バタフライの三すくみ
森本 晃次
第1話 腐敗の時代
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年6月時点のものです。今回の話は、国防などの考えが含まれますが、あくまでも、話の内容は、フィクションであり、パラレルワールドの世界ですので、作者の意見とは必ずしも一致していないとお考えください。
今年、40歳になる霧島は、インターネットを高校の時からやっていた。
やっとネットが普及してきて、
「つなぎ放題」
ということで、ネット料金が、
「時間でいくら」
というものから、
「月額いくら」
という形に変わった時代だった。
今でこそ、
「そんなのは当たり前だよ」
と言われる時代であるが、昔は、
「ISDN」
あるいは、
「ADSL」
などという回戦があり、下手をすると、
「電波の中継基地から遠いので、回線が遅くなる」
であったり、
「エリア外だ」
ということで、ネット回線が使えないというような状態があったのだ。
そのうちに、
「光ファイバー」
というものが出てきて、光回線であれば、中継基地からの距離など、関係ないという感じになった。
今では。
「フリーWIFI」
などと呼ばれるものがあり、スマホというものが出てきてから、駅やスーパー、ホテルや、オフィスなどで、通信料が一律であることから、商店街などで流れている無線回線に、フリーでつなげるというサービスが行われるようになってきた。
これには、
「政府の雇用対策」
というものや、経済対策というものがある。
街のあちこちで、フリーにしておかないと、
「観光客が来てくれない」
あるいは、
「海外からの留学生が、働いてくれない」
という問題があるのだった。
数十年前くらいから、日本は、
「外人が金を落としてくれる」
というようになってきた。
もっと前であれば、日本の景気がよかったから、日本の企業が、どんどん人件費の安い海外に工場などを作って、そこで外人を雇って働かせるということが蔓延っていた。
しかし、平成に入ってから、そんな
「泡のようなバブル経済」
が弾けることで日本は、一気に破綻する企業が増えていった。
それまでは、
「働けば働くだけ」
あるいは、
「事業を拡大すれば拡大しただけ儲かる」
と言われていた時代だった。
だから、人件費というのは、どんなにかかっても、経費がどんなにかかっても、その分儲かるわけなので、言い方は悪いが、
「働かせておけば、それだけ企業は儲かる」
という単純な掛け算の仕掛けであった。
さらに、人件費がかかるだけかかっても、一人に対して、儲けがいくらと考えればいいわけで、
一人の人に、どれだけ働かせても、それだけ仕事があるのだから、世の中の体制は、
「24時間戦えますか?」
という時代だったのだ。
それを、
「昭和の時代」
と言われているが、その時代は、今のように、
「コンプライアンス違反がどうのこうの」
あるいは、
「ハラスメント問題」
「ブラック企業」
という考え方はなかったので、
「会社のいうことをきかないといけない」
という風潮と、当時の発想としての、
「根性論」
であったり、
「やればやるだけ儲かる」
ということによる、
「金儲け思想」
一番大きいといえるだろう。
特に、根性論というのは、一世を風靡した、ドラマやマンガなどで、
「スポーツ根性モノ」
というものが、一時期流行って、その流れが、
「あたかも、昭和の流れだ」
ということになっていたのだった。
そんな昭和の時代のスポーツ根性モノというと、さすがに、時代が、バブルの時代とは少し離れているという時代であった。
そもそも、スポーツ根性モノというと、始まったのは、昭和39年の東京オリンピックあたりからだといってもいいだろう。
時代としては、テレビがかなりの過程に普及していき、そこから、カラーテレビの時代となり、電化製品も、
「三種の神器」
なるものが生まれてきた。
「電気洗濯機、冷蔵庫、白黒テレビ」
という時代があった。
「オリンピックを家のテレビで見る」
という時代で、逆に言えば、昭和39年というと、今から60年弱くらい前の時代であり、その頃までは、冷蔵庫も、洗濯機も、なかった時代だといってもいい。
冷蔵庫の代わりに、水をたらいに入れて、氷を入れたもので冷やしたり、それだけに、
「冷蔵物、冷凍ものは、その日に買ってきて、その日のうちに食べる」
