訳ありませんでした!」
それから五分ほど経つと、エミールがジャンピング土下座しそうな勢いでやってきた。
「突然寄ったのはオレの方だからな。気にしてないよ」
「そう言っていただけるとありがたいです……。それより、こんな時間にどうしたのですか?」
「今日はエミールにお土産があってね」
オレは収納空間から四本の牛乳瓶を取り出した。それだけでエミールの顔が真剣なものとなり、驚きの表情を作る。
「まさか、バッファローのミルクですか!? 滅多に市場に出回らないのに、なぜここに四本も!?」
さすがエミールだな。バッファローのミルクの存在を知っているらしい。
「ちょっと手に入れる機会があってね。これでカトルカールを作ったらおいしいものができるんじゃないかと思って持ってきたんだ」
「いいんですか!?」
「ああ。最高のカトルカールを期待しているよ」
「必ずや! まずは知り合いの腕のいいバター職人に連絡しなければ! あいつもバター一筋の職人ですからね。必ずや最高のバターを作ってくれるでしょう!」
「いいね。期待しているよ」
この時、オレは内心ちょっとドキドキしていた。
そうだった。カトルカールは材料に牛乳を使わないんだった。材料はバターと小麦、砂糖、卵だけのシンプルなお菓子なのだ。お菓子作りには牛乳だよねと、てっきりカトルカールにも牛乳を使うと勘違いしていたよ。
その後、エミールと少し世間話をしたのだが、エミールにはちょっと悩んでいることがあるらしい。
「それで、なにを悩んでいるんだ?」
「それがですね……。私の作るカトルカールがお貴族様たちに受け入れられているのは嬉しいのですが、私はカトルカールを平民の子どもたちにも食べてほしいのです……。ですが、最近は材料にもこだわっているため、値段が上がりすぎて平民には手の届かない価格となってしまって……」
「なるほど……」
普通なら、貴族御用達の店として平民なんて相手にしないだろう。そんな店は王都にはいくらでもある。だが、エミールはもっと多くの人々に、平民の子どもたちにもカトルカールを食べさせてあげたいのだ。
たぶん、その根底には、エミールの人を喜ばせたいという想いがあるような気がした。
「なら、小分けにするのはどうだ?」
「小分け、ですか?」
エミールがその窪んだ目をパチクリと瞬かせる。
「そうだ。カトリカールを小さく切って、一切れいくらで売れば値段を下げることができるんじゃないか?」
一個まんま買えば金貨が飛ぶカトルカールだが、小分けにすればそれだけ値段を分散できる。
「それでもなお高いだろうが、今よりも口にできる人は増えると思うよ」
「なるほど。その手がありましたか! さっそく明日から試してみます!」
エミールは手を打つと、嬉しそうに笑っていた。骸骨のような見た目のエミールだが、その心は温かいのだ。
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