というような状態だったのかも知れない。
「洗濯物などは、たらいにためた水の中で、洗濯板の上で洗剤をつけて、こすりつけるように洗う」
というものであった。
もちろん、今のように、乾燥機であったり、脱水などはないので、物干しざおに干しておくか、家の2階のベランダに干すかしかないのだった。
テレビなどもなかった時代なので、すべては、ラジオ放送である。
スポーツ中継も、ニュースも、さらにはドラマも、すべてが、ラジオから、スポーツ中継などは、今もあるので分かるだろうが、
「数秒の間に、聴いている人に、すべてを伝えなければならない」
という意味で、アナウンサーというのは、本当に大変だったであろう。
この時代は、木造の平屋建ての家が多く、マンションなどはなく、あっても、公団と呼ばれる団地であったり、ちょっとした社員寮のような、コーポのようなものがある程度だった。
そんな時代が、オリンピックの時代くらいにあり、そこから、5年とちょっとくらい経った頃には、新しい、
「三種の神器」
というのが生まれてきたのだ。
それだけ、景気がいい時代だったともいえるし、開発技術が発達していた時代だったともいえるのだろう。
新しい三種の神器としては、
「カラーテレビ、クーラー、自家用車」
と言われるものであった。
こちらも、もっといえば、クーラーも、自家用車も、庶民では持てないものだったということであろう。
最初の、
「三種の神器」
としては、
「生活必需品で、本当に必要なもの」
というイメージが強く、その後の三種の神器は、今であれば、
「生活必需品」
といってもいいのだろうが、それよりも、
「ちょっとした贅沢品」
というイメージが強い。
クーラーも、それまでは扇風機、うちわなどがあって、涼をとっていた。
車というのも、電車やバスなどの公共交通機関があり、それを理容師ていた。あるいは、自転車というものもあっただろう。
と言える。
「カラーテレビも、白黒があるのだから、何も買い替えるまでもないだろう」
と言えるだろう。
しかし、子供が学校などで、奥さんが、近所の井戸端会議で、
「車を買った」
などとウワサをすれば、買いたくなるのも、当然のこと、昔であれば、
「ボーナスを使って、月賦で」
などと言っていたが、要するに、分割払いということだ。
もっとも、さらに昔でボーナスや月賦で買うというと、
「背広一着」
などという時代だったのだろう。
そんな時代を昭和という時代で過ごしていくと、その中に、
「マンガブーム」
というのがあった。
マンガというと、戦後などでいえば、
「紙芝居」
などというのが一世を風靡した。
もちろん、テレビもない時代、子供たちが遊んでいる公園に、自転車の荷台に、折り畳み式の紙芝居の台を載せて、ハンチングのような帽子をかぶった、いわゆる、
「紙芝居のおじさん」
というのがやってくる。
子供たちは、それを楽しみにしていて、紙芝居のおじさんの口上を聞くのが結構な楽しみだ。
すべての役を紙芝居のおじさんがやる。男も女の、若者も、年寄りもである。
しかも、ナレーションもおじさんがいうのだ。
そもそも、絵だけなので、ナレーションを入れないと、描写が分からない。ということになると、紙芝居は、それだけの話術と、声量がなければいけないということになる。
「紙芝居は、芸術家の集まり」
といってもいい。
紙芝居のおじさんだけではなく、絵を描く人もシナリオを書く人もいるだろう。
絵を描く人は、それなりに専門家に頼まないと無理だろうが、シナリオなら、漫画家か、それとも、紙芝居のおじさんがストーリーを考える。
そもそも、そんなに儲かるものでもないのだから、人件費をそんなに掛けられない。二人一組くらいがちょうどいい。
紙芝居も、一世を風靡する時代があったのだが、そのうちに。マンガの本というものが出るようになった。
漫画家というものが、作品を書いて、出版社に売り込みにいく。
途中からは、売り込みになんか言っても、編集者は、受け取ってはくれるが、実際にはその原稿は、見られることもなく、基本的に、ゴミ箱にポイである。
これは漫画家に限らず、小説家でも同じことだ。出版社への持ち込みは、素人作家には、それしかないのだ。
マンガにしても、小説にしても、出版社の取材する、
「新人賞」
などというイベントができてからは、持ち込みよりも、
「新人賞を取れるような作品」
ということで、それを目指して書いているのだろう。
しかし、新人賞に応募しても、募集要項の中に。
「審査についてのお問い合わせは、一切お答えできません」
と書かれている。
「これほど、胡散臭いものはない」
ということなのだろうが、それでも、
「新人賞を取らない限り、作家デビューの道はない」
ということである。
持ち込みをしても、どうせ、ゴミ箱に捨てられるだけである。
せめて、もし見てもらえるかも知れないとすれば、
「一度、プロとしてデビューしたり、他社で、出版した経験のある、プロと言えるような人でないと、見てもらうことさえできないだろう」
そんなプロであっても、
「一度デビューしたのに、何らかの理由があって、このようんあ鳴かず飛ばずの状態でいるということは、出版社の方としても、少し腰を引いてしまうことになるだろう」
紙芝居がすたれてきた頃、今度は、街に、
「貸本屋」
というものができてきた。
「本をお金を出して借りるのだ。本は、一度読んだら、あとは本棚にしまわれるか、チリ紙交換に持って行かれるかというところであるが、安く借りるのであれば、需要はある。店の方としても、一冊で何人もが借り手くれるのであれば、一冊売るよりもいいのかも知れない」
ということであった。
実際に、貸本を作っている業者から仕入れてきて、その本に、図書館のように貸出票を造り、それを貼り付けておいて、借りる人がいれば、そこに、日付と名前を書いておくということだったようだ。
今のように、コンピュータ管理ではなかったので、貸主と貸出票によるものだけだったので、
「借りっぱなしで、返しに来ない人だっていただろうに」
と考えるのは、今の人間だからだろうか?
「当時は今ほど、人間が信じられないことはなかった」
ということなのかも知れない。
そうでもなければ、今のように、コンピュータを使っての詐欺だのが横行することはなかっただろうといえるのではないだろうか?
しかも、今の時代は、昔では、
「ただ、気持ち悪い」
と言われていただけのことが、犯罪と認定されているものもたくさんある。
コンプライアンスや、ハラスメントというのもそうであろう。
昔は、まだまだ法も整備されていなかったり、男女差別なども平気であった。
「行き過ぎではないか?」
と思うほど、今では、男女差別になるからと、呼び名を変えたのも、結構ある。
「そこまでせんでも」
と思っている人は作者だけではあるまい。
とにかく、貸本屋などが流行った時代は、そういう意味では平和だったのかも知れない。
ただ、本や雑誌を買う金もなかったという貧しい時代だったということは間違いないだろう。
今だって、そうだ。
「豊かになった」
と言われているが、それはあくまでも、
「平均したら」
ということで、実際には、
「貧富の差が激しくなった」
あるいは、
「格差が大きくなっただけだ」
ということである。
そんな貸本屋が流行った時代、もちろん、パソコンなどというものもない。
そんな時代を知っている人は、ほとんどもう、現役を引退している人がほとんどであろう。
ただ、その人たちは、今では信じられないような、
「悠々自適な生活」
をしている人が多いだろう。
定年が、55歳で、年金も55歳から出た。
あるいは、60歳からしか出ないので、5年間、会社から、定年後の再雇用という形で、年金がもらえるまでを食いつなぐというものだ。
それが、今は5年、先送りになっている。
「定年が、60歳で、年金受給が、基本的には65歳」
同じように、定年後再雇用で、食いつなぐということであった。
しかも、今は、それが、またしても、どんどん、先送りということにされてしまう。
それによって、国民は、国から、
「年金など出せなくなるので、死ぬまで働け」
と言われているようなものだった。
実際に若者の多くは、
「どうせ、俺たちは年金を払ったって、それを使えることはないんだろうな」
と感じ、
「年金を払いたくない」
と思っている人がほとんどだろう。
しかし、普通の企業に入っていると、
「旧天引きなので、しょうがない」
というところであろう。
要するにそれだけ、
「国民は政府を信用していない」
ということだ。
忘れもしない、十数年前に起こった、
「消えた年金問題」
である。
当時の政府の、長年においての、ずさんな管理が、国民が収めた年金が、どこの誰のものなのかということが分からなくなっている。
そんなになるまで、誰も分からなかったのか、それとも、分かっていて、隠蔽できるとでも思っていたのか。ひょっとして、もう少し早く事実が露呈していれば、あそこまで大きな問題にならなかったかも知れない。
念と言っても、国民が、平等に、憲法に定められた、
「国民の義務」
である。
「勤労によって得たお金を、税金として国に治めているのに、それは年金として、老後の生活を支えるための、一種の積立貯金のようなものだ」
しかも、それは、納めた全額を使えるわけではなく、国民は、三大義務のうちの二大義務をまっとうしているのに、今度は、
「老後の生活のための貯え」
として使えるはずの年金という権利を行使できないのだ。
「義務を果たしているから、権利を主張できる」
ということのはずなのに、
「義務は果たさせて、今度は当たり前の権利」
を主張しようとすると、
「すみません。自分たちのずさんな長年の管理が、年金を消してしまい、年金を渡すことができなくなってしまいました」
ということが許されるというのだろうか?
それこそ、
「詐欺ではないだろうか?」
というのも、
詐欺集団による、
「金が儲かりまっせ」
という甘い言葉に乗せられて、
「よっし、じゃあ、投資しよう」
といって、お金を出せば、実はそれが詐欺で、出した金が返ってこないというのが、
「詐欺」
というものである。
しかも、この年金に関しては、
「国民の義務」
として、憲法上果たさなければいけない義務なのだ。
それを国民は真面目ん果たして。定年を迎えると、やっと、年金制度というもので、年金暮らしにおいての、
「悠々自適」
ともいえる暮らしができるというものだ。
しかし、実際には、形の上では、
「国家ぐるみで、国民に対して詐欺を行っていた」
ということになる。
義務を果たしている国民に対して、政府はそれに報いるどころか、国民を欺き、今度はその年金確保のために、
「年金支給年齢を引き上げる」
ということをしようとしている。
それが引いては、国民に対し、
「死ぬまで働け」
ということになるのだ。
それも、
「自分たちが年金を消した」
ということで、もっと悪びれてもいいはずなのに、まるで、命令であるかのごろく、そう、自分たちのミスを棚に上げて、国民を苦しめようとしているだけなのだ。
「消えた年金問題」
の時は、さすがに国民も気付いたのか、
「政権交代」
というものが起こった。
実際にその時の野党には勢いがあり、
「今の腐った政府に比べれば、どれほどマシか」
ということであった。
しかし、実際にやらせてみると、ロクなことはない。
「国民の期待を裏切り、最後には、自然災害で苦しんでいる人を慰問にいったはずが、喧嘩してしまうという始末」
であった。
そんな政府を見ると、
「さすがに前の政府がよかったか」
ということで、せっかく政権交代したのに、元に戻ってしまったということだ。
これは、
「大政奉還」
を行った徳川慶喜公は、できなかったが、その考えが、150年ほど経った、平成の世の中で現実となったというわけだ。
「今まで、政治運営の経験のない野党に、政治などできるはずがない。すぐに白旗を挙げて、政権は戻ってくる」
というのが、まんまと嵌ったのだ。
結局、一期、数年で、また、あの
「年金を消した」
という政府が復活してきたのである。
その後は、もう悲惨であり、
「ソーリの山ほどある疑惑」
というものを野党は攻撃するが、結局、口でいうだけで、ただ、犬が遠吠えをしているだけという、まるで、
「国会劇場」
という、
「筋書のある政府がごまかせるシナリオが最初から出来上がっているという、一種の出来レースで、茶を濁しているだけのことだ」
というのであった。
本当に、この時代の政府は、
「腐っている」
といっておいいだろう。
今も、
「世界的なパンデミックの対策への失敗」
あるいは、
「国家が勝手に、戦争している他国に、垂れ流すかのように、血税を支援金として送っているが、今の日本は、パンデミックによる国民生活の疲弊。そして、明日の生活もままならないという人がたくさんいるのに、それを放っておいて、さらには、物価高騰を引き起こしているのが、戦争継続であると分かっているくせに、戦争継続させようと、今度は武器まで供与しようとしている政府、いや。
「外国にいい顔をしたい」
という理由だけで、国民の血税と、自分の名誉欲のために使っている、このソーリを、
「詐欺師」
だといえるのではないだろうか?
「恥を知れ」
といいたいくらいである。
だからといって、対抗馬になるような人間が、政府与党にいるわけではない。こんな、総裁選の公約を、簡単に破るやつである。それに気づいたのは、
「ソーリになって最初の仕事である、組閣の時点で、その化けの皮は剥がれているのだった」
というのも、
「自分が疑惑を晴らす」
と言ったくせに、その、
「疑惑塗れのそのソーリ」
の息のかかった連中ばかりが、大臣に任命されているだけではないか。
そう考えると、
「ああ、今度のソーリは、元ソーリの傀儡政権か?」
ということになるのだった。
口では恰好いいことを言っているが、
「元ソーリの後ろ盾がなければ、何もできないということなのか?」
ということであった。
それでも、ソーリをやっているのは、
「こんなソーリであっても、誰もそれに代わる人がいない」
ということで、
「総裁選で雌雄を決しても、しょせん同じ党だから、結局何も変わらない」
といってもいいだろう。
何かを変えるには、前の時のように
「政権交代」
というものをするしかないのだった。
しかし、政権交代をしようとするには、今の与党はあまりにも情けない。
かつての、野党第一党は、すでに、分裂を繰り返し、その元が何であったのかということも分からないくらいになっていて、結果、
「どうしようもない団体」
になっているのだ。
確かに野党というのは、与党のまずい政策を自分たちの主張を元に、攻め立てるものであるが、実際には、攻め立てて、批判をするのだが、言葉が軽いのだ。
なぜかというと、言い方は、
「ただのオウム返しで、それについて、何ら自分たちの意見を言わない。だから、批判をすれば出てくるはずの、代替え案がまったく出てこない」
ということになるのだ。
そんな政府をいかに活用するか?
ということを考えれば、
「とにかく、国民が納得いくような意見を、ズバッと出さなければいけないものを、何も言えずに、批判だけするのなら、かつての、1期で終わったその時のことが頭をもたげ、結果、野党はもうダメだと言わせることになるだけだ」
というのではないだろうか。
貸本屋などがあった時代というと、確かに決して、世間は、豊かだったわけではない。いつからなのか、ほしいものは、基本的にお金を出せば、手に入るという時代になり、一般市民の生活水神は確かに上がった。
しかし、そのために、浮き彫りになってきた社会問題もたくさんあっただろう。
しかし、今の教育がどこまで教えているのか、確かにそんな諸問題は、教科書に乗ったりもしているのだろうが、実際に、そこにどれだけの時間が割かれるというのか、そもそも、教育問題は、そのカリキュラムがどんどん変わってきているので、どこまでが問題なのか? ということでもある。
たとえば、高度成長時代を支えてきたものによって、市民生活は安定してきたともいえるだろうが、それによって、起こった弊害も、決しておろそかにできる問題ではない。
特に、公害問題などは、深刻であった。
「四大公害訴訟」
などと言われるものはひどかった。
もちろん、それ以外にも、
「カネミ油症事件」
あるいは、
「森永ヒ素ミルク事件」
なども、
「四大公害訴訟」
に匹敵するのもので、その悪質なのは、
「自分たちが出す、工業廃水に因果関係があるかも知れない」
と言われながらも、それでも、垂れ流し続けたという、
「わかっていながらのその行動は、許されるものではないはずだった」
と言えるだろう。
しかも、裁判が継続している間も、被害者が増えていて、数十年経っても、解決しないという泥沼の状態になっていた。
いくら、
「裁判には時間が掛かる」
といっても、ここまでひどい状態が続いているというのは、許されることなのだろうか?
そもそも、何かのイベントを、国家ぐるみ、あるいは、世界レベルで行おうとすると、そのインフラを整えたりするのに、一時的な、景気は伸びることだろう。
「経済効果は、数百億円」
などという試算が盛り込まれるが、それは一体何に対してのモノなのか?
と言いたい。
例えば、4年に一度開催されるオリンピックなどであるが、確かに最初は、インフラ整備などで、公共事業が活性化され、一時的な失業率は減るだろう。
しかし、実際にオリンピックを行い、終わってしまうとどうだろう?
雇い入れた人がいらなくなる。そして、オリンピックのために、巨額の費用を使って建設したスポーツ施設も、最初は見積りでは、かなり大丈夫な状態だったのだろうが、実際にやってみると、
「結果として、誰も使わない」
ということになり、スタンドなどは、日々が入っていた李、草が生えてきたりということである。
しかも、維持費だけでもかなりのものだ。
維持するための、イベントもほとんど期待できないので、まったくの赤字である。その他の施設もどうなのだろうか?
ホテルや施設はほとんど誰も利用しない。
ホテルなどは、オリンピック期間中だったから、盛況だっただけで、終わってしまえば、誰も見向きもしないだろう。
そこから、どこかの観光地は遠いし、誰が、利用するというのだろう。
それを考えると、
「赤字以外の何者でもない」
ということだ。
さらに、問題は、オリンピック前に行ったことが問題になっている。
「外国からも人がやってくるから、外観上ふさわしくないものは、規制を厳しくする」
というものであった。
例えば、性風俗がなど、
「外国からの人たちの目障りになる」
などということで、規制を掛けられる。
名前も今までの業種として使えなくなり、嫌でも違う名前にして、その業種だけ、他の地域を名前が違っているということも、普通にあったりするのだ。
もっとも、地域によって、特殊な名前のものもあるのだが、名前というよりも、昔は普通の商店街であり、
「郊外に大規模な商業施設ができたことで、この街は完全に寂れた」
ということで、
「じゃあ、どういう街がいいのか?」
と考えた時、
「風俗街としての誘致」
ということを考えた。
「スナックやバーなどの飲み屋だったり、キャバクラや、ピンサロのような、女の子を表に出したお店。さらには、性風俗関係のお店」
などである。
そもそも、ソープなどの特殊浴場に関しては、条例で作ることができる場所は決まっていて、しかも、風営法では、
「新たな新規参入はできない」
ということになっているので、ソープを新規開店というわけにはいかないのだった。
だから、
「ソープ以外の一大風俗街が出来上がった」
のだが、オリンピックのために、
「外国からの人の外観上の問題」
ということから、せっかく、やっと商店街が賑わう方法を見つけ、これからという時、
「オリンピック招致」
などという彼らにとっては、
「死活問題」
となることで、どうしようもない状態に陥ってしまったのだ。
あれだけ夜になると、店が一斉に開店していたのに、1年もしないうちに、店はどんどんとなくなっていき、完全なゴーストタウンに変わってしまっていたのだった。
これほど悲惨なものはない。
「そう、オリンピック招致というのは、その土地の風俗、産業、文化というものに対し、土足で上がり込み、何も言わずに、破壊して去っていく」
という実に極悪なことであった。
「もうこんな思いはしたくない」
といって、街を捨てていく人も後を絶えなかったことであろう。
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